芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

内橋克人さん 原発に別れを

2016年05月21日 | 言葉
                                                        

…新しい原発安全神話、原発安全神話の改訂版、新版、これが台頭しつつあるということです。つまり技術が進めば、発展すれば、安全な原発は可能である、安全な原発は可能であるという、こうした安全神話の改定版、新たな装いをこらして、台頭しつつあります。
 例えば、地下深く原発を埋め込んで、洞窟の中で原子力発電を続ける、こういうたくらみ、こうした計画が進んでいるということであります。地下・洞窟・穴に原発エネルギーをつくる、装置をうずめて、なおかつ原発を持ち続けたいという、この意図の裏に何があるかです。それは、私たちの国が、核武装、核でもって再武装することが可能な、そういう潜在力を持ち続けようと、そうした政治的意図だと思います。
 合意なき国策が、ここまで進んできました。

ドイツ現代史の本から

2016年05月20日 | エッセイ
        


 だいぶ以前に読んだ本を引っ張り出して読み直している。書籍の題名と著者名、出版社名以外はほとんど失念しているので、新に読むのと同じである。
 その一冊は「ドイツ戦争責任論争」で、今から17、8年ほど前に、未来社から出版された。
 著者はヴォルフガング・ヴィッパーマンという方で、当時ベルリン自由大学の近現代史の教授であった。ヴィッパーマンの関心領域は現代政治と歴史政策、ファシズム論、ボナパルティズム論、第三帝国におけるユダヤとシンティ・ロマの迫害問題、ドイツ・ポーランド関係などである。
 ボナパルティズムは今も研究の対象となりうるのかとも思うが、要は現代のフランス人の中に残る憧憬であり、いつでも現代政治にすら影響を与えかねないものなのだろう。ボナパルティズムは王政の復古でもなくフランス革命の革命性を支持しつつも、ジャコバン派のロペスピエールのような恐怖政治は忌避し、まるで新王政のような英雄(皇帝ナポレオン1世)及びその家系を支持し、彼らの中央集権的独裁制をよしとしたものである。その支持者たちは公・国家への奉仕、自己犠牲、社会への忠誠をよしとした。この「公・国家への奉仕、自己犠牲、社会への忠誠」が曲者なのである。いま日本の自民党が憲法に明記したいのがこれである。
 ポナパルティズムはさほど大昔ではない18、9世紀の歴史上に登場した英雄的家系への反動的あるいは盲目的な憧憬であろう。これに似たようなエスタブリッシュ家系への憧憬がアメリカにもあるのではないか。例えばケネディ家、ブッシュ家など…。

 さて、ヴィッパーマンは1990年のドイツ再統一後のドイツ国民の政治意識の変化や、96年にアメリカの政治学者ダニエル・ゴールドハーゲンの「ヒトラーの意に喜んで従った死刑執行人たち」が、ドイツの歴史学と歴史政策に混乱と退化を引き起こしたことを批判的に整理した。ドイツ国民の歴史へ想いや変化、退化現象は、歴史家論争からゴールドハーゲン論争へと続いて、実は今日も続いているのである。
 さらに今日、欧州に、ドイツに流入した多くのシリア難民、アフガン難民たちと、イスラム国のテロの脅威と憎悪は、ドイツや欧州に、より危険な情況を生み出しているのではなかろうか。それは歴史修正主義がもたらす歴史政策、とりもなおさず現代の政治と政策への歪んだ反映である。
 ヴィッパーマンが「ドイツ戦争責任論争」で扱っているのは歴史学と歴史政策の退化と論争と、「歴史政策」についてである。歴史政策は歴史学と対極にあるという。
 歴史学は可能な限り客観的な歴史の描写であるに対し、歴史政策は歴史を材料に政治を行うことである。この歴史政策は戦後ドイツにおいてはナチズムに集中されている。なぜならナチズムは「過ぎ去ろうとしない過去」だからだ。「過去は現在と切り放せない。現代政治の問題が過去の歴史像に影響を与え、過去は現在の政治を規定している。」
 何が退化なのか。今や、ナチズムの過去の影から抜け出し、この恐るべき過去を「相対化」する試みが積み重ねられる。それは直接あるいは間接的に行われた。ナチズムの過去を直接的に相対化するためにどのような議論が出されたか。
 強制収容所ないしナチズムの犯罪の象徴となっている絶滅収容所アウシュヴィッツの否定である。アメリカの電気工学の教授、元親衛隊長、アマチュア歴史家、当時のガス室や死刑用具の製造業者、引退した財務判事、自称歴史家たち…彼らは、アウシュヴィッツでも他の収容所でも大量虐殺は全く行われなかったと主張した。またガス室は存在しなかったか、機能しなかったと主張した。
 それに反する事実を証明する資料は、ユダヤによる捏造と主張された。戦争責任の嘘も主張された。
「ヒトラーはソ連を攻撃したのではなく、直前に迫ったスターリンの攻撃に対して機先を制しただけの予防戦争なのである。」
「ルーズベルトはチェコスロバキアの政治家たちを唆し、ズデーデン・ドイツ人たちを弾圧するよう勧め、ポーランドもドイツへの攻撃を準備していた。」…
 読むうちに実に暗然たる気分になるが、歴史修正主義はどこにでもあるのである。この「アウシュヴィッツの大量虐殺はなかった」「嘘・捏造」論に象徴される歴史修正主義を、ヴィッパーマンは「もっとも拙劣かつ卑劣」と断じている。
 ナチズムの歴史を真面目に再検討しようとした80年代の成果を、すべて無に帰せしめようとしているからである。
 ドイツは「全体主義的な独裁制だったのか?」と懐疑的テーゼを示し、矮小な比較でドイツの全体主義をも矮小化するのである。
 またドイツの地理的位置を考慮すれば、ドイツは悲劇的な中間位置にあり、ドイツへの非難は免責されるべきものである云々…。「強いられた戦争」であり、それを考慮すルことで正当化できる行動だった云々…。またナチスドイツの戦争で開発された技術は、近代化にとって「いい面もあった」云々…。そして、ドイツ人は「ユダヤ人死刑執行人」ではなく「自信に満ちた国民」だったのであり、その正しいドイツの歴史を伝えることによって「自信に満ちた国民」を取り戻そうというのである。

 もう一冊は、マックス・ピカートが1946年に書いた「われわれ自身の中のヒトラー」で、みすず書房から1965年に刊行された本である。奥付には著者(訳者・佐野利勝)検印の小さなシールと、朱肉の滲みを防ぐパラフィン紙が貼られている。内容はまさに書名の通りである。
 ちなみに私は以前、競馬エッセイ「競馬から見えたこと」の冒頭に、マックス・ピカートの「神よりの逃走」を引用したことがある。
「人間は、もっぱら逃走に参加するその程度に応じて存在しているに過ぎない。ひとりの人間が生きている…そして彼は生きているというそのことによって逃走している。生きるということと逃走しているということが一つになっているのだ」

 さて、われわれ(国民、市民)の営みがヒトラーの出現を準備するのである。ナチ現象とはどういう相貌をしていたのか、記憶を喪失し、刹那的で、発展なき人間…なのである。
「現代のデモクラシーのなかでは、権力者の座にすわり独裁制を確立することのできる人間は笊ですくうほどある、とソレルが言っている。まつたくその通りである。しかし、そのようなことがおよそ可能なのは、ただ、現代社会では誰もが無目的にどんなところへでもつるつると滑ってゆくからなのだ。かくて誰かがたまたま国家権力へと滑り寄る。当人自身がまったく無自覚に国家権力へと滑り寄ることさえしばしばある。」 
 このピカートの「われわれ自身の中のヒトラー」は、また稿を改めて続けたい。

原理主義について

2016年05月19日 | コラム
                    

 どこの地域や国を発祥とするものであっても、あらゆる宗教は非論理的で非科学的で、不合理なものである。
 その宗教は時に押しつけがましく、ときに迷惑となって身に迫ることもある。しかし私は毫も人様の信仰を否定するものではない。ただそれらとは距離を置くだけである。
 かつて江戸の吉宗の時代、八戸の町医者・安藤昌益は、宗教を「戦争の元」と断じた。
 確かに宗教は世界各地の「戦争の元」であった。「迫害の元」ともなった。だから、ときに宗教は危険である。特に狂的な純粋さに浸された信仰は危険である。

 イスラム原理主義、キリスト教原理主義、ユダヤ原理主義、そして信仰とは懸け離れた自由市場原理主義も。昔から、そして今も原理主義は脅威である。イスラム原理主義のテロも、一国家の経済規模を遥かに凌駕するまでに巨大化したグローバル企業を利するための自由市場原理主義もあまりにも危険である。
 自由市場原理主義のひとつの発現形態である「カジノ資本主義」は全く無関係な市民生活を破壊する。ヘッジファンドが招いた金融危機、リーマンショックが招いた世界的経済危機…。
 また自由市場原理主義の手段ともなったWTO、TPPは、南北問題の溝を拡げ、飢餓を招き、貧困を再生産し、格差を拡大し、地球環境も、その土地の伝統も文化も破壊し踏みにじる。かつてフランス農民同盟のジョゼ・ボブェとフランソワ・デュフールが叫んだことは正しかったのだ。「地球は売り物じゃない‼」

 日本にはいつの頃からか神道があり、古代に仏教が流入した。仏教には教義があるが、神道に教義はない。
 日本にも原理主義がある。日本の歴史上、ときどき露出し、ときに突出して暴発する。南北朝時代、幕末の尊王攘夷運動の時代(※)、それに続く明治維新、下って昭和維新のテロと戦争に直走った時代。それは日本の狂気の時代だ。
(※CMに萩の町が映し出され「そして吉田松陰の教え…」などと言う。すでに何度も書いたが、松陰は純粋には違いないが、軽躁なテロリストであろう。)

 原理主義は危険である。特に政治やナショナリズムと結びつくと、より危険となる。
 原理主義的日蓮主義がナショナリズムや皇国史観と結びつき、極右的日蓮主義となり、井上日召のようなテロ集団の血盟団を育て、国柱会の主宰者・田中智学は「八紘一宇」(※)という誇大妄想的スローガンを作り、暴走する軍部と政権がそれを叫んだ時代であった。
 このブログに一週間前に投稿した「日本の原理主義」と、だいぶ以前に紹介した「全体主義、原理主義」を、もう一度お読みいただければ幸いである。


(※ちなみに自民党の三原じゅん子が、いまこの時代に「八紘一宇」を叫んでいる。自民党は、ある原理主義に乗っ取られているらしい。また公明党はその母体から、いつでも狂的日蓮主義に変異する可能性がある。

                                                         

競馬エッセイ 強い世代、弱い世代

2016年05月18日 | 競馬エッセイ

 今年の皐月賞とダービーを、かなり強い勝ち方をしたドゥラメンテが、放牧先のノーザンファームで両前脚を骨折したという。さほど重傷ではないらしいが、手術を要するらしい。復帰は来春4月、5月というが、間に合って6月の宝塚記念だろう。無理をせず、キングカメハメハの後継種牡馬としてスタリオン入りしたほうが良いかもしれない。くれぐれも凱旋門賞などには行かないで欲しい。また賞金額に惹かれてドバイに行ったり、GⅠの名に惹かれて香港のレースなどに行かないで欲しい。どうせろくなことはないし、競馬からファンが離れるばかりだろう。
 菊花賞馬ソングオブウインドも香港に遠征し、体調を崩した上に無理に出走させ、故障した。これがソングオブウインドの最後のレースになった。日本の競馬ファンは、二冠馬メイショウサムソンを破った後の、彼のレースを見ることができなかったのである。
 
 競馬には強い世代と弱い世代がある。2004年生まれ、2007年のクラシックは、ウオッカとダイワスカーレットの2頭の牝馬が傑出していたが、牡馬のレベルは低かった。何しろ64年ぶりに牝馬にダービーを勝たれてしまったのだから。
 この年、皐月賞を勝ったヴィクトリーも、2着のサンツェッペリンも大したことはなく、おそらくこれを見てウオッカ陣営はダービーを勝てると思ったに違いない。ヴィクトリーは史上最弱の皐月賞馬ではないか。サンツェッペリンは単なる早熟馬だったに違いない。
 無論、ダービーでのウオッカは強かった。2着のアサクサキングスは秋に菊花賞を勝ったが、古馬となって、強いという印象のレースはなかった。
 ウオッカとスカーレット以外の牝馬もさほど強くない。オークスを勝ったトールポピーはその後1勝もできず、2着のエフティマイアも典型的な早熟馬だった。
 次の年の2005年生まれ、2008年のクラシック世代のレベルも相当低かった。皐月賞馬キャブテントゥーレは、その後GⅢの朝日チャレンジCを二度勝ったが、GⅡもGⅠも良いところなく敗れている。
 新馬勝ちの1勝のみで、共同通信杯や弥生賞2着で皐月賞に出走し、2着に好走したタケミカヅチは、古馬となってダービー卿チャレンジTに1勝したのみで引退していった。生涯成績は2勝のみである。
 この年の菊花賞はオウケンブルースリが人気に応えた。古馬となって京都大賞典に勝ったのみで、後は重賞レースの常連ではあったが、あまり良いところも見せず引退していった。
 菊花賞2着のフローテーションも故障と脚部不安につきまとわれ、一年に一戦しかレースに出られず、引退していった。
 2006年生まれ、2009年のクラシック世代は、牝馬のブエナビスタが傑出していたが、この年も牡馬のレベルは相当低かった。
 アンライバルドは皐月賞までは強かったが、その後は惨敗し続け、古馬となって金鯱賞ごときのレースも勝てずに消えていった。父のネオユニヴァースも競走生命は短かった。おそらく脚元や体質が弱く、どちらかというと早熟型なのだろう。アンライバルドの母の父は晩成型のサドラーズウェルズだが、その底力や成長力は伝わっておらず、全く似なかったのだろう。
 ちなみに種牡馬ネオユニヴァースやアグネスタキオンは、どうも体質が弱く脚部不安がつきまとう。産駒もその虚弱体質を受け継ぎ、競走生命の短い馬が多いように思う。彼等がレースに出走する度に、その脚元が気になる。
 この年のダービー馬ロジユニヴァースも父がネオユニヴァースだが、常に脚部不安がつきまとい、ダービー後4戦して勝てなかった。そのうちの2戦は札幌記念である。札幌記念ごときも勝てなかったのである。
 この年の菊花賞馬スリーロールスも、菊花賞後に有馬記念に挑んだが、故障を発生し競走を中止した。スリーロールスは競走能力を喪失し、そのまま引退した。その父ダンスインザダークの長距離の能力とともに、脚部の弱さも受け継いだのである。
 菊花賞で2着になったフォゲッタブルは、その後ステイヤーズSとダイヤモンドSを勝って4勝目をあげたが、引退まで19連敗、しかもほとんど惨敗だった。彼もダンスインザダーク産駒で、長距離の能力を受け継いだ。あまり脚部に不安はなかったが、脚を痛めるほどのスピードがなかったのである。トーセンジョーダンは2011年の秋の天皇賞を勝ったが、引退時期を誤り、その後は無残な成績を曝した。
 2007年生まれの世代はあまり強い印象がない。皐月賞のヴィクトワールピサ、ダービーのエイシンフラッシュ、菊花賞のビッグウィーク…いずれも強いという印象はない。ヴィクトワールピサはよく凱旋門賞に挑んだものである。その後の有馬記念を勝っているが、2011年のジャパンCも有馬記念も惨敗した。ローズキングダムはジャパンCを勝っているが、その後の成績は見るも無残である。
 2008年生まれの世代は強かったと思う。規格外の傑出馬オルフェーヴルが出た。そのため万年2着に泣いたウインバリアシオンも強い。何しろ相手が規格外だったのだ。
 2009年生まれも強い世代である。牡馬では、おそらくダービーを勝ったディープブリランテより、ゴールドシップのほうが圧倒的に上だろう。またディープブリランテよりフェノーメノの方が上だったのではないか。この世代にはスピルバーグもいる。ジャスタウェイが世界ランキング1位になったのには驚きだが。私は口が悪い。そのニュースを聞いた際、思わず「ジャスタウェイごときが…」と失礼な言葉を口走ってしまった。
 牝馬には何と言っても、抜けた存在のジェンティルドンナがいる。そのため万年2着に甘んじたヴィルシーナもいる。
 ディープブリランテがダービー後の夏、イギリス・アスコットのキングジョージ6世&クイーンエリザベスSに遠征したことを残念に思う。この無理が屈腱炎を発症させ、菊花賞を断念、さらに引退せざるを得なくなったのだと思うのだ。
 2010年生まれの世代はロゴタイプ、キズナ、エピファネイアがいるが、この世代は強いのかどうか、実はよく分からない。ロゴタイプは皐月賞後1勝もしていない。キズナもピリッとしない。エピファネイアはジャパンCに勝ったが、有馬記念でジェンティルドンナに完敗し、賞金額につられてドバイワールドCに遠征し、最下位に終わった。
 2011年生まれの世代のことである。昨年2014年のダービー後、私はレベルの低い世代ではないかと書いた。皐月賞馬イスラボニータはフジキセキ産駒なので、限界距離が2000から、もっても2400メートルまでだろう。相手がオークス馬のヌーヴォレコルトとは言え、1800メートルの中山記念の5着は情けない。2010年生まれの皐月賞馬ロゴタイプも、このレースで2着に敗れている。
 ダービー馬ワンアンドオンリーは、神戸新聞杯は勝ったものの、その後は良いところがない。香港遠征などしなくても良かったのではないか。宝塚記念の11着は何が敗因だったのだろう。宝塚記念が菊花賞以来のレースだったトーホウジャッカルにも大きく離されている。実力的にはトーホウジャッカルのほうが上なのだろう。
 ところで宝塚記念のゴールドシップはどうなのかというと、やはり現役最強馬、最凶馬なのだ。こういう個性的な馬はいい。可愛いくらいだ。
 ちなみに近年の競馬は牝馬のほうが優秀である。ウオッカ、ダイワスカーレット、ブエナビスタ、アパパネ、ジェンティルドンナ、ハープスター…。これからもその傾向は続くのではなかろうか。


        (この一文は2015年7月月24日に書かれたものです。)

弔詞(詩)・弔文

2016年05月17日 | 言葉
 演出家の蜷川幸雄氏が亡くなった。多くの演劇関係者がその死を悼み、遺影に向かって語りかけ、弔辞を読み上げる姿やインタビューに応える様子がテレビに映されていた。
 弔辞や弔文に評論はふさわしくないが、好きな弔詞や弔文がある。
 ひとつは学生時代に読んだものである。確か筑摩文学大系であったか。中原中也、小林秀雄らのドロドロの愛憎や、それを冷静に書き留めた二人の共通の友人、大岡昇平の本である。
 中也の恋人を小林秀雄が奪った。女が中也の元を去ったといっていい。中也はただ「口惜しい」と言っただけである。小林もその彼女とは、じきに別れている。中原中也と小林秀雄にはそんな経緯があった。歌の歌詞ではないが、若いという字は苦しい字に似ていたのである。
 中也の死に寄せた小林秀雄の弔詞は、今でも空で言えるほどである。
 もうひとつは、エリック・サティの死に際し、ジャン・コクトーが寄せた一文である。これもいかにもコクトーらしい。

 小林秀雄の中原中也への弔詞 (詩)「死んだ中原」


  君の詩は自分の死に顔が
  わかつて了つた男の詩のやうであつた
  ホラ、ホラ、これが僕の骨
  と歌つたことさへあつたつけ
  
  僕の見た君の骨は
  鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたててゐた
  君が見たといふ君の骨は
  立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな

  ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
  言ふに言われぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
  たうたう最後の灰の塊りを竹箸の先で積もつてはみたが
  この僕に一体何が納得出来ただろう

  夕空に赤茶けた雲が流れ去り
  見窄らしい谷間ひに夜気が迫り
  ポンポン蒸気が行く様な
  君の焼ける音が丘の方から降りて来て
  僕は止むなくの娘やむく犬どもの
  生きてゐるのを確かめるやうな様子であつた
  
  あゝ、死んだ中原
  僕にどんなお別れの言葉がいえようか
  君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
  僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

  あゝ、死んだ中原
  例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
  何んの不思議な事があるものか
  僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

 
 サティが死んだ。コクトーが書いたのは詩のような散文であった。そこにルソオもラディゲも出てくる。年齢は異なるが、同時代のパリに生きた芸術家たちの交流と影響と尊敬がうかがえる。
 ジャン・コクトーのエリック・サティへの弔文「エリック・サティの手本(抜粋)」(佐藤 朔 訳)

 僕はエリック・サティを宗教的に賛美し、愛し、そして助けた。…彼が死んだ翌日、税関吏ルソオ(※)がルウヴル博物館に入った。天国で彼らが会合したことを祝うためだろう。
 迅速と器械の時代に、この二人の全部手製の作品の持つ堅実な優雅さは、どんなに僕の心を動かしたことだろう。もう一つの特徴が彼らを結びつける。わが作曲家も、わが画家も自分を決して掘り返したりしない。彼らは決して多くの偉大な事物の形を変えてしまうような、美に対する致命的な偏見によって、彼らの本来の美を傷つけることはしない。
 水の中の影を愛するのは、フランスの悪習だ。このためフランス人は、本当の形を疎かにする。ところが、わが老大家は、ナルシシスム特有の、一時的な恩恵を蒙ることを恐れて、自分自身に向かってしかめ面をした。これは不注意な賛美者にたいして、彼を守るすぐれたやり方である。
 …
 彼は初めから守りにくい立場に拠っている。彼は天使のような忍耐を持っていた。だから一九一七年から一九二四年にかけて、僕たちは園芸家の云う「遅咲き」のように見えた。人々がひからびたと思っていたサティは、花や果実を一杯身につけていた。その素直な枝ぶりは、あまりに多くの人工にあきた青年たちを薫らし、その滋養となった。
 レエモン・ラディゲは十五歳から二十歳まで、エリック・サティは五十四歳から五十九歳まで、同じ年齢だった。そうして同じ路を歩いていた。その上、アンデルセンの「物語」とともに、ラディゲの本は、アルクィユの隠棲者の唯一の愛読書となった。
 僕はこうした仕事仲間が待っている場所で、早く彼らと再会したいと思っている。

            (※)アンリ・ルソオ 彼は税関吏だった。
 
 ちなみにコクトーは二人の夭逝した天才、ラディゲとロートレアモンについても書いているが、これも良い、実に良い。
 また「旅窓の夢 ~遥かなるコミューン」にも書いたが、私擬憲法「五日市憲法」を起草した千葉卓三郎の死を悼む、深沢権八の弔詞も胸を打つものであつた。


    悼 千葉卓三郎
  懐へば君の意気は風濤を捲き
  郷友の会中もつとも俊豪
  雄弁は人推す米のヘンリー
  卓論は自ら許す仏のルッソー
  一編曾て草す済時の表
  百戦長く留まる報国の力
  悼哉(とうさい)英魂呼べど起たず
  香烟空しく鎖す白楊の皋(こう)