🌸🌸『いま命輝いて~庭に咲くユリの花が教えてくれ』🌸🌸
私が足の異変に気付いたのは、小学6年生の秋の運動会の練習の時でした。
近くの病院では原因が分からず、学校を休んで熊本市内の大学病院🏥に行きました。
レントゲン撮影⚡️の写真を見て先生🍀が言いました。
「脊髄に原因があるようです」
と。
そのあと先生は両親🌸を呼び、
とても難しい手術であることを告げました。
母は
「1%でも治る可能性🌸があるなら」
と手術🔪を先生にお願いしました。
術後の麻酔から目が覚めた私は、足を動かそうとしました。
でも、どう動かせばいいのか分かりません。
「先生は足を切ってしまいなはったとね?」
と母に聞きました。
母は急いで病室を出て先生🍀を呼びに行きました。
先生は、私の2本の足を私に見える高さまで持ち上げました。
でも足はもちろん、胸から下の感覚もすべてありませんでした。😵
私は当時12歳。
この現実を受け止めきれず、ずっと泣き😭続けました。
「どんな病院に入院しても、私の足はもう二度と動くようにはならない」
と気付き、私は先生🍀に退院を申し出ました。
退院の許可が出て、私は久しぶりに家に帰ることになりました。
タクシーが家に着くと、父は私を抱いて座敷まで連れていってくれました。
そこには、近所の人たちが退院祝いのごちそうを持ち寄って集まってくれていました。
皆さん口々に、
「千穂ちゃん、よう帰ってきたねぇ」
「きつかったねぇ」
と慰めてくれました。
久しぶりに聞く阿蘇弁でした。
私の目から涙がとめどなくあふれました。
「歩けない体になった私を、みんなこんなにも温かく迎え入れてくれるなんて…
帰ってきて本当に良かった」
と思いました。
それからは家で寝たきりの生活が始まりました。
13歳からの4年間、私はほとんど家から出ませんでした。
「私は生きていてもいいのかな。
迷惑をかけるだけじゃないかな」
と、ずっと悩み続けました。
死ぬことも考えました。
でも両親が悲しむことを考えたら、死を選ぶことはできませんでした。
父はいつも言いました。
「障がいがあっても千穂子は俺の娘だ。
俺たちのためだけでよかけん、心まっすぐな人間になって欲しか」
「障がいは悪でも恥でもなか。
胸を張って生きていけ」
こんな言葉を胸に、私はこの体を恥と思わずにこれまで生きてくることができました。
現在も「この障がいさえも私の個性」と胸を張って生きています。
まだ生きるのがつらかった16歳のある日のこと、庭に白いユリの花が咲いているのを見つけました。
「この花は去年もこの場所で咲いていた。
そして去年と同じようにきれいに咲いている」
と思いました。
そして気が付きました。
「この花は、誰かにほめられようとほめられまいと、人知れず今日咲くこの日に向けて頑張ってきた。
人知れず毎日生きる努力を続けることが大事なんだなぁ」
と。
私はこのユリの花から、
「与えられた場所でひたむきに生きる」
ことの大切さを教えてもらったのです。
私は胸から下の感覚がなく、車椅子で生活をするようになりました。
そして20歳の時、一人暮らしを始めました。
そんなある日、お見合いをすることになりました。
相手の男性は、両脚の股関節がなく、歩くのが不自由な方でした。
初めて会った人なのに、彼と目が合った瞬間、
「私はこの人と結婚するな」
と思いました。
そして結婚💒しました。
数か月後、私はお腹に一つのいのち💓を宿しました。
しかし病院🏥の先生🍀からは、
「母胎が出産まで持つか分からない。
胸から下が麻ひしているお腹の中で正常に赤ちゃんが育つかどうか保証🌸できない」
と、中絶⚡️を勧められました。
妊娠したことを話すと誰もが反対💢しました。
でも私は「それって、なんか違う」と思いました。
「障がいを持って生きる人生は、まんざらでもない」
と実感💓していたからです。
父も電話で、
「千穂子の体のほうが大事かけん、赤ちゃんは産まんでほしか」
と泣きな😭がら言いました。
私も泣き😭ながら言いました。
「だってお父さん、
『障がいがあっても胸を張って☀️生きていけ』
といつも言ってくれてたじゃなかね。
お腹にいる赤ちゃんに障がいがあってもなくても関係ない。✊
私のところにやって来たいのち💓だから、私は守れるだけ守りたい✊」
と。
でも父はなかなか納得🌸してくれませんでした。
しかし、夫だけは賛成💕でした。
「産みたかったら産んだらよか。
障がいがあっても、それはそれでよか。
その時は『仲間🍀が一人増えた』と思って力✊を合わせて生きていこう」
と。
私はお腹の赤ちゃんに語りかけました。
「お父さんが産んでもいいって。
二人で頑張ろうね😊🎵」
と。
奇跡✨が起きました。
お腹の中で赤ちゃんは10か月間無事🍀に育ち、しかも自然分娩🌸で産まれてきたのです。
赤ちゃんの「オギャー🎵」という産声(うぶごえ)を聞いた時、
私は天を仰ぎ🙏
「ありがとうございました💕」
と感謝🌸しました。
私たちは赤ちゃんに、「さおり」と名前を付けました。
さおりが11歳の誕生日🎂を迎えた夜のこと。
「お母さん、私が生まれた時、嬉しかった?」
とさおりが聞いてきました。
私は「そりゃ嬉しかったよ」と答えました。
そして、さおりが生まれるまでのいきさつや、周りの人たちの心配をすべて正直🍀に、言葉を選びながら話しました。😊
さおりは、最後まで黙って聞いていました。
そして思いがけない言葉🍀を言いました。
「お父さんお母さん、私はどの家🏠よりも、この野尻家に生まれてきて本当によかった💕」
わずか11歳の娘が、障がいを持つ私たち親🍀に向かってそう言ってくれたのです。😍
幼い娘から「高い高いしてよ」とせがまれても、
夫はそれをしてあげられる体を持っていませんでした。
「私たち、親🍀になって本当に良かったのかな」
と、二人で悩んだ🌀ことが何度もありました。
でもいつも、
「さおりが『私は愛されている』と実感💓できる育て方をしようね🎵」
と二人で誓って✨きました。
その私たちの気持ち💓を、さおりはしっかりと受け止めて育ってくれていました。🍀
私はその夜、嬉しくて嬉しくて😍眠れませんでした。💕
(「みやざき中央新聞」R1.11.11 野尻千穂子さんより)
私が足の異変に気付いたのは、小学6年生の秋の運動会の練習の時でした。
近くの病院では原因が分からず、学校を休んで熊本市内の大学病院🏥に行きました。
レントゲン撮影⚡️の写真を見て先生🍀が言いました。
「脊髄に原因があるようです」
と。
そのあと先生は両親🌸を呼び、
とても難しい手術であることを告げました。
母は
「1%でも治る可能性🌸があるなら」
と手術🔪を先生にお願いしました。
術後の麻酔から目が覚めた私は、足を動かそうとしました。
でも、どう動かせばいいのか分かりません。
「先生は足を切ってしまいなはったとね?」
と母に聞きました。
母は急いで病室を出て先生🍀を呼びに行きました。
先生は、私の2本の足を私に見える高さまで持ち上げました。
でも足はもちろん、胸から下の感覚もすべてありませんでした。😵
私は当時12歳。
この現実を受け止めきれず、ずっと泣き😭続けました。
「どんな病院に入院しても、私の足はもう二度と動くようにはならない」
と気付き、私は先生🍀に退院を申し出ました。
退院の許可が出て、私は久しぶりに家に帰ることになりました。
タクシーが家に着くと、父は私を抱いて座敷まで連れていってくれました。
そこには、近所の人たちが退院祝いのごちそうを持ち寄って集まってくれていました。
皆さん口々に、
「千穂ちゃん、よう帰ってきたねぇ」
「きつかったねぇ」
と慰めてくれました。
久しぶりに聞く阿蘇弁でした。
私の目から涙がとめどなくあふれました。
「歩けない体になった私を、みんなこんなにも温かく迎え入れてくれるなんて…
帰ってきて本当に良かった」
と思いました。
それからは家で寝たきりの生活が始まりました。
13歳からの4年間、私はほとんど家から出ませんでした。
「私は生きていてもいいのかな。
迷惑をかけるだけじゃないかな」
と、ずっと悩み続けました。
死ぬことも考えました。
でも両親が悲しむことを考えたら、死を選ぶことはできませんでした。
父はいつも言いました。
「障がいがあっても千穂子は俺の娘だ。
俺たちのためだけでよかけん、心まっすぐな人間になって欲しか」
「障がいは悪でも恥でもなか。
胸を張って生きていけ」
こんな言葉を胸に、私はこの体を恥と思わずにこれまで生きてくることができました。
現在も「この障がいさえも私の個性」と胸を張って生きています。
まだ生きるのがつらかった16歳のある日のこと、庭に白いユリの花が咲いているのを見つけました。
「この花は去年もこの場所で咲いていた。
そして去年と同じようにきれいに咲いている」
と思いました。
そして気が付きました。
「この花は、誰かにほめられようとほめられまいと、人知れず今日咲くこの日に向けて頑張ってきた。
人知れず毎日生きる努力を続けることが大事なんだなぁ」
と。
私はこのユリの花から、
「与えられた場所でひたむきに生きる」
ことの大切さを教えてもらったのです。
私は胸から下の感覚がなく、車椅子で生活をするようになりました。
そして20歳の時、一人暮らしを始めました。
そんなある日、お見合いをすることになりました。
相手の男性は、両脚の股関節がなく、歩くのが不自由な方でした。
初めて会った人なのに、彼と目が合った瞬間、
「私はこの人と結婚するな」
と思いました。
そして結婚💒しました。
数か月後、私はお腹に一つのいのち💓を宿しました。
しかし病院🏥の先生🍀からは、
「母胎が出産まで持つか分からない。
胸から下が麻ひしているお腹の中で正常に赤ちゃんが育つかどうか保証🌸できない」
と、中絶⚡️を勧められました。
妊娠したことを話すと誰もが反対💢しました。
でも私は「それって、なんか違う」と思いました。
「障がいを持って生きる人生は、まんざらでもない」
と実感💓していたからです。
父も電話で、
「千穂子の体のほうが大事かけん、赤ちゃんは産まんでほしか」
と泣きな😭がら言いました。
私も泣き😭ながら言いました。
「だってお父さん、
『障がいがあっても胸を張って☀️生きていけ』
といつも言ってくれてたじゃなかね。
お腹にいる赤ちゃんに障がいがあってもなくても関係ない。✊
私のところにやって来たいのち💓だから、私は守れるだけ守りたい✊」
と。
でも父はなかなか納得🌸してくれませんでした。
しかし、夫だけは賛成💕でした。
「産みたかったら産んだらよか。
障がいがあっても、それはそれでよか。
その時は『仲間🍀が一人増えた』と思って力✊を合わせて生きていこう」
と。
私はお腹の赤ちゃんに語りかけました。
「お父さんが産んでもいいって。
二人で頑張ろうね😊🎵」
と。
奇跡✨が起きました。
お腹の中で赤ちゃんは10か月間無事🍀に育ち、しかも自然分娩🌸で産まれてきたのです。
赤ちゃんの「オギャー🎵」という産声(うぶごえ)を聞いた時、
私は天を仰ぎ🙏
「ありがとうございました💕」
と感謝🌸しました。
私たちは赤ちゃんに、「さおり」と名前を付けました。
さおりが11歳の誕生日🎂を迎えた夜のこと。
「お母さん、私が生まれた時、嬉しかった?」
とさおりが聞いてきました。
私は「そりゃ嬉しかったよ」と答えました。
そして、さおりが生まれるまでのいきさつや、周りの人たちの心配をすべて正直🍀に、言葉を選びながら話しました。😊
さおりは、最後まで黙って聞いていました。
そして思いがけない言葉🍀を言いました。
「お父さんお母さん、私はどの家🏠よりも、この野尻家に生まれてきて本当によかった💕」
わずか11歳の娘が、障がいを持つ私たち親🍀に向かってそう言ってくれたのです。😍
幼い娘から「高い高いしてよ」とせがまれても、
夫はそれをしてあげられる体を持っていませんでした。
「私たち、親🍀になって本当に良かったのかな」
と、二人で悩んだ🌀ことが何度もありました。
でもいつも、
「さおりが『私は愛されている』と実感💓できる育て方をしようね🎵」
と二人で誓って✨きました。
その私たちの気持ち💓を、さおりはしっかりと受け止めて育ってくれていました。🍀
私はその夜、嬉しくて嬉しくて😍眠れませんでした。💕
(「みやざき中央新聞」R1.11.11 野尻千穂子さんより)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます