🌸🌸描こうとすれば、遠ざかる🌸🌸
そのことだけは、はっきりとわかっていた。😊
マンション🏢に帰ってきてから、僕はすぐに制作を始めた。
目の前には、花🌸と画仙紙🗒だけだ。
乾いた筆🖊を持ち上げ、筆洗につけ穂先を湿らすと、水💧の中にいくつもの気泡が現れた。
筆がわずかに重くなる。
その重みに懐かしささえ感じた。💓
水💧を思いっきりすった筆の穂先を梅皿の縁で整え、筆をとがらせた。
筆🖊は心💓と一緒に少しずつ研ぎ澄まされていく。✨
最後に、布巾で穂先の中に残った余分な水分💧を吸いとると、
自分がこうして筆をとる瞬間⚡️を待ち望んでいたことに気がついた。🌟
人差し指と中指は筆管の感覚🌸を確かめている。
僕は一度、筆を梅皿に立て掛けて置いた。
陶器を軽く叩く、カタンという音🎵の後にやってきたのは、
筆の所作に沿って研ぎ澄まされた感覚✨だった。
僕はいま確かに絵師🖊なのだ。
だがいま、大切なことは描くことではない。
二つの目👁で花🌸を眺め、同じように自分の心💓を眺める👁ことだ。
大切🍀なものを眺めていた余韻は今も続いている。
菊🌸も、心もいまはっきりと見える。
湖山先生は、花🌸に教えを請いなさい🙏、と繰り返し🔄言っていた。
僕は、湖山先生の言葉🍀に従って、花🌸に思いを傾けた。
白い菊を見つめていると、白い菊もまたこちらを見て👁いるような気持ち💓になった。
「どうしたらいいんですか?」
と、僕は花🌸に向かってつぶやいていた。
花は何も答えてくれなかった。
花🌸はただ花瓶の縁に寄りかかって、退屈そうにうつむいていた。
僕はふいに、首を傾けて花を眺めた。
すると、まるで違う角度から花🌸が見え、
花もまた違う角度に移動した僕を見ているような気がした。👀
僕はうつむいた花🌸の横顔を眺めた👀。
それは正確には横顔ではないかもしれなかった。
ただ、僕の中では確かに花🌸は、僕から目をそらし、
そっぽ向いているようで、少しつまらなそうに見えた。
僕は花🌸を手に取った。
そして、隅から隅まで花を眺め、
花の重さを手に感じ💓、優しく丁寧に花瓶に戻した。
花は少し落ち着いているように見えた。😊🎵
描くことを忘れるくらい、じっくり👀と花を見つめていると、
花はまるで、くつろいで💕いるようにも思えた。
僕は花に向かって、微笑んで😊みた。
すると、花🌸もまた微笑んで😊いるように見えた。
形は何一つ変わっていない。
ただ微笑んで見えるのは、僕の心💓の内側に微笑と同じような心💓の動きが立ち現れているだけだ。
けれども、それは花🌸と同じ形になって花に投影され、心💓の移り変わりと一緒に消えていく。
目の前にある小さな命💓に、自分の心💓が呼応🌸しているのだ。
それはあまりにも微細で、感じ取ろうとしなければ見逃してしまいそうな細やかな変化⚡️だった。
僕は花にじっと目👁を凝らした。
そして、目😑を閉じた。
真っ白な空間の中に、一本の菊🌸だけが浮かんでいる。
それは僕の心💓の内側にある僕だけの菊🌸の姿だ。
そして目を開けると、目の前にある生きている菊🌸は、
その姿とはほんの少し異なって⚡️いる。
菊🌸は僕の心💓の中にあるそれとは、違う存在感✨で、僕の目👁の前にある。
この瞬(またた)く間に、花🌸の心💓は移ろい、僕の心💓も移ろっていたのだ。
現象🌸に対して手は遅すぎる、と湖山先生🍀が言いたかったのは、このことだった。🌟
命💓としての花🌸も極限のところでは、刻々と姿を変えて⚡️いるのだ。
確かに、僕らの手は現象🌸を追うには遅すぎる。😵
目👁が極まれば極めまるほど、その違いは大きくなる。
命💓とは、つまるところ、
変化し続けるこの瞬間⚡️のことなのだ。
では、どうすればいいのか。🍀
考えたときにすぐに思い浮かんだ言葉🍀は、やはり湖山先生のあの、
「花🌸に教えを請いなさい」
という言葉🍀だった。
湖山先生は花🌸を描くとは言わなかった。
それは現実🌸を描くことでも、現象を追跡⚡️することでもない。
ましてや、技の中にある形式化された独りよがりな花🌸を描くことでもない。✊
花に教えを請う🙏ということは、
一枚の絵🎨を花🌸と一緒に描く🖊とうことだ。
花に、絵を描かせてもらう、と言ってもいい。
僕は一輪の白い菊🌸を愛おしく💕思った。
ほかにはどこにもない美しい花🌸だと思い、
とても大切🍀なものが、目の前に置かれているのだと思った。
自分以外の命💓がそこにあるのだという確かな実感💓を、目を通して感じて💕いた。
どうしてずっと気づかなかったのだろう?😄
たった一輪の菊🌸でさえ、
もう二度と同じ菊🌸に巡り会うことはないのだ。
たった一瞬⚡️ここにあって二度と巡り会うこともなく、
枯れて、失われていく。
あるとき、ふいにそこにいて、
次の瞬間⚡️には引き止めることさえできずに消えて☁️いく。
僕はそのことを誰よりもよく知っているはずだった。
命💓の輝き✨と陰りが、一輪の花🌸の中にはそのまま現れているのだ。
僕の心が、小さな感動💓の前に立ち止まった。
僕が生まれたことと、僕が見送った命と、僕が思っているこの時期、束の間の時間の中で、
僕にできる事ことは、ただこうして愛おしむ💕ことだけのようにも思えた。
白い菊🌸の心に僕の心💓が近づいていくのがわかり、
白い菊🌸が一瞬⚡️だけ微笑んで😊くれたような気がした。
僕の心❤️は、そのとき大きく動いた💕。
僕は筆🖊をとった。
僕の手は命じられた⚡️かのように自然🍀に調墨を始めていく。
淡墨を含ませ、中濃度の墨をわずかに吸わせ、
濃墨を穂先にわずかに噛ませ無限の色彩そのものを小さな穂先の中に作っていく。
調墨の手順はいつも同じだ。🌟
これまでだって何度も調墨を行ってきた。
だが、これほど自然🍀に手が動いたことはなかった。
硯の平らな面で穂先を尖らせ、
硯から画仙紙の上まで筆の穂先が自然🍀に持ち上げられ着地するまでの瞬く間を、
とてもゆっくりと感じだから、もう恐れなかった。
僕の手はいつもと同じ、自然🍀な形をしていた。
まるでお箸を握っているときのような自然🍀な所作だった。
あの微(かす)かな重みを感じるよりもはるかに繊細に、調墨された穂先の重みを感じて💓いた。
心❤️が解き放たれた今ならわかる。
これでいいのだ。😊🌟
穂先も震えていない。
導かれるように腕は動き、僕の人生🍀のすべてが、
心地よくして自然な所作で進んでいく。
命💓は心の内側で動き続けている。
穂先ももうすぐ着地する。
心の内側には菊🌸が生きて微笑み、
真っ白い部屋の中にいるようで、真っ白な画仙紙の中に入るように、
無駄なものは何もない。
自分の内側に次々と生まれてくる現象🌸の、
感動💓の、最初の瞬間⚡️を、
穂先は、このごく自然🍀な動きで捉えていくのだろう。
生涯でたった一度しか現れない筆致に変えていく。
それだけでいいはずだった。🌟
僕は微笑み😊かけてくれている一輪の花🌸を感じていた。
もう目に映っているのか、心に映っているのか、
画仙紙の上に映っているのかもはっきりしない。
だが、白い菊🌸は、さっきよりも、ずっと美しい✨。
「美の祖型✨を見なさい」
と湖山先生🍀が言っていたのはこのことだった。
それは命💓のあるがままの美しさ✨を見なさい✊ということだ。
こうして花🌸を感じて、絵筆を取るまで何もわからなかった。😵
水墨とはこの瞬間⚡️のための叡智🌸であり、技法⚡️なのだ。
自らの命💓や、森羅万象🌲の命💓そのものに触れようとする想いが絵に換わったもの、
それが水墨画だ。
花🌸の命を宿した一筆目を僕は描いた。
穂先の重みは画仙紙🗒の白い空間の中に柔らかく溶けながら、
移しかえられた。☁️
心💓がそっと手渡されるように、
命💓は穂先から、紙🗒へ移った。
心💓の動きが体に伝わり、
身体の動きが指先👉に伝わり、
指先は筆を操るわずかな圧力を使って、
画仙紙という不安定で白い空間に向かって消えて☁️いた。
それは、たった一瞬⚡️だった。
だが、それは、ここに至るまでのあらゆる瞬間⚡️を秘めた一瞬⚡️であり、
一筆🖊だった。
菊🌸の芳香と墨の香りが部屋🚪を満たしていた。😊
(「線は、僕を描く」(講談社)砥上裕將さんより)
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