🍀🍀上杉鷹山・別れ🍀🍀
平洲が最後に米沢を訪れたのは、
69歳の時でした。
2度目の訪問から13年経ち、
鷹山と平洲が師弟の契りを結んでから、
30余年が経っていました。
平洲にとって、今回の米沢への旅は、
「これが鷹山との今生の別れになるかもしれない」
と、
年老いた身体に、しかと覚悟を決めた旅なのでした。
「治者は民の父母であれ」
そう説き続けたのは平洲です。
でも、
それを実践するのは、鷹山にとって並大抵の苦労ではなかったはず…。
彼の苦しみや葛藤、そして孤独感を誰よりも深く理解できたのは、
やはり平洲だったでしょう。
この恩師との再会は、
鷹山にとって、夢にまで見たものでした。
平洲が江戸を発ちます。
そして、10日目の朝、
領内の「大沢」という村に到着されました。
その知らせが入ると、
鷹山は、待ちきれず、
急いで米沢城を出立しました。
そして、
城から6キロメートルほど離れた
「関根」というところで、
平洲を出迎えたのです。
これは、
身分制度上、ありえないことでした。
驚き、感激したのは、平洲です。
本来なら、平洲は、平伏して応えるべきところですが、
もし、平洲が平伏したら、
彼を心から尊敬する鷹山も、
それに応えてしまう。
それでは、あまりにも畏れ多いと、
平洲は、無礼を承知で、
立礼のまま、
深々と頭を下げました。
心からの鷹山の厚意に応えたのでした。
この時、
鷹山は、
感激のあまり、
平洲の手を取らんばかりになったのです。
しかし、
鷹山も、同じく立礼のまま、
深々と頭を下げ、
礼のまま涙をこぼしました。
しばらく、礼のまま、立ち尽くします。
顔が、涙であげられません。
そして、
ゆっくり、頭をあげ
互いに、手をとり合うのでした。
そして、肩を並べて歩き、
近くの普門院という寺へ入り、
長旅の疲れをねぎらったのでした。
師弟の瞳には涙が光り、
この様子を見ていた近隣の村人たちも、
みな深く感動しました。
みな声を忍んですすり泣いたというのです。
いまでも、
普門院のある「関根」というところは、
「敬師の里」と呼ばれ、
私たちに、師を敬うことの尊さを伝えてくれています。
治者としての心得、師を敬う心…。
混乱した世の中を立て直すのに最も大切なもの、
それは、
「心の教育」なのかもしれません。
鷹山には、有名な言葉が伝わっています。
「なせばなる なさねばならぬ 何ごとも
ならぬは人の なさぬなりけり」
鷹山の改革は、一つ一つが当を得たものでした。
しかし、
それ以上に、
親が子を愛するように、民を慈しみ、
民のために藩主自らが動き、
改革の火種となって燃え続けようとした、心のあり方。
それこそが、
成功の原動力となったのではないでしょうか。
鷹山と平洲の2人が身を以って示してくれた、
「やり方ではなく、あり方」
このメッセージをかみしめ、
これからの人々の教育を再構築してゆきたいものです。
私たちが、今後とるべき道すじを、
歴史は、鮮やかに示してくれているように感じます。
上杉家に養子に入り、17歳のときに第9代米沢藩主となった鷹山でしたが、
前藩主・重定(しげさだ)に長男が生まれたため、
彼は35歳で重定の実子(治広)に家督を譲りました。
その後、
鷹山は藩主の後見役として、改革を続けてゆきます。
この家督相続の際に、
鷹山から治広(はるひろ)に、
"藩主の心得"
として伝授されたものが、
「伝国(でんこく)の辞」です。
ーー「伝国の辞」ーー
1つ、
国家は先祖より子孫へ伝え候(そうろう)国家にして
我私(われ わたすし)すべき物にはこれなく候(そうろう)
1つ、
人民は国家に属したる人民にして
我私(われ わたくし)すべき物にはこれなく候(そうろう)
1つ、
国家人民のために立たる君にして
君のために立たる国家人民にはこれなく候(そうろう)。
ーーーーーーーーー
領国は、先祖伝来のもの、
領民は、領国に属するもの、
君主は、領国・領民のために、存在するものであるとして、
君主が身勝手な政治を行い、
領民を苦しめることのないように、
と、固く戒めているのです。
この「伝国の辞」は、
「公に尽くした」鷹山の人生を象徴してますね。
私は、読むだけで背筋がピンと伸びます。
鷹山は、
米沢の復興に全人生を捧げ、
文政5年(1822年)、72歳でその生涯を閉じました。
米沢藩が借財を完済したのは、
その翌年のことでした。
お、し、ま、い、。
(参考「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
素晴らしい話ですね。(≧∇≦)
平洲が最後に米沢を訪れたのは、
69歳の時でした。
2度目の訪問から13年経ち、
鷹山と平洲が師弟の契りを結んでから、
30余年が経っていました。
平洲にとって、今回の米沢への旅は、
「これが鷹山との今生の別れになるかもしれない」
と、
年老いた身体に、しかと覚悟を決めた旅なのでした。
「治者は民の父母であれ」
そう説き続けたのは平洲です。
でも、
それを実践するのは、鷹山にとって並大抵の苦労ではなかったはず…。
彼の苦しみや葛藤、そして孤独感を誰よりも深く理解できたのは、
やはり平洲だったでしょう。
この恩師との再会は、
鷹山にとって、夢にまで見たものでした。
平洲が江戸を発ちます。
そして、10日目の朝、
領内の「大沢」という村に到着されました。
その知らせが入ると、
鷹山は、待ちきれず、
急いで米沢城を出立しました。
そして、
城から6キロメートルほど離れた
「関根」というところで、
平洲を出迎えたのです。
これは、
身分制度上、ありえないことでした。
驚き、感激したのは、平洲です。
本来なら、平洲は、平伏して応えるべきところですが、
もし、平洲が平伏したら、
彼を心から尊敬する鷹山も、
それに応えてしまう。
それでは、あまりにも畏れ多いと、
平洲は、無礼を承知で、
立礼のまま、
深々と頭を下げました。
心からの鷹山の厚意に応えたのでした。
この時、
鷹山は、
感激のあまり、
平洲の手を取らんばかりになったのです。
しかし、
鷹山も、同じく立礼のまま、
深々と頭を下げ、
礼のまま涙をこぼしました。
しばらく、礼のまま、立ち尽くします。
顔が、涙であげられません。
そして、
ゆっくり、頭をあげ
互いに、手をとり合うのでした。
そして、肩を並べて歩き、
近くの普門院という寺へ入り、
長旅の疲れをねぎらったのでした。
師弟の瞳には涙が光り、
この様子を見ていた近隣の村人たちも、
みな深く感動しました。
みな声を忍んですすり泣いたというのです。
いまでも、
普門院のある「関根」というところは、
「敬師の里」と呼ばれ、
私たちに、師を敬うことの尊さを伝えてくれています。
治者としての心得、師を敬う心…。
混乱した世の中を立て直すのに最も大切なもの、
それは、
「心の教育」なのかもしれません。
鷹山には、有名な言葉が伝わっています。
「なせばなる なさねばならぬ 何ごとも
ならぬは人の なさぬなりけり」
鷹山の改革は、一つ一つが当を得たものでした。
しかし、
それ以上に、
親が子を愛するように、民を慈しみ、
民のために藩主自らが動き、
改革の火種となって燃え続けようとした、心のあり方。
それこそが、
成功の原動力となったのではないでしょうか。
鷹山と平洲の2人が身を以って示してくれた、
「やり方ではなく、あり方」
このメッセージをかみしめ、
これからの人々の教育を再構築してゆきたいものです。
私たちが、今後とるべき道すじを、
歴史は、鮮やかに示してくれているように感じます。
上杉家に養子に入り、17歳のときに第9代米沢藩主となった鷹山でしたが、
前藩主・重定(しげさだ)に長男が生まれたため、
彼は35歳で重定の実子(治広)に家督を譲りました。
その後、
鷹山は藩主の後見役として、改革を続けてゆきます。
この家督相続の際に、
鷹山から治広(はるひろ)に、
"藩主の心得"
として伝授されたものが、
「伝国(でんこく)の辞」です。
ーー「伝国の辞」ーー
1つ、
国家は先祖より子孫へ伝え候(そうろう)国家にして
我私(われ わたすし)すべき物にはこれなく候(そうろう)
1つ、
人民は国家に属したる人民にして
我私(われ わたくし)すべき物にはこれなく候(そうろう)
1つ、
国家人民のために立たる君にして
君のために立たる国家人民にはこれなく候(そうろう)。
ーーーーーーーーー
領国は、先祖伝来のもの、
領民は、領国に属するもの、
君主は、領国・領民のために、存在するものであるとして、
君主が身勝手な政治を行い、
領民を苦しめることのないように、
と、固く戒めているのです。
この「伝国の辞」は、
「公に尽くした」鷹山の人生を象徴してますね。
私は、読むだけで背筋がピンと伸びます。
鷹山は、
米沢の復興に全人生を捧げ、
文政5年(1822年)、72歳でその生涯を閉じました。
米沢藩が借財を完済したのは、
その翌年のことでした。
お、し、ま、い、。
(参考「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
素晴らしい話ですね。(≧∇≦)
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