根岸ノーベル賞④
(アメリカへの留学はいかがでしたか)
🔹大学時代に応用科学を専攻していたものの、
実はその分野の基本となる量子力学というのがなんといるかというのを、よくわからないままに留学したんですよ。
ところが、向こうの学校は生徒に教えるという意識が非常に高くて、
教わる側にしてみれば隅から隅までよくわかる。
これにはずいぶん助かりました。
そのおかげもあって滞在中のわずか3年間で博士号をとることができましたが、
学問のこと以外に非常に大きな影響受けたのも、この留学期間中でした。
(大きな影響とはどんなことでしょうか)
🔹ペンシルベニア大学は1740年にベンジャミン・フランクリンによって創設された由緒ある大学で、
全米で10本の指に入る名門校でした。
そのため超一流の研究者がひと月に複数人というペースで、続々と講演に来られるんですね。
私は毎回食い入るように見つめながら彼らの話を聞いていましたけど、
そのうちにだんだんと、どの研究者も普通の人間じゃないかと思うようになってきました。
ひょっとしたら、自分も彼らと同じように研究に打ち込めば、
その仲間入りができるかもしれない。
そんなことを思い始めました。
(世界トップレベルの研究者にふれているうちに、根岸先生の心に火がついたわけですね)
🔹ええ。ですから特に若い人たちには、「どんどん海外に行って勝負しなさい」と伝えてきました。
私がアメリカに渡ったのは、もう50年以上前のことですが、
やはり若いうちに世界のトップクラスの人々が最高のものを追求している場に身を置き、
その中で競争しながら自分を磨いていくのは非常に重要なことです。
ただ、私自身について言えば、3年を経て日本に帰ってきてから、
一度、挫折しているんですよ。
(どうされたのですか)
🔹日本に戻ってすぐ、私は新しい繊維の開発を成功させました。
自分としては良い仕事をしたつもりだったのですが、
商売という観点から商品化しないことが重役会議で決まったのです。
正直、これには堪えました。
いくら基礎研究や開発研究でうまくいっても、企業では認められないことがある。
つまり企業における研究というのは、
それが商品化されるかされないか、野球に例えるとホームランか三振かのどちらかしかない世界なんですよ。
もともと学問研究に対する欲求が強かっただけに、
これを機に基礎的な研究を積み重ねていきたいという思いは、ますます募りました。
当時私は新しい研究に向けて社内で中心的役割を任されていたのですが、
どうしても研究者になるという夢をあきらめきれず、
日本に戻ってから1年で、帝人を離れることになりました。
(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)
(アメリカへの留学はいかがでしたか)
🔹大学時代に応用科学を専攻していたものの、
実はその分野の基本となる量子力学というのがなんといるかというのを、よくわからないままに留学したんですよ。
ところが、向こうの学校は生徒に教えるという意識が非常に高くて、
教わる側にしてみれば隅から隅までよくわかる。
これにはずいぶん助かりました。
そのおかげもあって滞在中のわずか3年間で博士号をとることができましたが、
学問のこと以外に非常に大きな影響受けたのも、この留学期間中でした。
(大きな影響とはどんなことでしょうか)
🔹ペンシルベニア大学は1740年にベンジャミン・フランクリンによって創設された由緒ある大学で、
全米で10本の指に入る名門校でした。
そのため超一流の研究者がひと月に複数人というペースで、続々と講演に来られるんですね。
私は毎回食い入るように見つめながら彼らの話を聞いていましたけど、
そのうちにだんだんと、どの研究者も普通の人間じゃないかと思うようになってきました。
ひょっとしたら、自分も彼らと同じように研究に打ち込めば、
その仲間入りができるかもしれない。
そんなことを思い始めました。
(世界トップレベルの研究者にふれているうちに、根岸先生の心に火がついたわけですね)
🔹ええ。ですから特に若い人たちには、「どんどん海外に行って勝負しなさい」と伝えてきました。
私がアメリカに渡ったのは、もう50年以上前のことですが、
やはり若いうちに世界のトップクラスの人々が最高のものを追求している場に身を置き、
その中で競争しながら自分を磨いていくのは非常に重要なことです。
ただ、私自身について言えば、3年を経て日本に帰ってきてから、
一度、挫折しているんですよ。
(どうされたのですか)
🔹日本に戻ってすぐ、私は新しい繊維の開発を成功させました。
自分としては良い仕事をしたつもりだったのですが、
商売という観点から商品化しないことが重役会議で決まったのです。
正直、これには堪えました。
いくら基礎研究や開発研究でうまくいっても、企業では認められないことがある。
つまり企業における研究というのは、
それが商品化されるかされないか、野球に例えるとホームランか三振かのどちらかしかない世界なんですよ。
もともと学問研究に対する欲求が強かっただけに、
これを機に基礎的な研究を積み重ねていきたいという思いは、ますます募りました。
当時私は新しい研究に向けて社内で中心的役割を任されていたのですが、
どうしても研究者になるという夢をあきらめきれず、
日本に戻ってから1年で、帝人を離れることになりました。
(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)
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