マイストーリー7
そんな混乱が始まったころ、私は数ヶ月前から予定されていた南アフリカへの親善訪問に出発した。
ちょうどサーシャとマリアの学校は休みに入ったので、2人も連れて行くことにした。
私の母と、兄の10代の子供たち、レズリーとエイヴリーも一緒だ。
今回の訪問の主目的は、アメリカが後援するアフリカ大陸の若い女性リーダーのためのフォーラムで基調講演をすることだった。
けれど、それ以外にもたくさんの予定が組み込まれていた。
健康や教育に関する地域イベントに、地元リーダーやアメリカ領事館の職員との懇談。
それから隣国ボツワナに立ち寄って大統領と面会し、地域のエイズ診療所を訪れ、少しだけサファリを体験したのち帰国する予定だった。
南アフリカという国のエネルギーに浸る時間的余裕など全くなかった。
ヨハネスブルグでは、アパルトヘイト博物館を見学し、
都市北部の黒人居住区のひとつを訪れて、コミュニティ・センターに集まった現地の子供たちと踊ったり本を読んだりした。
ケープタウンのサッカースタジアムでは、
若者向けのスポーツ・プログラムを利用して子供たちにHIVとエイズの教育を行っているというコミュニティ・オーガナイザーや医療従事者の方々に出会った。
さらに、南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力した伝説的な神学者、デズモンド・ツツ大司教に紹介される。
ツツ大主教は当時79歳だが、がっしりとした胸板と輝くような瞳の持ち主で、
絶えず笑とともにある人だった。
私は健康促進の活動のためにスタジアムを訪れたと知った大主教は、
ぜひ自分も一緒にと言って、歓声をあげる子供たちの前で私と腕立て伏せをしてくれた。
南アフリカで過ごしたこの数日間、私はまるでふわふわと浮いているような気分だった。
初めてケニアを訪れた1991年のあの旅と何もかもが違っていた。
あの旅では、私はバラクと2人でマタトゥに乗り、アウマの故障したフォルクスワーゲンを押しながら、土埃の立つ道沿いを歩いた。
ところが今、私が感じるこのふわふわとした感覚は、一部は時差ぼけのせいかもしれない。
けれど、もっと深遠で歓喜に満ちた何かが、それより多くを占めていた。
まるで、歴史と文化の大きな逆波に足を踏み入れたような、
大いなる時の流れの中で自分のちっぽけさを再認識するような、そんな気持ちだった。
リーダーシップ・フォーラムには、それぞれの地域で意義のある仕事に携わる若い女性たち76人が出席していた。
彼女たちの顔を見ながら、私はこみ上げる涙をこらえた。
彼女たちの姿は私に希望を与えてくれた。
もう自分たちの時代ではないと感じ、彼女たちをたくましくを持った。
当時、アフリカの人口の実に60%は20歳以下だった。
そこに集まった女性たちも全員30歳以下だった。
中には、まだ16歳の女性もいる。
彼女たちはそれぞれが非営利団体を立ち上げ、他の女性たちに起業の道を指導し、
投獄のリスクを冒してまで政府の腐敗を追及していた。
そんな女性たちが今こうして集い、研修を受け、互いに勇気づけられている。
このフォーラムがひたすら彼女たちの力の拡大につながることを、私は祈った。
しかし、この旅で最も現実離れした出来事はもっと早くに訪れていた。
それは旅程の2日目のことだだ。
私たち家族はヨハネスブルクのネルソン・マンデラ財団の本部に出向き、
名高い人道支援活動家でマンデラ氏の妻でもあるグラサ・マシェルに面会した。
その際に、マンデラ本人がこの近くにある自宅で皆さんにお会いしたいと言っています、と伝えられたのだ。
私たちはもちろん、すぐに自宅に伺った。
ネルソン・マンデラは当時92歳。
この年の初頭に肺の病気で入院している。
彼が客に会うことはめったにないと、私は聞かされていた。
バラクがまだ上院議員だった6年前、彼はワシントンDCを訪れたマンデラ氏と面会している。
そして今でも、そのときの写真を額縁に入れてオフィスの壁に飾っていた。
娘たちも…この旅の当時サーシャは10歳、マリアはもうすぐ13歳だった、
ことの重大さを理解したようだ。
常に何事も動じない私の母も、少しばかり呆然としている。
この世に存在する人間の中で、ネルソン・マンデラほど意義のある影響に世界におよぼした人物はいない、
少なくとも、私の基準ではそう言える。
1940年代、まだ若かった彼は、アフリカ民族会議に加わり、白人で占められていた当時の南アフリカ政府とその凝り固まった人種政策に敢然と抵抗しはじめる。
この活動のせいで逮捕され、刑務所に送られるのが44歳のとき。
その後1990年に釈放されたときには、
彼は71歳になっていた。
あらゆるものを剥奪され隔離された27年間におよぶ獄中生活。
その間に多くの友人はアパルトヘイト体制下で拷問され、殺害された。
こうした経験を経て、マンデラは政府のリーダーたちに武力で対抗するのではなく、交渉を重ねる道を模索するようになる。
そして、奇跡とされる平和的移行の立役者として南アフリカに真の民主主義をもたらし、
ついにはこの国の大統領となったのだ。
マンデラ氏の自宅は、郊外の緑豊かな通り沿いにあった。
バター色のコンクリート壁で囲まれた地中海風の邸宅だ。
私たちはグラサ・マルシェに案内されて、木陰の落ちる中庭を抜け、邸内に入った。
彼女の夫は、明るい日が差し込む広々とした一室で肘掛け椅子に座っていた。
雪のようなまばらな白髪で、茶色の柄のシャツ姿だ。
誰かがかけてくれたのだろう白い毛布が膝に乗っている。
マンデラ氏は何世代にもわたる親族たちに囲まれていた。
誰もが熱心に私たちを歓迎してくれた。
そして、その部屋を取り巻く明るさが、親族の人々の賑やかさが、
目を細めて笑う家父長の姿が、私にある記憶を思い出させた。
子供の頃によく訪れた、祖父の「サウス・サイド」の家の光景だ。
ここまで来る間は緊張していた私だが、すっかりリラックスしはじめていた。
本当のことを言うと、私が誰で、なぜ立ち寄ったのか、
マンデラ氏本人がはっきり理解していたのかどうかは定かでない。
このとき彼はすでにかなりの高齢で、視線はあちこちを漂い、耳も少し悪そうだった。
「こちらはミシェル・オバマ!」
グラサ・マルシェが彼の耳元で言った。
「アメリカ大統領の奥様ですよ!」
「おお、それは嬉しい」
ネルソン・マンデラはつぶやいた。
「嬉しいね」
彼は混じり気なし関心を込めて私を見つめた。
その目に映っているのは、しかし私以外の誰かなのかもしれない。
彼はこれと同じくらい温かな対応を、出会ったすべての人にしてきたのだろう。
私とマンデラ氏の対面は、とても静かで、しかし深く核心をついていた。
いや、きっと静かだからこそ、核心に迫っていたのだ。
彼の人生の言葉は、今ではそのほとんどが語られている。
彼の演説、手紙、書籍、抵抗運動のスローガン。
それらは今や彼個人のみならず、人類全体の物語に刻み込まれている。
そして私はそのすべてを、彼と対面したほんの短い時間の中で感じ取った。
何もないところから平等を引き出した、
その高潔さと気迫を間近に感じたのだ。
それから5日が経ち、アメリカへの帰国の途につくことになっても、私はまだマンデラ氏のことを考えていた。
夜闇の中、私たちを乗せた飛行機はアフリカ大陸を北へ、西へと進み、
大西洋を超える長い旅路に入った。
サーシャとマリアは、いとこたちの隣で毛布をかぶり、手足を投げだして眠っている。
母も近くの座席でうとうとしている。
機内のさらに後方では、スタッフやシークレットサービスの人々が映画を観たり、仮眠をとったりしていた。
エンジンがうなりをあげている。
私は一人きりで、だけど一人ではないと感じていた。
私たちは自分たちの街へ帰ろうとしている。
奇妙に身近になってしまった街、ワシントンDCへ。
白の大理石とイデオロギー対立が待つ街。
これから先もまだ戦い、多くを勝ち取らねばならない街。
私は、あのリーダーシップ・フォーラムで出会った若い女性たちのことを思った。
彼女たちも今はそれぞれの地域へと戻る旅路についているだろう。
自分のすべき仕事に再び向き合い、どんな激動にもじっと耐えて志を貫くために。
マンデラ氏は自分の信義のために投獄された。
子供たちの成長も、多くの孫たちの成長も見守れなかった。
それでも、彼は恨まなかった。
そンな目にあってもなお、自分の国に善なる本質が息づいていることを信じた。
彼はひたすら努力し、そして待ったのだ。
忍耐強く、決して落胆することなく。
それが実現するのを、じっと待った。
その精神に背中を押されるような思いで、私は国に帰った。
人生は教えてくれる。
進歩や変化はらいつだってゆっくり起こるのだと。
2年や4年では、まるで足りない。
一生分の時間でも、まだ足りないかもしれない。
私たちは、いつ実を結ぶとも知れない変化の種を植えているのだ。
だから忍耐強く、待たなくてはならない。
(つづく)
(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)
そんな混乱が始まったころ、私は数ヶ月前から予定されていた南アフリカへの親善訪問に出発した。
ちょうどサーシャとマリアの学校は休みに入ったので、2人も連れて行くことにした。
私の母と、兄の10代の子供たち、レズリーとエイヴリーも一緒だ。
今回の訪問の主目的は、アメリカが後援するアフリカ大陸の若い女性リーダーのためのフォーラムで基調講演をすることだった。
けれど、それ以外にもたくさんの予定が組み込まれていた。
健康や教育に関する地域イベントに、地元リーダーやアメリカ領事館の職員との懇談。
それから隣国ボツワナに立ち寄って大統領と面会し、地域のエイズ診療所を訪れ、少しだけサファリを体験したのち帰国する予定だった。
南アフリカという国のエネルギーに浸る時間的余裕など全くなかった。
ヨハネスブルグでは、アパルトヘイト博物館を見学し、
都市北部の黒人居住区のひとつを訪れて、コミュニティ・センターに集まった現地の子供たちと踊ったり本を読んだりした。
ケープタウンのサッカースタジアムでは、
若者向けのスポーツ・プログラムを利用して子供たちにHIVとエイズの教育を行っているというコミュニティ・オーガナイザーや医療従事者の方々に出会った。
さらに、南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力した伝説的な神学者、デズモンド・ツツ大司教に紹介される。
ツツ大主教は当時79歳だが、がっしりとした胸板と輝くような瞳の持ち主で、
絶えず笑とともにある人だった。
私は健康促進の活動のためにスタジアムを訪れたと知った大主教は、
ぜひ自分も一緒にと言って、歓声をあげる子供たちの前で私と腕立て伏せをしてくれた。
南アフリカで過ごしたこの数日間、私はまるでふわふわと浮いているような気分だった。
初めてケニアを訪れた1991年のあの旅と何もかもが違っていた。
あの旅では、私はバラクと2人でマタトゥに乗り、アウマの故障したフォルクスワーゲンを押しながら、土埃の立つ道沿いを歩いた。
ところが今、私が感じるこのふわふわとした感覚は、一部は時差ぼけのせいかもしれない。
けれど、もっと深遠で歓喜に満ちた何かが、それより多くを占めていた。
まるで、歴史と文化の大きな逆波に足を踏み入れたような、
大いなる時の流れの中で自分のちっぽけさを再認識するような、そんな気持ちだった。
リーダーシップ・フォーラムには、それぞれの地域で意義のある仕事に携わる若い女性たち76人が出席していた。
彼女たちの顔を見ながら、私はこみ上げる涙をこらえた。
彼女たちの姿は私に希望を与えてくれた。
もう自分たちの時代ではないと感じ、彼女たちをたくましくを持った。
当時、アフリカの人口の実に60%は20歳以下だった。
そこに集まった女性たちも全員30歳以下だった。
中には、まだ16歳の女性もいる。
彼女たちはそれぞれが非営利団体を立ち上げ、他の女性たちに起業の道を指導し、
投獄のリスクを冒してまで政府の腐敗を追及していた。
そんな女性たちが今こうして集い、研修を受け、互いに勇気づけられている。
このフォーラムがひたすら彼女たちの力の拡大につながることを、私は祈った。
しかし、この旅で最も現実離れした出来事はもっと早くに訪れていた。
それは旅程の2日目のことだだ。
私たち家族はヨハネスブルクのネルソン・マンデラ財団の本部に出向き、
名高い人道支援活動家でマンデラ氏の妻でもあるグラサ・マシェルに面会した。
その際に、マンデラ本人がこの近くにある自宅で皆さんにお会いしたいと言っています、と伝えられたのだ。
私たちはもちろん、すぐに自宅に伺った。
ネルソン・マンデラは当時92歳。
この年の初頭に肺の病気で入院している。
彼が客に会うことはめったにないと、私は聞かされていた。
バラクがまだ上院議員だった6年前、彼はワシントンDCを訪れたマンデラ氏と面会している。
そして今でも、そのときの写真を額縁に入れてオフィスの壁に飾っていた。
娘たちも…この旅の当時サーシャは10歳、マリアはもうすぐ13歳だった、
ことの重大さを理解したようだ。
常に何事も動じない私の母も、少しばかり呆然としている。
この世に存在する人間の中で、ネルソン・マンデラほど意義のある影響に世界におよぼした人物はいない、
少なくとも、私の基準ではそう言える。
1940年代、まだ若かった彼は、アフリカ民族会議に加わり、白人で占められていた当時の南アフリカ政府とその凝り固まった人種政策に敢然と抵抗しはじめる。
この活動のせいで逮捕され、刑務所に送られるのが44歳のとき。
その後1990年に釈放されたときには、
彼は71歳になっていた。
あらゆるものを剥奪され隔離された27年間におよぶ獄中生活。
その間に多くの友人はアパルトヘイト体制下で拷問され、殺害された。
こうした経験を経て、マンデラは政府のリーダーたちに武力で対抗するのではなく、交渉を重ねる道を模索するようになる。
そして、奇跡とされる平和的移行の立役者として南アフリカに真の民主主義をもたらし、
ついにはこの国の大統領となったのだ。
マンデラ氏の自宅は、郊外の緑豊かな通り沿いにあった。
バター色のコンクリート壁で囲まれた地中海風の邸宅だ。
私たちはグラサ・マルシェに案内されて、木陰の落ちる中庭を抜け、邸内に入った。
彼女の夫は、明るい日が差し込む広々とした一室で肘掛け椅子に座っていた。
雪のようなまばらな白髪で、茶色の柄のシャツ姿だ。
誰かがかけてくれたのだろう白い毛布が膝に乗っている。
マンデラ氏は何世代にもわたる親族たちに囲まれていた。
誰もが熱心に私たちを歓迎してくれた。
そして、その部屋を取り巻く明るさが、親族の人々の賑やかさが、
目を細めて笑う家父長の姿が、私にある記憶を思い出させた。
子供の頃によく訪れた、祖父の「サウス・サイド」の家の光景だ。
ここまで来る間は緊張していた私だが、すっかりリラックスしはじめていた。
本当のことを言うと、私が誰で、なぜ立ち寄ったのか、
マンデラ氏本人がはっきり理解していたのかどうかは定かでない。
このとき彼はすでにかなりの高齢で、視線はあちこちを漂い、耳も少し悪そうだった。
「こちらはミシェル・オバマ!」
グラサ・マルシェが彼の耳元で言った。
「アメリカ大統領の奥様ですよ!」
「おお、それは嬉しい」
ネルソン・マンデラはつぶやいた。
「嬉しいね」
彼は混じり気なし関心を込めて私を見つめた。
その目に映っているのは、しかし私以外の誰かなのかもしれない。
彼はこれと同じくらい温かな対応を、出会ったすべての人にしてきたのだろう。
私とマンデラ氏の対面は、とても静かで、しかし深く核心をついていた。
いや、きっと静かだからこそ、核心に迫っていたのだ。
彼の人生の言葉は、今ではそのほとんどが語られている。
彼の演説、手紙、書籍、抵抗運動のスローガン。
それらは今や彼個人のみならず、人類全体の物語に刻み込まれている。
そして私はそのすべてを、彼と対面したほんの短い時間の中で感じ取った。
何もないところから平等を引き出した、
その高潔さと気迫を間近に感じたのだ。
それから5日が経ち、アメリカへの帰国の途につくことになっても、私はまだマンデラ氏のことを考えていた。
夜闇の中、私たちを乗せた飛行機はアフリカ大陸を北へ、西へと進み、
大西洋を超える長い旅路に入った。
サーシャとマリアは、いとこたちの隣で毛布をかぶり、手足を投げだして眠っている。
母も近くの座席でうとうとしている。
機内のさらに後方では、スタッフやシークレットサービスの人々が映画を観たり、仮眠をとったりしていた。
エンジンがうなりをあげている。
私は一人きりで、だけど一人ではないと感じていた。
私たちは自分たちの街へ帰ろうとしている。
奇妙に身近になってしまった街、ワシントンDCへ。
白の大理石とイデオロギー対立が待つ街。
これから先もまだ戦い、多くを勝ち取らねばならない街。
私は、あのリーダーシップ・フォーラムで出会った若い女性たちのことを思った。
彼女たちも今はそれぞれの地域へと戻る旅路についているだろう。
自分のすべき仕事に再び向き合い、どんな激動にもじっと耐えて志を貫くために。
マンデラ氏は自分の信義のために投獄された。
子供たちの成長も、多くの孫たちの成長も見守れなかった。
それでも、彼は恨まなかった。
そンな目にあってもなお、自分の国に善なる本質が息づいていることを信じた。
彼はひたすら努力し、そして待ったのだ。
忍耐強く、決して落胆することなく。
それが実現するのを、じっと待った。
その精神に背中を押されるような思いで、私は国に帰った。
人生は教えてくれる。
進歩や変化はらいつだってゆっくり起こるのだと。
2年や4年では、まるで足りない。
一生分の時間でも、まだ足りないかもしれない。
私たちは、いつ実を結ぶとも知れない変化の種を植えているのだ。
だから忍耐強く、待たなくてはならない。
(つづく)
(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)
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