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ノーベル賞への道③

2016-12-08 13:03:35 | お話
根岸ノーベル賞③


(根岸先生が研究者の道を目指されるようになったのは、大学に入ってからですか?)

🔹もともとは電気工学に興味がありました。

特に中学高校の頃は電気いじりが好きで、
神田の駅から須田町まで並ぶ露店によく入り浸っていました。

お小遣いを貯めては、無線だ、ラジオだ、プレイヤーだのをつくる部品を買いに行くんですよ。

本当にたくさんの店が並んでいましたが、

その中に製品がよいというので評判の店がありましてね。

「東通工」といって、おじさんが2人でやっていた。

実は、その店は、今の「ソニー」の前身で、

そのおじさん2人というのは、多分、井深大さんと盛田昭夫さんだったのでは、と思っています。

値段は他の店よりちょっと高いんですが、

それでも物がいいから皆買いたがっていましたね。

その電気いじりも大学受験を控える頃にはやめましたが、

大学に入ってからも電気工学の研究者になろうという気持ちは変わりませんでした。

ところが、ある大手電機メーカーに入った先輩が、

「あそこは、ケチだぞ」

って話を何度もするわけですよ。

確かに当時の花形産業は石油化学で、
東洋レーヨン、旭化成、帝人などの化学繊維産業がものすごい勢いで伸びていました。

私としては電気工学に未練はあったものの、先輩に吹き込まれているうちに、やっぱりやめようと。

それで専攻を応用化学と決めて、高分子の研究室に入りました。

(では、その決断によって科学者として研究への道が開けたと)

🔹そうですね。

大学卒業後は帝人に入社したわけですが、

なぜ帝人を選んだかというと、大学3年の時に試験に通って「帝人久村奨学金」を受けていましてね。

その奨学金は、帝人に入社すれば返済義務はないというものだったので、

奨学金を受ける時点で帝人への入社を決めていました。

今もよく覚えているのが、入社式の社長訓示です。

当時の帝人の社長は大屋晋三さんという非常に有名な方でしたが、

その大屋さんがこうおっしゃったんですよ。

「若者よ、海外に出ろ!10年に1カ国語ずつ学べば、30年で3カ国語が話せるようになる。

そうすれば君達も世界に通用するようになる」

「どんなに頭が冴えていようとも、日本のレベルはたかが知れている。

世界一流レベルに伍してゆくという気宇壮大な気の持ち方がすべての根本をなす」

(心を奮い立たせるような君事ですね)

🔹私は学生時代から「アメリカに留学しよう」という夢を持っていて、

英会話の勉強していましたから、私にとってまさに渡りに船のような話でした。

実は大学3年生の時に大病をしたために1年留年しているのですが、

その時期に小さなグループをつくって英会話の勉強するようになりました。

それはずいぶん役に立ったと思います。

それに入社後、しばらくして山口県岩国市内の研究所に配属されたのですが、

川の向こうが米軍基地だったんですよ。

そこには軍人だけでなく、その家族もいるでしょう。

当然子供たちを教える先生もいたので、

その方に交渉して私たち社員に英会話を教えてもらったこともありました。

(夢を叶えるために努力を積まれていたと)

🔹ただ、当時は企業がお金を出して社員をら留学させてくれるような制度はまだありません。

ですから、お金のない人間にとって、唯一留学できるチャンスだったのが全額奨学金を出すフルブライトでした。

もっとも、その選抜試験というのが難関として有名でした。

毎年、全国から2,000人くらいが応募してきて、最終的には20人くらいしか受からない。

おそらく確率的に言って、私の人生の中で1番難しい試験だったと思うのですが、

おかげさまで無事合格し、

フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学大学院への留学が決まりました。

(それはすごいですね)

🔹帝人に入社して2年経ってからのことでしたが、

これは私にとって1つの大きな転機になりました。

やはり夢はドン・キホーテみたいに持つことが大事ですね。


(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)

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