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小さなことでイライラ

2016-11-19 20:26:09 | お話
⚡️小さなことでイライラ⚡️


小さなことでイライラするのは、人生全体の方向が間違っているからである。

1時間予定と違った行動しなくてはならなくなると、それだけでイライラして焦りがなおらないという人がいる。

1時間、いや30分でもそうである。

時には、たった10分、5分のことで、もうすごくイライラしたり怒ったりする人がいる。

30分間、休憩するつもりだった。

1時間泳ぐつもりだった。

10分間、素晴らしい景色を見るはずだった。

それらの予定が、何かで実現できなくなる時がある。

すると体全体が不愉快になってしまう。

たった5分出発が遅れたということでものすごく不満になる。

あるいは1日の予定がすっかり変わってしまった。

その日は一日読書をする予定でいた。

ところが家の人の友人が来て、その読者がだめになってしまった。

こんな時、ものすごく不満になる。

こういう人は、たった5分の過ごし方が間違っているから不満になったわけでもなく、

たった1日の過ごし方が間違ってるから不愉快になったわけでもない。

こういう人は、人生全体の過ごし方が基本的に間違っているのである。

車で旅行しているときに例えれば、
道を間違ったというよりも、方向を間違って走っているということである。

すべてのことが自分の期待通りにいかないとイライラしてくるというのは、

期待通りにいかなかったその時がおかしいからイライラするのではなく、

全体がおかしいのである。


ロロ・メイが自分の人生を書いている本がある。

これは21歳の時ギリシャに行って英語の先生を始めた。

その時寂しさをはじめ、色々と心理的な問題を抱えた。

彼は淋しさを和らげようと必死で働いた。

しかし働けば働くほど先生としてうまくいかなかった。

彼は神経衰弱になる。

そのとこは彼の人生全体の生き方が間違っていることを示していた、と彼は書いている。

…something was wrong with my whole way of life.

どこかある部分が間違っているのではなく、全体としての生き方が間違っているという時がある。

道を間違えて10分遅れてしまった。

その時焦ったり怒ったりする。

自分の恋人が運転していれば、その恋人にひどくあたる。

時には、たった10分のことで怒鳴る。

それは恋人が道を間違えたから、どなっているのではない。

その人は恋人が間違えたことで怒っていると思っている。

しかし、そうではない。

その人の生き方全体が間違っているから、その人は怒っているのである。

誰だって道を間違えたくはないし、10分でも遅れたくはない。

しかし、そうなってしまえばそうなったで仕方ないと思う。

誰でも間違えようとして間違えているわけではない。

しかも、その10分が決定的な10分というわけでもない。

10分遅れたから飛行機が飛び立ってしまったというのではない。

たんに公園に着くのが10分遅れたというだけの話である。

そんな10分で自分に近い人を怒鳴り散らして、怒りがなかなかおさまらないと言うのは、怒りの真の原因は "10分" ではない。

10分は、心の中に抑えられていた怒りや失望などのひきがねになっただけである。

怒りの原因は10分間だけの道の間違いではなく、

人生の目的や、考え方、感じ方の間違いである。

しかし、怒っている本人は自分の怒りや不満は正当なものだと信じている。

相手が悪いと思っている。


ある奥さんがご主人を乗せてゴルフ場に行くために運転をしていた。

まだ時間はたっぷりとあった。

会社の人とのゴルフということで、奥さんは前日にその近所までわざわざ運転して行ってみた。

その当日、むしろ早く着きすぎるかなと思うくらいうまく道路はすいていた。

ところがゴルフ場の近所で奥さんはちょっと道を間違えてしまった。

しかし、それは全く問題のない間違いで、すぐに正しい道にでられた。

時間もたっぷり余っていた。

しかし、その2分か3分のロス、いや1分のロスかもしれない道の間違いに、

そのご主人はものすごく怒りだした。

常軌を逸した怒り方であった。

そして最後には運転している奥さんを殴った。

ご主人の言い分は、会社の人との大切なゴルフである。

そのゴルフ場に行くのに道を間違えるなどというのは、気持ちがたるんでいるということである。

それまでも同じようなことがいつも起きていた。

奥さんは、これではとても一緒に生きていけないと相談に電話をかけてきたのである。

一口で言えばこのご主人は神経症である。

普通の人には何でもないようなミスでもこの人には許せないのである。

ミスが問題なのではなく、この人の全体としての生き方が問題なのである。


ロロ・メイは自分の人生の生き方が基本的に間違っていると思った時、

新しい人生の目的を見つけようとした。

そして、あまりにも堅苦しく物事を考えるのをやめようとした。

規範意識が肥大化してしまっている自分の存在を改めようとした。

I had find some new goals and purposes for my living and to relinquish my moralistic,
somewhat rigid way of existence.

同じように、このご主人も言わなければならないのである。

このご主人は奥さんはたるんでいると思っている。

こんなことでは困ると思っている。

このたるんだ奥さんを変えなければと思っている。

この奥さんは社会の厳しさを知らないから、
こんなにたるんでいるのだと思っている。

しかし、変えなければならないのは奥さんの気持ちではなく、

実は自分の生き方、感じ方、考え方なのである。

自分の関心を変えれば、もっと心やすらかに生きられるだろう。

このご主人にとって、朝の冷たい爽やかな空気は何の意味もない。

いや、空気が爽やかだとは気づいていないだろう。

もしかしたら鳥が鳴いていたかもしれない。

空は青かったかもしれない。

美しい鳥の鳴き声がしても、彼は全く聞いていなかったっであろう。

青い空も見ていなかったであろう。

爽やかな空気も感じなかったであろう。

彼はただゴルフ場に予定通りキッチリと着くか、つかないか、

そして会社の人に悪く思われないかどうか、

今日のゴルフでみっともないスコアにならないかどうか、

そんなことしか関心がなかったのであろう。

それ以外のことに注意を向けることには無理があったのだろう。

もし彼の関心が少しでも変わっていたら、

彼はイライラして起こることはなかったであろう。

彼の奥さんに対する要求は、まさしく神経症的要求である。


(「自分に気づく心理学」PHP文庫、加藤諦三さんより)


結局、人のどこを見るかなんですね。(^_^)

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