2019年2月24日 大阪東教会主日礼拝説教 「闇へ迷い出ないために」 吉浦玲子
<心騒がせられた主イエス>
三年半、弟子たちは主イエスと共に宣教活動をしてきました。弟子たちにしてみれば、すべてをなげうって主イエスに従い、寝食を共にしてきたのです。数々の奇跡を起こされたイエス様、このお方こそ待ち望んでいた救い主であると信じ、輝かしい未来を夢見て、三年半の歳月を過ごしたのです。
しかしいま、事態は不穏な方向に向かっています。弟子たちはどこまで事態を把握していたかはわかりません。しかし、どうにも主イエスのおっしゃることやなさることが理解できない感覚を持ちながら捉えどころのない不安な思いを抱いていたでしょう。今日の聖書箇所の前のところでは主イエスは父のもとに帰るというようなこともおっしゃっています。なぜそのようなことをおっしゃるのか。主イエスについて来た私たちはこれからどうなるか、もやもやとした思いが弟子たちの内にはあったでしょう。その不穏な雰囲気の中で、ついに主イエスははっきりと重大発言をされます。
「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」寝食を共にしてきた弟子の共同体に明確に罅が入っていること、この共同体がすでに破局に向かっていることを主イエスは断言されました。主イエスはそれを冷静におっしゃったのではありません。「心を騒がせて」おっしゃったのです。先週の聖書箇所である弟子の足を洗う場面でも主イエスはその裏切る弟子であるユダの足を洗われました。今日はヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面ですが、この食事にもユダは共にいたのです。聖書において食事というのは重要な交わりの場です。しかも、今日の場面は最後の晩餐の場面です。主イエスはその場からユダを追い出そうとはされませんでした。
ユダにしてみれば、主イエスを裏切ることはこの時点ではそれほど大きな問題ではなかったのでしょう。ローマを倒すこの世の王になりそうにない、自分にとって理解できないことばかり語っているこのイエスという男を見限っただけに過ぎないのです。他の福音書にはのちにユダはこの裏切りを後悔して自殺することが記されています。まさか主イエスが自分の裏切りが契機となって死刑にまで至るとは、このときユダは考えていなかったと言われます。ただ、ユダは主イエスのことを「使えない奴」だとユダは感じたのです。この人にについて行っても得にならない、メリットがない、そう考えたのです。自分の希望、自分の夢、自分のやりがい、自分の利益に相手が貢献してくれるならば協力しましょう、そういったことが望めないのなら、他を当たります、それがユダのあり方でした。しかしそれは現実的なものの考え方としたらけっしておかしなことではありません。多かれ少なかれ人間はそのような判断を現実においてなすのです。生きていくうえで、できるかぎり得なやり方、得になる付き合い、得になる場所を目指すのは普通のことです。ユダはイエスという人間は自分に取って得にならないと考えたのです。そしてまたユダにしても三年半の歳月は軽いものではなかったでしょう。彼なりに人生をかけて主イエスについて来たのです。そして幻滅したのです。ユダはイエス・キリストを裏切りましたが、ユダからしたらむしろ自分こそイエスに裏切られた、希望をつぶされた、そういう思いもあったでしょう。その思いが祭司長やファリサイ派に寝返るという行動にでたのかもしれません。
<裏切り者のいる部屋>
さて、この場に裏切者がいる、その発言で場は緊迫をします。それまで漠然と皆が感じていた不自然さ、不安があらわになりました。サスペンスドラマで一部屋に複数の人々がいて、この中に<犯人がいる>と名探偵が叫んだような場面です。シモン・ペトロは主イエスの最も近くにいる、ヨハネと一般的には考えられている、「愛しておられた弟子」に合図を送ります。主イエスがだれについて言っておられるのか聞けと合図したのです。合図された弟子は「主よ、それはだれのことですか。」と問います。弟子たちが疑心暗鬼になった場面、それが最後の晩餐の場面でした。最後の晩餐は、聖餐式の起源です。しかしその場面は、混乱と不安と疑心暗鬼が満ちた場でした。恵みと喜びに満ちた場ではなかったのです。
しかし主イエスは「この中に裏切る者がいる」とおっしゃりながら、その犯人を暴こうとされたわけではありません。ユダを皆の前で断罪するつもりはなかったのです。ではなぜこのような弟子たちを不安に陥れる言葉を語られたのでしょうか?それは人間は誰もが裏切るのだということを主イエスは示しておられるのです。マルコによる福音書やマタイによる福音書では奇妙なことに、「この中に裏切者がいる」と最後の晩餐の場面で主イエスがおっしゃったとき、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と口々に言ったことが記されています。裏切ろうとしていたユダ以外の弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言ったのです。ユダ以外の弟子たちはもちろんこの時点で裏切る気持ちは持っていませんでした。しかし、主イエスの言葉によって自分の心の中にある主イエスを裏切るかもしれないという思いがあきらかにされたのです。実際、こののち主イエスを裏切り裏切ったのはユダだけではありませんでした。ペトロも他の弟子たちも結局裏切ったのです。
主イエスを中心とした共同体はそのような集まりなんだと主イエスはおっしゃっているのです。いま、最後の晩餐に集っているのは聖人君子ではない、自分の得になることばかり考える人間、自分の思いが通らなければ去って行く人間、表面では信仰的な態度を取りながら内側では相手を欺いている人間、そういう人間が集まっている、それが主イエスの弟子たちであり、共同体なのだとおっしゃっているのです。
<主イエスがおられる部屋>
じゃあ主イエスの弟子たち、そしてまた信仰の共同体は、言ってみれば、この世のさまざまな組織や共同体と変わらないようなものなのでしょうか。そうではありません。やはりこの世の様々な組織や共同体とは異なるのです。なぜならそこには主イエスがおられるからです。裏切る者、自己中心的なもの、欺く者のなかに、イエス・キリストがおられるのです。そのイエス・キリストが足を洗ってくださり、食事の中心にいてくださる、どうしようもないわたしと共にいてくださり、愛を注いでくださるのです。13章の冒頭で主イエスは「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。イエス・キリストの共同体は徹頭徹尾人間の側には特別なことはなく、ただイエス・キリストが共におられ愛を注いでくださる共同体なのです。そのことにおいて、この地上のどの組織、共同体とも異なるのです。私たちはイエス・キリストが共にいてくださることを感謝し、その愛をただ感謝して受け取る、それだけでよいのです。
<闇へ出ていくユダ>
さて、主イエスはパン切れを浸してとりユダにお与えになりました。ビネガーのようなものに浸したパンをユダに渡したのです。これは主人が客人をもてなす行為です。そしてまたキリストがご自身をお与えになる愛の行為を象徴していました。そのまさに主イエスが愛を捧げておられる、その瞬間にユダは裏切りました。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、とあります。13章2節で悪魔はイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたとありました。裏切りの思いをもっていたユダがいよいよ行動を起こすことを決意したのです。イエスから愛のパンを受け取ったまさにその瞬間にユダは愛を拒否して裏切りました。裏切りはもともと仲の悪い反目しあっている間にはありません。信頼関係や親愛の思いがあるところに起こるのが裏切りです。相手から愛を受け取らない、拒否をする、それが裏切りです。神は人間に愛を注がれます。人間にはその愛を受け取る自由も、拒否する自由もあります。そして人間は神からの愛を拒否するとき、サタンに支配されるのです。神の愛を拒否し神から離れる時、それは自由になるのではありません。どうしようもない闇に落ちてしまうのです。
イエスからパン切れを受け取ったユダはすぐに出て行きました。「夜であった」とあります。これはとても象徴的なことです。ユダは闇の中へ出て行ったのです。ヨハネによる福音書では主イエスは光として描かれています。その光なる神である主イエスの愛を拒否した者は闇へと向かいます。神の愛を拒否する者は夜へ闇へと向かうのです。
イスカリオテのユダはキリストを売った裏切り者として、ある意味、新約聖書中最大の悪人のように感じられます。しかし、さきほども申し上げましたようにユダと他の弟子たちは50歩100歩だったのです。人間はだれでもユダになりうるのです。私たちの心の中にもユダはいるのです。しかし他の弟子たちとユダは何が違ったのでしょうか?
<主イエスから離れない>
それは他の弟子たちは主イエスを拒否しなかったということです。主イエスが逮捕されたときひとときイエスのもとから離れましたが、復活のキリストのもとに戻ってきました。ある方の説教に「愛しておられた弟子」について興味深いことが語られていました。今日の聖書箇所でその弟子はイエスのすぐ隣にいたのです。主イエスの一番弟子はペトロのはずですが、この「愛しておられた弟子」はすぐ隣にいたのです。しかもイエスの胸もとに寄りかかっていたと書かれています。なんと大胆なと思いますが、おそらく当時はユダヤ式に床に体を投げ出して寝た姿勢で食事をとっていたので、隣にいた「愛しておられた弟子」はイエス様に体を接するくらいの位置にいたということでしょう。この弟子は十字架の時も、十字架の下にいたのです。復活の時も、マグダラのマリアから主イエスの遺体が墓から取り去られていることを知らされ最初に墓に走って行ったのはこの愛しておられた弟子でした。つまりこの弟子はいつも主イエスのそばにいたのです。主イエスのそばにいる弟子を「愛する弟子」とヨハネによる福音書は記しているのです。古い伝承ではこの弟子は一番若くて美少年だったように描かれたりもしています。しかし、愛しておられた弟子というのは特に主イエスから寵愛をうけた弟子とか、特別に立派だった弟子ということではないのです。愛しておられた弟子というのは、ただただそばにいた弟子を現しているのです。逆に言えばそばにいる者が愛されるのです。さらにいえばそばで愛を拒否せずに受けていた者がもっとも祝福をうけるということです。
それに対して、ユダは愛を拒否して離れてしまいました。マルコによる福音書では主イエスは「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と語られています。これは恐ろしい言葉です。イエス様ご自身が「生まれなかった方が、その者のためによかった」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?主イエスを裏切る者、主イエスから離れる者には呪われてしまうというのでしょうか。実際、ダンテの神曲という作品に描かれる地獄にはいくつかの階層があり、そのもっとも最下層の地獄は裏切者がいくところとされています。そしてその裏切り者の行く所は主イエスを裏切ったユダがモチーフとされています。
しかし、それはあくまでも象徴的な描かれ方をしているのであって、私たちはそのような地獄に落ちないために主イエスのもとに留まるのではありません。主イエスが「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」とおっしゃったのは、主イエスから離れる時、人間は闇に落ちてしまう、そのことのゆえに不幸だとおっしゃったのです。主イエスのそばにいればいただける恵み、祝福、慰めから離れて、暗く冷たく殺伐とした闇の中に生きることになるのです。
<光の中に生きる>
私は少し疑問に思うのです。なぜ主イエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのでしょうか。どうして不幸になる道へ行くな、闇に落ちてしまうからここにとどまれとおっしゃらなかったのか。その理由はいくつか考えられます。先ほども言いましたように神は人間が神の愛を受け取らない自由を認めれおられるということです。神は人間が自分の意思でご自分のもとに留まることを望んでおられるのです。無理やり縛り付けようとはなさいません。主イエスは最後の最後までユダにチャンスを与えられたのだとも言えます。ユダの裏切りは、神のご計画の中で、定められたものでした。しかし、裏切ったあとでも、ペトロのように戻ってくることはできたのです。
いずれにせよ、主イエスは最後までユダをも愛し抜かれました。ご自身の心を激しく騒がせ、打ち震えるような思いで主イエスはユダを送り出しました。裏切られても裏切られても愛さずにはおられない愛なる神の思いでユダを見送られたのです。
私たちもまたユダの心を持っています。しかしなお私たちはとどまります。主イエスのもとにとどまります。主イエスの愛のもとにとどまります。そのとき私たちに日々は輝きます。イエス・キリストによって輝かせていただきます。主イエスの元の共同体もまた、主イエスが共におられるゆえに豊かに光の中で輝かされます。
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