2021年4月11日大阪東教会主日礼拝説教「見よ、主が目の前に 」吉浦玲子
【説教】
<疑ってはいけないのか>
昨日、教会学校教師会を兼ねた青年会をネット会議システムで行いました。ほぼ毎月、ネットで開催をしているのですが、昨日はマルコによる福音書から、マグダラのマリアに復活のイエス様が現れる場面を黙想しました。未信徒の方も含めて青年たちの疑問は「なぜマグダラのマリアに最初に主イエスが現れられたのか?」ということでした。弟子の格付けからしたら一番弟子ともいえるペトロに最初に主イエスが現れられて良いはずです。しかし、なぜマグダラのマリアなのか?その説明はさまざまにされていますが、一つ言えますことは、神のなさることの順序は人間には理解できないということです。人間の側の順番や格付けや忖度と神のなさることの順序は全く関係しないということです。しかし、その順番のいかんに関わらず、早かろうが遅かろうが、神のなさることは人間にとって最適の神の時になされるのです。
今日の聖書箇所には、疑い深いトマスとして有名なトマスが出てきます。この人はマグダラのマリアと対照的に、復活の主イエスと「遅れて」出会った人です。彼はどういうわけか、12弟子と言われる弟子たちが主イエスで出会ったとき、一緒にいませんでした。ですから、復活の主イエスと会うことができなかったのです。
トマスは他の弟子たちが「主を見た」というのを信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。このトマスの言葉にはとても激しいものがあります。ここからトマスは疑い深いトマスと言われ、<トマスのように疑うことなく主イエスの復活を信じましょう。信じる者となりましょう>というような教訓めいた教えが語られたりします。
しかし、普通に考えていただきたいのです。復活ということはそんなにさらっと信じられるものでしょうか?さらにいえば、この罪深い自分の罪が、主イエスを信じるだけで赦されるなんて、きわめて虫の良い話を私たちはあっさりと信じられるものでしょうか?人間には理性が与えられています。認識する力が与えられています。見てもいないものを、体験もしていないものを、私たちは鵜呑みにできるでしょうか?
むしろ、トマスの態度というのはきわめてまっとうな態度であるともいえるのではないでしょうか?私たちの信仰は、なんでもかんでも思考停止をして受け入れる信仰ではありません。それは洗脳されていることと変わらないのです。
私たちはなぜキリストの復活を信じているのでしょうか?それは私たちがトマスのように、復活のキリストと出会ったからです。正確に言えば、キリストの方から出会ってくださったからです。私たちが疑い深かろうが、素直に信じる者であろうが関係ないのです。キリストが出会ってくださるのです。キリストが触れてくださるのです。だから私たちは信じることができるのです。言ってみればキリストによって信じさせていただいたのです。
<なぜすぐにトマスに現れられなかったのか>
トマスはそもそも他の弟子たちが主イエスと会っている時、なぜいなかったのでしょうか?聖書には何も書かれていません。ですから推測するしかできません。彼は恐れていたのかもしれません。主イエスの一味として自分も捕らえられ殺されるかもしれない。だから仲間たちのところへも行かず一人で隠れていたのかもしれません。ただ一つ言えますことは、彼は誠実な人間であったということです。この箇所を語るとき、いつもお話しすることですが、十字架におかかりになる前、主イエスが死を覚悟してエルサレムに近いベタニアに向かわれたことがありました。その町に主イエスと親しいラザロという男性がいて重病だったからです。ベタニアは主イエスの命を狙う権力者たちがいるエルサレムに近く危険でした。しかし、トマスは言ったのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と。トマスはベタニアは危険だからやめましょう、とか、先生だけで行ってくださいなどと言わず、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。そして実際、トマスは主イエスと共にベタニアに行ったのです。彼は大きな覚悟と誠実さをもって行動したのです。しかし、主イエスの逮捕の時、結局、トマスは逃げたのです。
事故や自然災害などで大事な人を亡くした人が、自分だけが助かったことに苦しむということがあります。なぜあの人は死んだのに自分は生き残ったのか?罪責感のようなものがなかなかぬぐえず多くの人々が苦しまれています。ましてトマスの場合、不可抗力の事故や自然災害ではなく、主イエスを見捨てたのです。そもそもまじめで誠実だったトマスにはそれは大きな苦しみであったと思います。その苦しみは、すべての逃げた弟子たちのものでありましたが、ことに、トマスにおいては強かったのではないかと思います。
トマスがわざわざ、主イエスの手の釘跡やわき腹の傷のことを語っているのは、それだけ、生々しく主イエスの十字架の死を彼が受け取っていたということでもあります。主イエスが十字架の上で息を引き取られてから9日間、彼の脳裏には、鞭打たれ、十字架で肉を裂かれ、血を流された主イエスの姿が何度も何度もフラッシュバックしていたのではないでしょうか。キリストを見捨てた自分、情けない自分、罪にまみれた自分、そんな自分を、自分で責めても責めても責めたりない、そんな苦しみの中にあったのではないでしょうか。
そのトマスのためにキリストは現れてくださいました。そんな苦しみの中にあったトマスのことをご存知であったはずの主イエスが、なぜむしろ一番先にトマスに現れてくださらなかったのでしょうか?他の弟子たちから一週間遅れて現れられたのでしょうか?
主イエスが最初に現れられたのは週の初めの日でした。そして8日のちとは、最初の日曜を入れて8日のち、つまりこの日もまた週の初めの日であったのです。つまり礼拝の場であったのです。主イエスは週の初めの礼拝の時に、礼拝する者たちの真ん中に立ってくださるのです。最初の週の初めの日、トマスはふさぎこんでいたのか、恐れていたのかわかりませんが、主イエスと共なる礼拝に出なかったのです。ですからトマスは主イエスにお会いすることができなかったのです。
私たちは、一人ぼっちで主イエスと会うのではないのです。礼拝において出会うのです。礼拝において主イエスと出会うからこそ、日々、また聖霊によって主イエスと出会うことができるのです。礼拝において主イエスとお会いすることがなければ、どれほど聖書を熱心に読んでも、一人で祈っても、私たちに信仰の力は与えられません。いま、ネットを介して礼拝を捧げておられる方々がおられます。リアルタイム配信で時を同じくして礼拝をしておられる方もあれば、録画や録音したもので礼拝を捧げられる方もおられます。しかし、同じ御言葉を聞くとき、私たちは共に主イエスと出会っているのです。いま、大阪のコロナ感染者が急増しています。今週から、礼拝以外の諸集会はふたたび休会といたしました。しかし、生けるキリストと出会う礼拝は、できる限り、この会堂で共にお捧げしていきたいと現時点では、願っています。感染の状況や行政からの指導によっては昨年のようにふたたび礼拝を非公開にせざるを得なくなるかもしれません。しかし、その場合でもできれば、時間を同じくして礼拝を捧げていただきたいのです。時間がずれても、同じ御言葉に聞き、同じ説教を聞いていただきたいのです。そのとき、主にあって教会はひとつとなります。一つの教会の真ん中にキリストが立たれます。
<私たちの希望>
さて、主イエスは弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのち、トマスに向かっておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」主イエスはトマスの思いをすべてご存知でした。これはけっして批判的に主イエスがトマスにおっしゃっているのではないのです。あなたの思いのたけをすべて私に対して為したらいいとおっしゃっているのです。私はあなたの思いをすべて受け止めるとおっしゃっているのです。
そしてまた肉体をもって復活なさった主イエスは、その肉体に触れよとおっしゃっているのです。かつて旧約聖書の時代、神を見ると死ぬと言われていました。神は聖なる存在で罪深い人間には触れることはおろか目にすることさえできない存在でした。しかしいまや、主イエスは、「あなたの指をここへ当てよ」とおっしゃる、触れることのできる神として皆の真ん中に立っておられるのです。
トマスはその主イエスに対して「わたしの主、わたしの神よ」と言います。これは、信仰告白です。トマスの、そして私たちの信仰告白の最もシンプルな言葉は、イエス・キリストが私の主であり、わたしの神であるということです。トマスは、主イエスを実際に触れることはありませんでした。主イエスが先に触れてくださったからです。この場面で、主イエスがトマスを抱きしめるとか、手を取るといったことをなさったとは書いてありません。しかしたしかに主イエスはトマスに触れられたのです。主イエスはこの場面では、ただトマスにのみ向いて語られています。この日、主イエスはトマスと出会うために現れてくださったのです。そしてトマスの心の深いところに触れられました。ですからトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができたのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスはおっしゃいます。この言葉もトマスをとがめておっしゃった言葉ではありません。復活の最初の目撃者たちは、皆、主イエスの肉体を「見て」信じた者たちです。肉眼で主イエスを「見た」人々がいたからこそ、主イエスの復活は確かなものとして語り継がれてきたのです。この「見ないのに信じる人は、幸いである」というのは、主イエスの昇天ののちに主イエスを信じる者となる人々へ向けた言葉です。私たちへ向けられた言葉です。私たちは主イエスを肉眼で見たわけではありません。しかし、信じる者とされました。その私たちが幸いな者だと主イエスはおっしゃてくださっているのです。
たしかに、私たちはいま、肉眼で主イエスのお姿を拝見することはできません。しかし、ここにいる皆が、主イエスによって触れていただいたのです。主イエス自らが、私たちに触れてくださったのです。語りかけてくださったのです。今も主イエスは触れてくださっています。それは劇的な神秘体験ではありません。(そういうこともありますが)自分には触れられていないと感じるならば、それはあなたがキリストを見ようとしていないからです。トマスが、自分の苦しみの殻に閉じこもっていたように、また、ユダヤ人を恐れて隠れていたように、自分の思いや、さまざまな日々の厳しい現実や人間にとらわれているからです。しかし、主イエスは私たちの思いのたけをご存知です。その思いをすべて打ち明けなさい、私にもっと近寄って、私にもっと触れなさいとおっしゃっています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、あなたの苦しみやさまざまな思い煩いにからめとられて復活の主イエスを信じない生き方ではなく、自由になって信じる者となりなさいということです。私たちは現実の中でどうしても信じない者になってしまうのです。そんな私たちに主イエスは信じる者になりなさいとおっしゃるのです。
私たちは週の初めの日、礼拝でキリストと出会います。礼拝でキリストと出会った私たちはそののちの日々にもキリストと共に歩みます。振り子のように信じる者と信じない者の間を行ったり来たりしながら、しっかりキリストが私たちに触れてくださっています。だから私たちは日々告白するのです。「わたしの主、わたしの神」と。
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