大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書9章24〜41節

2018-11-11 15:39:54 | ヨハネによる福音書

2018年11月4日 大阪東教会主日礼拝説教「あなたには見えていますか」吉浦玲子

<なお「なぜ」と問う人>

 主イエスの業によって一人の人間が救われました。神殿の外で来る日も来る日も物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目が開かれました。目が見えないゆえに神殿に入ることもゆるされず、信仰共同体からはじき出されていた人が、神殿へ入ることができるようになったのです。この人は視力が回復したのみならず、神との交わり、人々との交わりをも主イエスによって回復していただいたのです。主イエスのなさった素晴らしい業によって、癒していただいた人とその周りの人々の間にはさぞ喜びがあふれただろう、というと、まったくそうではなかった、それが今日の聖書箇所の少し前から記されています。

 そもそも9章の最初に、「ラビ、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という弟子たちの不躾な問いが記されていました。しかし、主イエスの時代のみならず、今日においても因果応報的な考えというのは人間を支配しています。因果応報と明確に意識はしなくても、私たちは想定外の事態に遭遇したとき、「なぜ」という問いを発さずにはいられないものなのです。大災害や事故に巻き込まれた人が、「なぜ」自分が?と思うこともあるでしょう。逆に大災害や事故に巻き込まれてどうにか自分は助かったのち、「なぜ」あの人は助からなかったのに、自分は、自分だけが助かってしまったのかという自責の念にかられる場合もあるそうです。もちろん「なぜ」と問うても答えは出ません、出ないけれども問わずにおられない、その問いにとどまって、未来を見ることができない、そういうことが往々にしてあります。

 9章の目が癒された人の周りにも、「なぜ」を問う人が多くいました。この生まれつき目の見えなかった人の目が見えなかった過去の「なぜ」を問うだけでなく、癒された理由も問われました。癒された喜びではなく、「なぜ」がまだ問題とされているのです。9章13節ではファリサイ派の人々のところにこの人は連れていかれて尋問をされています。目の見えなかった人の上に起きた素晴らしいことを喜ぶことなく、癒された日が安息日であったことから、この目の見えなかった人を癒した人は、つまり主イエスは<神のもとから来た人ではない>という人がいました。でも<こんなことを行う人が罪のある人だろうか>という人もいました。そこで人々は納得しませんでした。執拗に「なぜ」と問うたのです。目の見えなかった人の両親まで呼び出して尋問をしました。そして再度、目の見えなかった人を呼び出して人々は尋問をしました。

 「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」とユダヤ人たちは目の見えなかった人に告げています。<私たちは知っている>そうユダヤ人たちは言うのです。実際は、目を癒したお方がどこから来たかも、どういうお方かも知らない人々が、<自分たちは知っている>と語っているのです。「なぜ」と問いながら、実はもうすでに自分たちで結論を出してしまっているのです。生まれつき目の見えなかった人を癒した人間は罪人である、そう決めつけているのです。これはある意味、バカげたことのように思えますが、人間は、けっして理由が分からない事柄に関して「なぜ」と問う一方で、自分たちにとって合理的な理由を見つけたがるのです。「なぜ」と問うてもわからない、そのわからないところにとどまり未来に向かえないこともあれば、勝手に答えを出してしまうこともある、それがまた人間のありようです。

<癒された人が変えられていく>

 この物語の展開の中で、興味深いことは、目を癒された人が、おそらく最初は自分の目を癒してくださった方がどのような方かはっきりとは分かっていなかったのですが、いろいろな人とやり取りをしていくうちに、この人自身が主イエスについての確信を徐々にもっていっているということです。最初にファリサイ派の人々から「お前はあの人をどう思うのか」と聞かれたとき、この人は「あの方は預言者です」と答えています。これは、ヨハネによる福音書4章で、ヤコブの井戸の前で主イエスと会話をしたサマリアの女性が最初に主イエスに関して言った言葉と同じです。女性は「あなたは預言者とお見受けします」と主イエスに語っています。預言者というのは神の言葉を預かる人ですが、当時の人々の感覚でいうと神から特別な力を与えられた人だということです。この目の見えなかった人は、自分を癒してくださった方のことをはっきりとはわからないけれど、神からの特別な力を持った人だと感じていたのです。その目の見えなかった人が25節になると、大胆な物言いをするようになっています。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」と問われたとき、「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。」と反発をするような答えをしています。権力者から尋問をされていながら、この目の見えなかった人は、はっきりとものを言うようになっていたのです。この人の両親が20節で、はっきりとユダヤ人たちに答えず、「本人にお聞きください」と責任回避するような答えをしたのと対照的です。両親は、権力者たちの怒りを買い、不利益を被らないようにという考えがあったからです。しかしこの目の見えなかった人は、いまやはっきりと権力者たちに抵抗する姿勢を見せているのです。人々とのやり取りの中で、この人は、今目の前にいる権力者には真実がないことをはっきりと感じたからでしょう。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、きこうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」<あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。>というのは、かなり侮蔑的なニュアンスを持った言葉です。自分たちこそが、正しくて、人を教える資格がある人間だと思っている人々に対して、挑発的ともいえる言葉です。よりによって、権力者たちがあいつは罪人だと断定している人間の弟子になりたいのかと聞いているのです。当然、ユダヤ人たちは怒ります。そして目の見えなかった人を罵倒します。われわれは神がモーゼに語られたことは知ってるが、あの者がどこから来たのかは知らないと言い放ちます。それに対して、「へえ、あなたたち知らないのですか?」とさらに目の見えなかった人は応酬します「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」と実に理にかなったことをこの人は語ります。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と決然として目の見えなかった人は語るのです

 主イエスによって目を開かれた人は、変えられていきます。この生まれつき目の見えなかった人は、肉体の目のみならず霊の目も開かれました。そして変えられました。私たちもそうです。イエス様を信じても、洗礼を受けても、自分は変わり映えしない、そんなことはないのです。それまで絶対に敵に回してはいけないと考えてきたユダヤ人たちを前に臆することなくこの人はしっかりと言葉を発しているのです。いくら目が見えるようになったと言っても、権力者の前では、この世的な力関係から見たら非力な人間にすぎません。しかしなお、すでに新しく生き始めた人は大胆に変えられて、当時の常識から考えたらありえない行動をしているのです。キリストによって変えられたのです。しかしその人にユダヤ人たちはいうのです。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」<お前は全く罪の中に生まれた>お前は盲人であった、それはお前が罪人だったからだ、まだその因果応報にユダヤ人たちは縛られています。そしていうのです。その罪の中にあったお前が何を言うのか?すでに新しく生き始めている人に対して、あくまでも過去に縛り付けようとする言葉です。

 しかし、先週も申し上げましたように、キリストと出会った者は、過去ではなく、未来に向かって生きはじめます。出身や過去がどうであろうとも、若かろうが歳をとっていようが、新しく生きる者とされるのです。まさに自分自身に神の栄光が現れる、そのような生き方ができるようにされるのです。

 目の見えなかった人は、外に追い出されました。会堂の外に出されたのです。つまりユダヤ人の共同体から追放されたのです。ヨハネによる福音書が成立した時代、ユダヤ教とキリスト教が決定的に分離する時代でした。それまで主イエスを信じる人々もユダヤ教の会堂であるシナゴークに入ることをゆるされていました。しかし、ヨハネによる福音書が成立した時代、キリスト者は会堂から追放されました。この目の見えなかった人が外に出されたという記述は、厳密にいえば、主イエスがまだ生きておられた時代にはなかったことかもしれません。しかしあえて外に出されたと記述されていることには、福音書が成立した時代背景もあると考えられます。

<見える者とされて生きよう>

 その人が追放されたことをお聞きになった主イエスは、ふたたび目の見えなかった人と出会い、会話をなさいます。「あなたは人の子を信じるか」そう主イエスは問われます。<人の子>とはヨハネによる福音書においては、天から来られた救い主という意味になります。目の見えなかった人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えます。ここに信仰者の原点の姿があります。信じたい、でも、その対象がはっきりと見えていない、なにかもどかしいようなところにこの人は立っているのです。それに対して、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と主イエスはお答えになります。この目の見えなかった人は、自分を癒してくださった主イエスの顔は見ていなかったのです。「あなたと話しているのが、その人だ」という言葉に対して、「主よ、信じます」と言ってひざまずきます。不確かなぼんやりとした信仰への思いが、主イエスの言葉によって、新しい一歩へと押し出されました。私たちは私たちの力で信仰を得るわけではありません。主イエスと出会い、主イエスご自身に押し出されて信仰を与えられるのです。そしてまた、主イエスと出会い続け、主イエスの言葉を聞き続けるとき、信仰はさらに養われていくのです。

 主イエスはおっしゃいます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」この言葉には、みなさん、あれ?と思われませんでしょうか。ヨハネによる福音書3章には「神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とありました。主イエスは裁くためではなく、救いのために来られたのではないのか?しかしここでは、主イエスご自身の口から「裁くために来た」と語られています。しかし、これは矛盾しているわけではありません。主イエスご自身が裁かれるのではなく、主イエスが来られることによって、主イエスへの態度によって人々はすでに裁かれるということです。主イエスご自身が裁きの手をくだされる前に、すでに人間は裁かれているのです。

 しかし、すでに裁かれていた人間は、現実的にはイエス様を裁いて十字架につけました。イエス様ご自身が裁かれたのです。自分たちは見えると思っていた人々によって、主イエスは十字架につけられました。「なぜ」と問いながら、本来は分からないことに対して、自分たちで勝手に理由をつけて、自分たちは見えると考えていた人々に主イエスは殺されました。

 自分たちは見える者、分かっている者、そう考えていた者には、主イエスが天から来られた救い主であること、神の御子であることが見えていませんでした。「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と自分には天から来られた救い主が分からない、自分には見えないと言っていた人が、救い主が見える者とされたのです。

 私たちも見える者とされました。私たちは見えない者だったからです。罪のために本当の自分の姿が見えませんでした。なにより救い主の姿が見えませんでした。しかし見える者としていただきました。見える目を与えらえたのです。イエス様ご自身から与えられたのです。しかし人間はすぐに自分は見える者だと傲慢になるものです。自分が見える者だと思ったとたん、私たちは主イエスを見失います。そのたびに主イエスのお声を聞くのです。み言葉を聞くのです。見えない者として主イエスの言葉を聞きます。私たちの霊の目はそのときふたたび開かれます。


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