2021年10月10日大阪東教会主日礼拝説教「高慢こそ罪の根源」吉浦玲子
<弱さと痛みにゆえに>
昔、お世話になった隠退牧師があります。女性の牧師でした。いまよりも、女性の牧師の数が少なく、さまざまに制約のあった時代に、女性の牧師として道を切り拓い方でもあります。その先生は、現役時代、4つの教会でそれぞれに会堂建築をされた方でもあります。その4つとも、小さな教会で、経済的には常識的に考えて会堂建築なんて無理と思われていたところでした。にもかかわらず、建築を実現された。話をしていても大変迫力がある方でした。ずばずばと厳しくはっきりものは言われる方で、男性の牧師がたじたじとなるような方でした。しかしまた言葉の奥に愛を感じる方で、皆が頼りにしていました。その牧師と共通の知人がいて、その知人から聞いたことです。その牧師先生は結婚をなさっていましたが、子供がなかったそうです。高齢になってからも、それを時々気に病んでおられたそうです。先生は、若い時に病気をされて、子供を産むことができない方だったのです。ご主人はそれを承知で納得されて結婚をされ、夫婦二人で歩んでこられたのです。それでも、女性の先生は、時々思い出したように、自分には子供がいないということを悲しんでおられたそうです。で、知人がその都度に、「先生、自分には子供がいないというけれど、あなた、たくさん<霊の子供>を産んだでしょう?」というのだそうです。<霊の子供>は、信仰の上での子供ということです。その先生が洗礼を授けた人たちであり、また信仰を導いた人たちです。そうしたらその先生は「ああ、そうやそうや、感謝や、私には神様がたくさん<霊の子供>を与えてくださった」と気を取り直されたそうです。その話を聞いて、あの迫力のある、信仰の情熱の塊のような先生にも弱いところがあるのだなと感じました。でもかえって親近感がわいたところもありました。どんなに強いように見えていても、人間は神の前では皆弱い者です。しかしまた、思いました。私たちは神の前に生きる時、弱さや痛みゆえにゆだねられているものがあると。私たちは弱い罪人ですが、その弱さゆえ、罪ゆえに、むしろ神は、私たちに委ねてくださるものがあるのです。
さて、今日の聖書箇所には、長老という言葉が出てきます。ここでいう長老とは今日でいう長老教会における長老とイコールではありません。長老、執事、牧師、監督といった教会の職制はもう少し時代が新しくなってから成立します。今日の手紙の箇所で書かれている長老とは、その呼び名の通り、年配の人、というニュアンスがあります。ベテランの信仰者ということでもあります。しかし、ただ信仰歴の長い人、歳をとった人というだけでなく、教会を導いていくリーダーというニュアンスもあります。そういう意味では、今日の長老や牧師とも通じるところがあります。
その長老たちに私自身も長老なのだとペトロは語ります。同じ長老同士として長老方へ語りたいと、親身な思いで語りかけています。そしてまた「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として」とも語っています。ペトロにとって「キリストの受難の証人」ということは痛みを伴う言葉であろうと思います。福音書を読みますと、彼は、キリストの受難の時、つまり主イエスが逮捕され十字架におかかりになる時、逃げて、裏切った者だからです。ペトロは、おそらく、キリストの十字架そのものは見ていないと考えられます。ですからここでペトロは、自分は主イエスの生前からの弟子で、直接にその受難も目撃したのだということで受難の証人と語っているわけではないのです。逃げて裏切った自分が、復活のキリストに赦され、いままさに教会において長老として歩んでいる、その赦しのうちに、キリストの受難を覚えているということです。弱くて裏切った自分のために、キリストが十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに自分が赦されている、つまりキリストの受難の意味を身をもって知らされた者としての、受難の証人なのです。そういう意味では、私たちもまた受難の証人です。2000年前の十字架の出来事を目撃はしていませんが、今、それぞれにキリストのゆえに罪赦され、歩んでいる、その感謝の内に十字架を覚える時、私たちもまたキリストの受難の証人なのです。歳が若かろうが、信仰歴が浅かろうが、私たちは皆、キリストの受難の証人なのです。そして受難の証人であるということは、私たちは自らの罪ゆえにキリストを十字架につけた者であるという痛みと切り離して語ることはできません。
<羊をゆだねられる>
さらにペトロは語ります。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい、」「ゆだねられている」とありますが、これはペトロのいうところの長老が、神に対して、この羊とこの羊とこの羊を引き受けますと申告して引き受けたわけではありません。逆に羊の側も、この長老が良いと牧者を選んだわけではありません。牧者も羊も、神が引き合わせ、神が牧者にゆだねられたのです。牧者の側も、羊の側も、ある意味、選択権はないのです。神が羊を牧者にゆだねられたということを、牧者も羊も信じることができるかというのが、まず重要なことです。牧者が羊を選んだわけでも、羊が牧者を選ぶわけでもないのです。それが分かっていなければ、教会は成り立っていきません。牧師であれ長老であれ信徒であれ、それぞれに互いが能力や人格を査定しあって、この人は牧師にふさわしくないとか、長老としてふさわしいとか、人間的に判断をするのではないです。企業であれば、課長にふさわしいとか、社長の器の人だとか、優秀な社員だと査定はできるかもしれません。しかし、教会においては、そのような人間的な判断よりもまず先に神のご意志があることをわきまえ、それを大事に受け止める必要があります。もちろんこれは教会では一切文句を言うなということではないのです。適切な議論や批判はもちろん為すべきです。しかし、突き詰めますと、神の教会において、神にふさわしい者など、どこにもいないのです。ふさわしくない者、罪深く、弱い者が神の恵みによって、神から役割をゆだねられているのです。まずそこに立って歩むのが教会です。
ところで、ペトロが、牧者や羊という言葉を出すとき、私たちはヨハネによる福音書の21章を思い出します。このペトロの手紙を読む時、以前にも、引用した箇所です。主イエスが逮捕された時、「イエスなんて知らない」と三度も否定したペトロが、主イエスの復活の後、ガリラヤ湖の湖畔で復活の主イエスと出会う場面がありました。主イエスはペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問われました。ヨハネの子シモンとはペトロの正式な名前です。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」という問いは、イエスなんて知らないと言って主イエスを裏切ったペトロにとって複雑な思いを抱かせる問いだったでしょう。裏切る前の熱血漢だったペトロなら「はい、私は誰よりもあなたを愛しています」と自信満々で答えたでしょう。しかし、ペトロは「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えることが精いっぱいでした。自分の弱さ、罪を知ったペトロは、端的に「愛しています」と答えることができなかったのです。
信仰というのは、確信をもって信じるとか、自信をもって愛するということとは少し違うのです。ペトロだけではありません。私たちは誰でも、神の前に立ったとき、自分の弱さや罪が見えてきます。たしかに神を愛している、目の前におられる復活の主イエスを愛している、でも、そんな自分の心ほどあてにならないものはない、ペトロはよくよく分かっていたでしょう。といってもペトロは、もしふたたび事が起こった時、自分がまたイエスを裏切るとは思ってなかったでしょう。実際、復活のキリストと出会い、ペンテコステで聖霊を受けたペトロは、そののちどれほどの迫害にあってもひるまずキリストを宣べ伝える者に変えられました。しかし、変えられたからといって、変えられた自分、別人になった自分を誇ることはできないのです。変えられれば変えられるほど、自分の罪が見えてくるからです。それを赦してくださっている神の愛の深さを知るからです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、よしお前は試練をくぐり抜けて一皮むけて成長したからわたしの羊をゆだねようとおっしゃっているのではないのです。赦され、神の本当の愛を知った者とみなされ、神の憐れみにうちにゆだねられたのです。
そして、神の愛を知る者は、自分に権威を持つことができません。羊をゆだねられている、それは確かに神から権能を授かっているということです。しかし、だからといって、それを誇ることはできないのです。「権威を振り回してはならない」とペトロは戒めますが、神に愛されていること赦されていることを知る者は権威を振り回すことはできないのです。
<愛に感謝して>
さらにペトロは若い人たちへ勧めます。「長老に従いなさい」と。神から羊をゆだねられている長老に従うということは、神の御心に従うということです。繰り返しますが、それは無批判に従えということではありません。そしてまた、長老が立派だから従うのでもありません。長老に模範となれ、とペトロは語っていますが、それは立派な信仰者として模範を示せということではないのです。神の前に弱い者、罪人して、誠実に立ち続ける姿を見せよということです。失敗して罪を犯して悔い改める姿、弱い者としてひたすら神にすがる姿をもって模範となるということです。若い人たちもまた、その姿勢を見習って、神の前に弱い者として立っていくのです。
とはいえ、模範となれと言われると、とてもとても無理だと感じられるかもしれません。また逆に、他の人を見て、ついついこの人は模範にならないと感じたりするかもしれません。私自身、ある大先輩の牧師が、私を始め、居並ぶ後輩の牧師たちに対して「あなたがたは、信徒さんに対して、パウロのように「わたしを倣いなさい」と言わなくてはならない」とおっしゃるのを聞いて、それは難しいなと思ったことがあります。実際、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ4章16節で「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」と語っています。これはパウロが特別に大伝道者だから言えることであって、普通は言えないことだと感じてしまいます。さらに言えば、いくら立派な伝道者だからといって、「自分に倣え」なんてちょっと傲慢なんではないかと感じたりもします。しかし、パウロは自分の何を倣えといっているかというと「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」だというのです。ここで、キリスト・イエスに結ばれたとパウロが語っている「結ばれた」という言葉は、ギリシャ語でἐν Χριστῷという言葉です。「キリストにあって」とも訳される言葉です。何回か説明をしたことがありますが、これはキリストにすっぽり包まれているというニュアンスのある言葉です。パウロは、自分はすっぽりとキリストの愛に包まれている、自分が立派だとか、功績があるということではない、ただただキリストの愛に包まれているあり方をしている、その生き方を倣いなさいということです。逆にそのキリストの愛からはみ出して、自分の手柄や宗教的な立派な態度に価値を置く生き方をしてはならないということです。
キリストの愛にすっぽり包まれていることを感じる時、私たちは、平安を与えられます。不安を取り除かれます。そして本当に謙遜な者とされます。謙遜の前にキリストの愛が先立つのです。「互いに謙遜を身につけなさい」とペトロは語りますが、謙遜は、神の愛に自分が包まれていることを知らなければ身につきません。自分の行いや思いが神の愛より先立っているならば、謙遜にはなれないのです。努力をして腰を低くして、謙遜な態度を身につけるのではありません。ただただ神の愛を知る時、私たちはおのずと謙遜にされるのです。今ここにいる私たちはそれぞれに豊かに神の愛を受けている者です。しかしまたその愛に感謝しながら、その愛の深さを実はあまり知らない者でもあります。私たちが思っているより、ずっとずっと私たちは神に愛されています。私たちはその愛を、生涯かけて深く知っていきます。その愛を知れば知るほど、謙遜な者とされます。謙遜な者にいっそうの恵みが与えられるのです。そして多くをゆだねられる者とされます。
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