2020年11月15日大阪東教会主日礼拝説教「重荷を降ろす」吉浦玲子
【聖書】
使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>しかし、シラスはそこにとどまることにした。†しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。
【説教】
<主を求める者とされて>
最近、ある未信徒の友人と話をする機会がありました。彼女は若い時からかなり苦労してこられた方です。結婚生活においてもかなりご苦労をされていましたし、小さなお子さんを抱えながらご自身も命にかかわる重い病を得られました。幸い病は癒されましたが、いまも家庭的なたいへんな苦労は続いています。その方はたいへんしっかりなさっていて、愚痴などはこぼされませんし、淡々と前向きに生きておられます。その方と話していて、ある意味、私は圧倒される思いがありました。その方がクリスチャンであれば、ああこの方は神様に守られていたから、信仰によってこのような苦労の連続の中でも、耐えてこられたのだなと思えるのですが、そうではないということに驚いたのです。そもそも日本人のほとんどはクリスチャンではありませんし、これは当たり前のことかもしれません。自分自身が信仰生活が長くなって、信仰をお持ちでない人の心というのが分かりにくくなっているのかもしれません。しかし、つくづく思ったのです。本人の心の持ちようや強さで、人間は、どんな逆境でも耐えられるのでしょうか?耐えられる人には神の救いはいらないのでしょうか?
先週の聖書箇所で旧約聖書の中のアモス書が引用されていました。「人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」神のご計画は人間を神を求める者とされるのだと預言者たちは預言したのです。そして、もともと神を知らなかった異邦人たちが神を求める者とされていく姿が今、礼拝で読んでおります使徒言行録には描かれています。2000年前に生きた異邦人にも、喜びも悲しみもあり、生活があり、誠実に行きたいと願い、実際、もともとは聖書の神は求めていなかったけれど、それなりに立派に生きた人々もあったでしょう。日本においてもそうです。日本に生きる私たちも聖書的に言えば異邦人です。しかし、キリスト教伝来以前の日本に住んでいた人々はダメな人間だったなどということはもちろんないのです。聖書の神を知らなくても、求めてなくても、それなりに生きていくことはできるのです。誠実に家族生活、社会生活を送ることはできるのです。
神を求める、ということは人間の側の問題ではないのです。もちろん、実際のところ、試練や病が契機となって、神を求めるようになった方々は多くあります。しかし、直接的な事情はどうであれ、神を求める心は、神ご自身がお与えになるのです。「人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」とあるように、<求めるようになる>であって、<人間の方が求めたから>と神はおっしゃっていないのです。本来、人間は神などなくても、ある意味、生きていけるのです。しかし、神の方から、わたしを求めよ、と招いてくださるのです。招きに応じなくても、それまで通りの生活はあるのです。しかし、招きに応じた時、まったく違う新しい道が拓けていきます。それはこの世的な繁栄や利益にはつながらない場合もあります。しかし、確かな平安と喜びと光に満ちた道が与えられるのです。神を知らないときに担っていたもっとも重い荷物、罪の重荷を取り除かれ、軽やかに歩むことができるのです。
<正しさを伝えるために>
さて、神によって神を求める者とされたアンティオキアの教会の異邦人たちに混乱が起こりました。ユダヤ人たちが、<ユダヤの律法を守らないと救われない>と、異邦人たちを惑わすような教えを伝えたのです。先週もお話をしましたように、律法というと現代の日本に生きる私たちには関係のない問題のように感じます。しかし、これは信仰の根本に関わる根の深い問題です。神を求める者と神が変えてくださったにも関わらず、人間の側の律法の遵守が救いの条件とされるというのはおかしなことです。キリストの十字架と復活によって罪贖われ、イエス・キリストを信じることによって神の前に立つことを赦されたにもかかわらず、十字架と復活以外のものが救いに必要だというのは、キリスト教におけるファリサイ派的思想です。しかしこれは現代における教会でも多くあることです。熱心な行いによって救われるという考えはありがちなのです。これは、神の恵みの業を信じられないということであり、十字架を冒涜することです。
先週読みました聖書箇所では、このことに関して、エルサレムで正式が会議が持たれ、異邦人が律法を遵守する必要はないことが確認されました。これは全体教会として正式に決定され、その内容は丁寧に、ことの発端となったアンティオキアの教会へ伝えられました。アンティオキアの教会から派遣されてきたバルナバとパウロと共に、エルサレム側から指導的な立場にあったユダとシラスが使者として同行しました。彼らはエルサレムからの正式文書を携えてアンティオキアにやってきました。決定に関して、文書だけでなく口頭でもユダやシラスが説明したのです。単なる通達、事務手続きとして行われたのではなく、豊かな信仰的な交わりの中で決定は伝えられたのです。
これは、混乱し、傷ついた人々もいたであろうアンティオキアの教会を力づける意味もありました。教会は教理的なことがらを曖昧にしてはなりませんが、ただそれを、頭ごなしに押し付けるのではないのです。人間の痛みや悲しみに心を配りながら、信仰の事項として丁寧に伝えていくのです。
神の正しさは、愛と矛盾しません。神は十字架において、正しさと愛を示されました。そしてそれは人間同士においてもそうです。しかし、人間同士においては、正しさをむやみに振りかざして人を傷つけることが往々にしてあります。そこで振りかざされる正しさが、神にある正しさではなく、人間が勝手に考える正しさだからです。愛のない正しさだからです。現代は、バッシングの多い社会です。少しでも間違いを犯した人間を徹底的に批判をします。しかし、神から来る正しさは厳しい側面ももちろんあり、人間に悔い改めを迫るものでありますが、同時に人間を活かすものです。人間の命を豊かにするものです。愛へと人間を導くものです。
<励ましに満ちた>
アンティオキアの異邦人たちは、エルサレムからの愛に満ちた知らせに励まされました。この励ましという言葉は、神による慰め、力づけという意味を持ちます。強い言葉です。彼らに伝えられたのは、単に論争に勝利したということではなく、干からびた心が水を得るような豊かさであり、力尽きた足腰がしゃんとされ立たされるような力です。
そして正式な通達を聞くのみならず、エルサレムから来たユダとシラスと霊的な交わりをしました。「ユダとシラスは預言する者でもあった」とあります。つまりユダとシラスは神の言葉を語ったのです。神の言葉を通して、エルサレムから来たユダとシラス、そしてアンティオキアの人々は交わったのです。神を信じる者の交わりの中心には神の言葉があるということです。
神に招かれて、神を求めて生きるということは、神の励ましのもとに生きるということです。神の励ましは、神の言葉によって与えられます。神の言葉によって私たちは、生ける神イエス・キリストと出会います。そこに本当の力の根源があります。そしてまた、隣人との交わりがあります。
私たちは、人間的な努力や忍耐で人生を生き抜くことは可能かもしれません。しかし、神に招かれ神を求めて生きるというということは、人生の荒れ野の中に、たえずオアシスのような豊かさが与えられるということです。自分で調達した水や食料で生き抜くことは可能かもしれません。しかし、神を求める者は、神ご自身から注がれる水や命の糧によって生かされるのです。
ところで、日本でも新型コロナウィルスの感染者がまた増えてきてました。第三波と言われています。ウィルスの性質が少しずつ解明されてきている側面もあり、春ごろとは状況は異なりますが、まだまだ未知の部分の多いウィルスであることは変わりはありません。全世界的に、まだまだ深刻な状況が続きます。北半球においては、冬に向かう季節の中で、重苦しく先の見えない戦いが続きます。
当たり前のことながら、クリスチャンは新型コロナウィルスに感染しないということはありません。クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、精一杯予防をしてても、感染することはあるでしょう。ことにクリスチャンにとって象徴的なことは春のイースターに続いて、これからアドベント、クリスマスに向かう季節であるということです。教会の最も大きな祝祭であるイースターのみならずクリスマスにも新型コロナウィルスが影を落としています。今年はクリスマス礼拝の後の祝会やイブ礼拝は中止の予定です。寂しいクリスマスと言えます。しかしまたそこに神の問いかけがあるようにも思います。本来、春の訪れのようにイースターがあり、寒く暗い季節に灯りを灯すようにクリスマスはありました。2020年はそのいずれの祝祭も例年のようには祝えなくなりました。
しかしなお、私たちは御言葉によって神の励ましの言葉を聞きます。パーティもゲームもプレゼントも例年のようではないかもしれない、でも私たちは神の言葉をいっそう聞くのです。静かに耳をすまして聞きます。2000年前、暗いベツレヘムの空に輝いた星の輝きを見るのです。天の大軍の賛美を聞きます。御言葉を通して聞きます。そこに本当の神の慰め、罪からの救いを与えてくださった神の恵みを見ます。そして例年のような直接的な交わりは持てないかもしれませんが、なおそれぞれに隣人を思いながら祈りを深め、共同体として歩みます。
<新しくされる>
さて、新共同訳聖書の本文には記されていませんが、34節の後に、ギリシャ語聖書の写本によっては、シラスがアンティオキアにとどまったことが記されています。P272の捕捉によってそれがわかります。
混乱と分裂に陥ったアンティオキアの教会でしたが、新たな人々との交わりが与えられ、また、新しい宣教者が増し加えられたのです。このシラスは、これからのちの、パウロの新たな宣教旅行にも同行するメンバーとなるのです。ひととき試練の中にあった教会が、くすしき神の恵みによって新しい出発をするのです。ようやく元の平静を取り戻したというのではなく、新しく歩み出すのです。
私たちも神の恵みの内に、試練ののちに、なお新しく出発をします。教会の歩みもそうです。神を求める者には、必ず新しい希望が与えられるのです。
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