大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書8章21〜30節

2018-10-21 15:12:59 | ヨハネによる福音書

2018年10月7日大阪東教会主日礼拝説教 「あなたはどこに属するのか」 吉浦玲子

<出口のない罪の迷路で死ぬ>

 「わたしは去って行く」主イエスはふたたびご自身がこの世界から去って行かれることを語られています。主イエスはご自分が十字架にかかられることを語られています。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」そう今日の聖書箇所で語られています。同じ言葉が少し前の7章34節にもあります。その言葉の真意を人々には理解できません。7章では「この男はギリシャ人のところへ行くつもりか」と人々はいい、今日の聖書箇所では「自殺でもするのか」と人々はいぶかしがります。

 会社員時代、入社したころは、社員証や社員バッチを警備員さんに見せれば社内に入ることができました。昭和から平成のはじめくらいまでは、そういうものを忘れても警備員さんは社員の顔を覚えていますからだいたい顔パスで入れてくれました。しかし、だんだんとセキュリティがうるさくいわれるようになって、電子化されたカードで認証されなければ入門できなくなってきました。そのうちさらに、社内でも入れる範囲というのが所属や仕事内容や役職などによって細かく複雑に分けられるようになりました。隣の部署の自分は本来入れない場所に行かなければならないた場合、そこの部署の人から内側から扉を開けてもらったり、迎えに来てもらって部屋へ入ります。しかし、途中でちょっとうっかりドアを出てお手洗いなどに行ったりしたら、もう二度ともといた場所に入れなくて、そこの部署の人が探しに来るまで廊下で立ち往生ということもありました。

 主イエスは「あなたたちはわたしを捜すだろう。」しかし「見つけることはできない」とおっしゃるのです。まるでセキュリティシステムで締め出すかのようです。そして「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」このような怖ろしい言葉も語られています。この言葉を聞きますと罪という出口のない迷路のなかで死を迎えるというイメージが湧いてきます。セキュリティでロックされて扉は開かない、逃げ道もない、誰も迎えに来てくれない、そんな罪の迷路の中であなたたちは死ぬのだと言われているようです。しかも、この「罪のうちに死ぬ」という言葉は21節と、さらに24節では二回、合わせて三回繰り返されています。しかも、24節の前半の罪という単語はギリシャ語では複数形になっているのです。主がどれほどのこの恐ろしい言葉を、人々への警告として強く語られたかということがわかります。

 いま、聖書研究祈祷会では、サムエル記を読んでいます。サムエル記の最初の部分は、やがてイスラエル最初の王となるサウル、そして偉大なダビデに油を注ぐことになる預言者サムエルの物語になっています。そのサムエルの少年時代に、サムエルが仕えていた当時の祭司であったエリにはたいへん行状のよくない息子がいました。息子たちも祭司でしたが律法に違反して捧げものの肉を横取りしたり性的にも不品行を行っていました。それを知りながら、その息子たちをエリは祭司として仕えさせ続けました。それはエリ自身の罪でもありました。そのエリに対して神は警告をなさいます。最初は預言者を通して、つぎには少年サムエルを通して。警告は繰り返されます。旧約聖書を読んでわかることは、このサムエル記に限らず、神の警告というのは多くの場合、繰り返されるということです。逆に言うと神は繰り返し警告をしてくださるということです。一回で人間が立ち返らなくても、なお繰り返し警告をなさるのです。人間が悔い改めることを待ってくださっているからです。神の警告は裁きの警告であり恐ろしいものでありますが、同時にそこには神の愛と憐れみもあるのです。ご自身から離れている人間への神の切なる思いがあります。主イエスもまた、切なる思いをもって、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告なさっているのです。

<神の国との断絶>

 さらに主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」ともおっしゃいます。あなたたちは下のものに属していてわたしは上のものに属しているというと、あなたたちは下々の者で、わたしは高級な者であるとおっしゃっているように聞こえます。たしかに主イエスは神の御子ですから、神の御子からしたらすべての人間は下の者、下々の者ではあるといえなくはありません。しかし、単純にそういうことをおっしゃったわけではありません。主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」という言葉を言い換えて、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」とおっしゃっています。「世」というのは、罪で壊れている世界であると、先週申し上げました。人間はそもそも罪で壊れた世界に属しているのです。その罪で壊れた世界が主イエスのおっしゃる「下」なのです。神がおられる上の世界、つまり天とは人間はもともと切り離された存在なのです。アダムとエバの時代からそうなのです。この世と神の世界は決定的に断絶しているのです。

 しかし、人間はその決定的な断絶がわかりません。主イエスに向かって「自殺でもするつもりなのだろうか」と言い合っているユダヤ人にとって、自殺とはもっとも神から離れた罪深い行為でした。つまり自殺するとは神のおられる天から最も遠い、下の下に行くということを意味します。ユダヤ人たちは自分たちは律法を守り正しいのだから、上にいるつもりでした。上にいる正しい自分たちから見て、主イエスを下に見ているのです。その主イエスが去るとおっしゃっていることに対して、自殺でもするつもりかというのは、この男はもっと下に行くのかと考えているのです。神を自分の下に置く、それこそが罪の最もたるものです。神を、神の御子を下の下に見ながら、人間は罪の中に死ぬのです。罪の迷路から出ることはできないのです。

<時代を貫いて「わたしはある」>

 しかしまた24節を読みますと「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃっています。逆に言いますと、「わたしはある」ということを信じるならば、罪のうちに死ぬことはないということです。「わたしはある」という言葉については何回か礼拝でご説明したことがあります。エゴーエイミーというギリシャ語で、「I am」ということです。わたしは存在しているものである、というような意味になります。出エジプト記で、神に対してその名前を問うたモーセに神がお答えになった「『わたしはある』というものである」というヘブライ語の言葉の「わたしはある」と同じ言葉です。つまり神がご自身を顕された言葉が「わたしはある」なのです。

 ヨハネによる福音書には「わたしはある」という言葉をはじめ、主イエスが「わたしは~~である」とご自分を顕される表現が多く出てきます。今日の聖書箇所の少し前では「わたしは世の光である」とおっしゃいました。さらにヨハネによる福音書の後半には、有名な「わたしは道である」「わたしはまことのぶどうの木である」「わたしは真理である」「わたしは良い羊飼いである」といった言葉が多く出てきます。それは神である主イエスがご自身について、繰り返し、わたしたちに主イエスのことを理解できるように語りかけてくださっている言葉です。

 ところで、これはある方の話からの孫引きになりますが、アウグスティヌスという偉大な神学者は、この「わたしはある」という言葉は永遠に現在形なのだと語っているそうです。神という存在は永遠に過去にならないということです。つまり、つねに現在でありつづけるお方が神であるとアウグスティヌスは語っているそうです。この地上のすべてのものは、人間も動物も建物も、やがて過去のものとなります。言うまでもなく、すべての人間は死にます。その存在はやがて必ず過去になります。壮大な建物もやがて朽ちます。東洋的な感覚でいえば、すべてのものが移ろい、流れていく、変化していく、一定していない、刻一刻、すべてのものが過去となっていきます。しかし、神はそうではない、永遠に現在なのです。イザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。神の言葉はとこしえに失われないのです。その言葉は単に聖書という書物に印刷された言葉ということではありません。わたしたちの記憶に永遠に残る言葉ということでもありません。言葉なる神である主イエスの存在そのものがとこしえに立つのです。主イエスが言葉そのもののとして永遠におられるということです。<わたしは世の光である>と語られた主イエスが、いついかなるときも、人間の歴史を超えて、時代を貫いて「わたしはある」ものとしておられるのです。

<人の子を上げる>

 そのとしえに立たれるお方は「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と今日の聖書箇所の後半で語られています。人の子を上げたとき、それまで主イエスが「わたしはある」というお方であることを信じなかった者もやがて知ることになる、とおっしゃっています。「人の子」という言葉は旧約聖書においては、もともとは、一般的な「人」と同じで、ごく普通に人間を示す言葉として使われていました。しかし、やがてこの言葉は人間のような姿をとった天的な、神的な存在、さらには救い主メシアを指す称号として使われるようになりました。新約聖書においては、使徒言行録における一回の例外を除いて、「人の子」という言葉は主イエスご自身がご自分を指す言葉として語られています。つまり人となって来られた救い主、神としてのご自身を指す言葉として「人の子」と語られたのです。

 その救い主である自分をあなたがたは上げるのだ、そのときあなたがたは知ることになると語られています。上げるというのは十字架に上げるということです。主イエスを理解せず自殺でもするのか、下の下に行くつもりかと考えた人々はイエスを十字架に上げるのです。罪人として上げるのです。上に上げると言っても、十字架にかけるのです。そもそも律法の言葉に「木にかけられている者は呪われる」とあります。十字架は神の呪い以外の何物でもありません。自殺しそうな、下の下に行きそうと考えたこの男をやがて人々は神の呪いにふさわしいものとして十字架に上げる、つまり木にかけるのです。ここで主イエスは「上げられる」と受け身ではおっしゃっていません。「あなたたちは、人の子を上げたとき」と、上げる主体はあなたたちであることを強調されています。しかし、人の子を上げたとき、つまり神の子を呪われた者として殺したとき、初めてあなたたちはすべてを知ることができると主イエスはおっしゃっています。

 逆に言えば、私たちは神の子を呪われた者として十字架に上げなければ、つまり自らの手でキリストを上げなければ、主イエスが「わたしはある」というものであることを知ることはできないのです。今年の受難説に壮年婦人会で「パッション」という映画を見ました。「パッション」について何度か申し上げたことですが、あの映画の監督のメル・ギブソンは<他ならぬ自分がイエス・キリストを十字架につけた>という信仰告白をもって映画を作成したそうです。ですから、イエス・キリストが十字架に釘で打ち付けられる場面の打ち付ける手はメル・ギブソン自身の手だったそうです。まさに自分がキリストを十字架につけた、上に上げたのだという信仰告白なのです。私たち一人一人も思いの強弱、信仰体験の違いはあっても、人の子を上げた一人一人です。神を呪われた者として木につけて殺したのです。

 こう申しますとひどく重苦しい思いとなりますが、しかし、主イエスはそのときこそ、私たちは主イエスキリストが「わたしはある」というものであることを知るのだとおっしゃってくださっています。本当にイエス・キリストは神の御子であること知ることができるのだとおっしゃってくださっています。そのとき、私たちは罪の迷路の中で死ぬことはなくなるのです。セキュリティロックされたようなどこにも出口のないようなところにいた私たちのために主イエスは木にかかってくださり、呪われてくださり、私たちを信じる者としてくださいました。それは固く閉じられていた救いの扉をこじ開けて救い出してくださるためでした。私たちが罪の中で死なないように、天と断絶したこの世に生きる私たちになお天への道を開いてくださるためでした。私たちはキリストがこじ開けてくださった扉から出ていきます。その歩みは天を目指す歩みとなります。さきほど「上げる」という言葉は木にあげられる、呪われた者としてキリストを十字架につけることだと申しました。人間から見たら確かにキリストは罪人としてみじめに木につけられ十字架に上げられて死なれました。しかし、そこにこそ私たちの救いがありました。そのことのゆえに、「上げる」ということは栄光へとキリストがあげられることをも意味します。人間の目にはみじめで凄惨な刑罰の現場が、神の栄光の表れとされるのです。その栄光のゆえに扉は開かれました。私たちはその開かれた扉を自分の手で閉ざしてはいけないのです。いま、キリストをお迎えします。私たちの最も大事なところへ最も中心へとキリストに入ってきていただきます。そのとき、私たちの歩みもまた栄光の上に向かって始まっていきます。


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