大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録13章42~52節

2020-10-18 14:23:02 | 使徒言行録

2020年10月18日大阪東教会主日礼拝説教「地の果てまでも」吉浦玲子

【聖書】

パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

【説教】

<神の恵みの下に>

 アンティオキアでの最初の説教は好意的に受け取られました。集会が終わってからも多くの人々がついて来たということは、キリストを信じる信仰者が起こされたということです。彼らにパウロとバルナバは「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。キリストを信じる者は神の恵みの下にすでに生かされています。パウロとバルナバは、その恵みから外れないようにと勧めました。そもそも恵みとはなんでしょうか?神さまの恵みによって物事がうまく進むことでしょうか?キリスト者は特別ラッキーな人生を送ることができるのでしょうか?そうとは限らないことを私たちは信仰生活が長くなればなるほど知ります。恵みとは、キリストの十字架ゆえに、罪の赦しを得て、罪の重荷を取り除かれて神との交わりを回復させていただいて生きることです。そしてその恵みは自分の力とは無関係に神から与えられるものゆえに、恵みなのです。神が一方的に与えられるものが恵みです。その恵みに生きるのがキリスト者なのです。昨日は寒い冷たい雨の一日でしたが、今日は晴れ間がのぞいています。神の恵みというのは、この晴れ間のように、私たちの努力や思いを越えて、一方的に与えられるものです。私たちはただ感謝してその恵みを受け取るのです。

パウロは恵みの下に生き続けるようにと言っていますが、それは恵みを恵みとして感謝して受け取るというしごく単純なことです。私たちは雨が続いた数日の後に晴れた空を見るとうれしくなります。しかし、毎日晴れが続いているときは、それほど晴れた空をありがたくは思いません。また晴れていてもカーテンを閉ざして部屋に籠っていたら美しい空を見上げることもありません。神の恵みを恵みとも思わず、当たり前の者のように思っていれば感謝の気持ちはわきません。あるいは目をそらしているならば、さらにはその恵みを自分の手柄のように思うのであれば、感謝はできません。あの青空はこの私のおかげで晴れているのだと思っている、そのような滑稽なことが、傲慢な心を持っている時、実際起こってきます。あの青空は自分ががんばって徳を積み重ねたから晴れたのだというような勘違いが起こるのです。神の恵みは神から与えられたものを感謝して受け取るとき、まさに恵みとして私たちの日々を喜びに満たすのです。

<異邦人への光>

 さて、神の恵みの下で喜び感謝する人もいれば、恵みに対してカーテンを閉ざしたままの人もいます。閉ざすだけでなく、その恵みの下に生きようとする人々に反対する人々もいます。パウロとバルナバは、このビシティア州のアンティオキアでも、反対者、妨害者と対立をします。反対者・妨害者はユダヤ人でした。彼らは、当初は好意的に受け取ったパウロたちの言葉にやがて妬みの心を起こしました。それは彼らが多くの人々を集めたということがらに対してでした。しかしまた同時に、そこにはパウロたちが語る「信じる者は皆、キリストによって義とされる」という言葉への反発が本質的にあります。律法を守り努力してきた自分たちのあり方を否定されたと感じたのです。神の言葉より、自分たちの行い、努力を彼らは大事にしました。反対者たちは、神中心ではなく人間中心だったのです。

そしてまたこの箇所では大変重要なことが語られています。そしてまた重要ではありますが、注意深く読むべき箇所でもあります。つまり救いは、ユダヤ人たちにまず与えられるはずだったのだが、ユダヤ人のかたくなさのゆえに異邦人へ与えられることになったということです。ただ、ここは短絡的にユダヤ人批判と読むと、歴史的に繰り返されたユダヤ人への迫害につながっていくものなので注意が必要です。

そしてまた、救いが異邦人に向かったというのは、自分たちを拒絶するユダヤ人に対してパウロが短気を起こして「わたしたちは異邦人の方に行く」と言ったからというのではありません。そもそも異邦人の救いは、旧約聖書において、預言者によって預言されています。つまり神によって定められていることなのです。引用されている言葉はイザヤ書の49章にある言葉です。異邦人への救いの光としての主イエスを預言した言葉です。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた」という「あなた」は本来、主イエスを指します。しかし、さらにパウロは、このイザヤ書に記された「あなた」を主イエスによって伝道に召された伝道者である自分たちも含めて語っています。神の福音はユダヤ人を越えて、地の果てまでも照らす光であり、実際、この極東の地にまでその光は届いたのです。地平線にほのかに太陽の光が感じられる、それがキリストの到来でした。その光が東の空に広がり太陽が姿を見せるようにキリストはご自身を示されました。さらにその光が、やがて空全体を地上全体をくまなく照らすように地の果てまでも福音は伝えられました。

<神に定められた>

 さて、パウロの言葉を異邦人たちは喜び、主を賛美し、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」とあります。この言葉は少し不安を与える言葉です。「永遠の命を得るように定められている人」とは誰でしょうか?永遠の命を得るように定められた人がいるということは、定められていない人もいるということです。何より、お定めになったのは神であるとするならば、そもそも人間の意志というのは意味があるのでしょうか?あるいは伝道をするということは意味があるのでしょうか?結局、神が定めておられる人は信仰に入り、定められていない人は入らないのならば、信仰に入ろうと決める人間の決断や伝道をすることには意味がないのではないでしょうか?

 たしかにそれはそうなのです。すべては神が定められることです。とても変なたとえかもしれませんが、神はあらかじめ定められた人に救いの招待状を送られます。その招待状は、人間によって配達をされるのです。牧師から配達されたり、友人のクリスチャンであったり、音楽や文学を通して配達されます。そして配達された招待状を受け取った人は救いのプレゼントを受け取るために指定の場所まで行くのです。それが洗礼であり信仰告白です。結局、それは最初の恵みの話とも繋がりますが、神から招待状を受けて、それを受け取り応答をするか否かというところに救いはかかっています。救いを受け取った人が、逆に言いますと命を得ると定められていた人と言えます。実際のところ神はすべての人に招待状を送られるのです。それに応答した人が結果的に命を得ると定められていた人なのです。もちろん招待状に応答するというのは人間の行動ですが、何より先に神の恵み、配慮があったということが「定められた」と例えられているのです。

<なお信仰は残った>

 そしてこの地域に、神の言葉は広がりましたが、同時にパウロとバルナバへの迫害も起こりました。結局、パウロとバルナバはこの地方から追い出されました。「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々扇動して」とありますから、権力者・政治的な力によって追い出されたということです。これは反対派からしたら勝利です。これはこの地域の福音伝道においては大きな打撃です。福音伝道の挫折と言える出来事です。反対派は快哉を叫んだことでしょう。パウロとバルナバは、「足の塵を払い落とし」て他の地域に向かいました。この「足の塵を払い落とす」という表現は主イエスの言葉です。福音書によりますと、かつて弟子たちを宣教に送り出された主イエスは弟子たちに言います。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出ていくとき、足の埃を払い落としなさい。」福音を受け入れない人の家や地域の埃や塵さえも、もらう必要はないということです。主イエスは何が何でも、人々が回心するまでがんばれ、とはおっしゃっていないのです。きちんと、福音を語ったら、あとはその恵みを受け入れるか受け入れないかは聞いた人に任せるのだということです。永遠の命を得るように定められている人は福音を受け入れるからです。伝道に関わらず、人間はもちろん努力をしますが、最終的には神にゆだねます。100%人間の努力で物事がすべて決まるのなら、そこには神の恵みの意味はありません。

さて、福音を受けれいなかった人々からしたらパウロとバルナバはほうほうの体で逃げ出したと思ったかもしれません。しかしパウロとバルナバはやるべきことをやり、毅然として去ったのです。この世には、勝ち負けがついたと感じられることがあります。結果が出てしまったと思われることがあります。教会でいえば、宣教が失敗したと思われることもあります。しかし、聖書を読みますと、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とあります。パウロとバルナバがこの地方から追い出され、福音を信じた人々はがっかりしたのではありません。喜びと聖霊に満たされたのです。神の恵みはたしかにこの地域に注がれたのです。蒔かれた種はたしかに根付いたのです。

<神が見せてくださる>

私たちの日々にも徒労に終わってしまったように感じられることが起こります。試験に失敗する、仕事が行き詰まって途中でやめざるをない、そんなこともあります。以前勤めていた会社でしたら満を持して売り出した製品が売れなくてプロジェクトが解散する、そんなことがありました。多くの時間とお金と労力が無駄になってしまったのです。具体的な製品名は上げられませんが、実際、売れなくて失敗とみなされた商品がありました。しかし、数年後、売れなかった製品のために開発された技術が、まったく違うカテゴリーの製品に使われて、その製品がヒットをするということもありました。失敗したと思われたいた製品開発で培われた技術やノウハウが生かされたのです。

私たちの日々においても、失敗だと思っていた時に積み重ねていたことが、ひょんなことからやがて役に立つこともあります。そもそも神の業には全く無駄はありません。一ミリたりとも、一秒たりとも、神の目からは無駄なものはないのです。ひとときは失敗だと思っていたことが、やがて大きく成長します。私たちは必ずしもその成長を自分の目で見ることはないかも知れません。種をまいただけ、あるいは種も蒔けずに土を耕しただけ、耕すこともできず、ただ荒れた土地からせっせと石を取り除いただけで終わることもあるかもしれません。しかしそこにやがて、神が豊かな実りを与えてくださいます。私たちはその実りを地上において自分の目で見ることができないかもしれません。

ヘブライ人の手紙に有名な言葉があります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たという言葉です。かつて荒れ野を40年旅したモーセは約束の地に入ることができませんでした。人生を終える時、ネボ山の上から、やがて出エジプトの民が入っていく約束の地を見ました。乳と蜜の流れる神の約束の地を見たのです。私たちもこの人生において願ったものをすべて手に入れることはできないでしょう。やろうと思って果たせないこともあるでしょう。しかし信仰において、私たちは来るべき未来、神が成し遂げられるビジョンを見せていただきます。目の前には荒れ果てた土地が広がっていようとも、足の塵を払い撤退しないといけなくとも、未来の希望を見せていただきます。それは現実に屈することではありません。そこになお神の恵みがあるのです。信じる者には神の恵みの光は絶えることはありません。そして同時に、神が見せてくださる希望の未来に生きるのです。未来へ続く現在の恵みに生きる。それが私たちの歩みです。

 

 

 

 



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