2021年1月10日大阪東教会主日礼拝説教「真夜中の賛美」吉浦玲子
【聖書】
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」
群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。
【説教】
<不思議に騙されない>
今日の聖書箇所には占いの霊に取りつかれている女が出てきます。彼女の占いはよく当たったのでしょう。お金を取って、彼女に占いをさせて、主人たちは儲けていたのです。彼女を支配していたのは主人たちでしたが、それ以上に悪しき霊が彼女を縛っていました。その悪しき霊はパウロたちの正体を分かっていました。かつて主イエスが宣教なさっていた頃、悪霊たちは主イエスが神から来られた救い主であることを分かっていました。人間よりも悪霊は主イエスがどなたであるかよく分かっていたのです。それは悪しき霊は自分たちが、やがて終わりの日に主イエスに滅ぼされる存在であることを知っていたからです。ですから主イエスを悪霊は恐れました。マルコによる福音書1章節には「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と悪霊が叫んだという記事があります。
この世の中には、説明のつかない不思議な現象があります。オカルトちっくなことなどもあります。もちろんそれらの内のほとんどのことはからくりがあって、科学的に説明がつくものです。私が子供のころ流行ったこっくりさんというものがありました。若い人はご存じないかもしれませんが。これは複数の人が硬貨を力を抜いて押さえているのだけど勝手に硬貨が動き出して占いができるといわれました。私も何回かしたことがあるのですが、よくわかりませんでした。ただこっくりさんにはなんらかの自己催眠的なものがあるのか、精神的に異常な状態になる子供も出てきて、社会的に問題視されました。実際のところ、こっくりさんがなんだったのかは分かりません。オカルト的なものを求めるとき、精神が病んでしまうのか、あるいは、こっくりさんには低級な悪しき霊が関わっていたのかはわかりませんが、たしかにこの世界には不思議な説明のつかない現象というのはあり、そこには悪しき霊としかいいようのないものが関わっている場合もあります。注意しないといけないことは、奇跡のようなすごい力のようにみえる現象を見てそれをすぐ神の奇跡だとかしるしだと考えてはいけないということです。その力の源が悪しきものから来ているということもあるからです。神から来たものか、そうでないのか、を見分けることは簡単なことではありません。
旧約聖書の出エジプト記を読みますと、エジプト王ファラオにイスラエルの民の解放を要請したモーセは主なる神の力によって不思議な業をなしました。しかしそれらの業のいくつかのものはエジプトの魔術師も同じことができました。たとえば、木の杖が蛇に変わるとかエジプト中に蛙を発生させるといったことは、主なる神だけでなく、魔術師もできたのです。ですから先ほども申し上げましたように、不思議なことが起こったからと言ってそれを神による奇跡であると早合点しないことです。こういうことは、巧みに新興宗教などで取り入れられて、むしろ悪しき力の方に人々を誘う恐れがあります。力の源が何かを知るには、私たちが常日頃、聖霊によって導かれる体験を積み重ねていなければなりません。同時に私たちは基本的に怪しげな力や占いといったものから、できる限り遠ざかる必要があります。悪しき力によって引き起こされたことは一時的に人間に利益をもたらしたとしても、やがて破滅に導きます。それに対して、神から来たものは人間に祝福と恵みを与え、同時に、人間の側の謙遜や神への畏れを引き出すのです。
さて、女奴隷を支配していた占いの霊は悪しき霊でした。そして人間の欲望に利用されていました。しかしまたその悪しき霊はパウロたちが主イエスの僕であることを見抜いて叫びました。パウロたちが福音をしっかり宣え伝えようとしても、むしろ邪魔になる状態でした。それが幾日も続いたので、とうとうパウロはその女奴隷から占いの霊を追い出してしまいました。
するとこの女奴隷の主人たちはお金を儲けることができなくなり、怒ってパウロたちを捕らえてしまいました。完全な逆恨みですが、結局、パウロたちは捕らえられてしまいます。パウロとシラスは鞭で打たれ、牢に入れられてしまいました。
<真夜中の賛美>
使徒たちが捕らえられて助けられるという記事はこれまでもありましたが、今日の聖書箇所で印象的なことは、パウロたちが真夜中に賛美を歌ったということです。鞭うたれた傷も痛み、体も弱っていたはずです。心身の負担は尋常の状態ではありませんでした。しかし、彼らは神を賛美しました。賛美したら、神さまが自分たちを牢から解放してくださるとか、賛美はクリスチャンの務めだからということではありません。あるいは不安な気持ちをやり過ごすために賛美をしていたわけではありません。彼らの口からは自然に賛美が流れ出たのです。賛美せざるを得なかったのです。
理由はいくつかあるでしょう。以前読んだ使徒言行録5章で牢に入れられた使徒たちは、やはり捕らえられひどい目にあったとき、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだとあります。罪なき主イエスが苦しめられ十字架につけられたことを使徒たちは思い起こしたのです。そこにこそ、主イエスの人間への愛がありました。主イエスの苦難を思うことは主イエスの愛の深さを思うことでもあります。自分自身が苦しみの中にあるとき、なおいっそう主イエスの苦しみが切実に分かり、なお主イエスに感謝の思いが湧いて来るのです。
また、ほんとうに苦しみの中にあるとき、神の支えを深く感じるということもあります。一人で孤独に困難の中にいるとき、あるいは先の見通せない不安の中にあるとき、そういうときこそ、神が傍らにいてくださるという思いを強くすることがあります。ヘンリー・ナウエンという方はオランダ出身のカトリックの司祭であり神学者でした。彼は自分がたいへんな弱さも抱えた人間であることをよく知っていました。実際、彼はメンタル面での不安定さを抱えた人でした。司祭でありながら不安にかられたり、孤独の中に打ち沈む人であったようです。しかし、弱さを抱えた人であったゆえ、彼の言葉は多くの人を励ましました。カトリックの司祭でありながらプロテスタント系の神学大学で教えたり教派を越えて親しまれました。講演なども人気があったのです。彼自身が、自分の最も弱いところ痛むところにこそ、キリストが来てくださるということを体験していたからです。私自身、ヘンリナウエンの本を読んで力づけられたことが幾度もあります。キリストは苦しみの時、共にいてくださる、私たちはそのように聞き、また語ります。クリスマスのメッセージはまさに神が共にいてくださる、インマヌエルの神ということでした。しかし、ヘンリナウエンはさらに言うのです。ほかの誰でもない自分自身の痛み、苦しみと向き合うことのないところにキリストは希薄なのだと。私たちは神の前に立派な者、強い者として立つのではなく、情けない者弱い者として立ちます。情けなさ、弱さを知っている自分であるからこそ、キリストが共にいてくださるのです。夜じゅう、野宿をして羊の番をする羊飼いが自分のみじめさを知っているゆえに飼い葉桶の中の主イエスを見たように、あるいは、年老いた祭司シメオンが自分の命が細り行くことをかみしめる歳月の果てにみどりごイエスをその腕に抱いたように、私たちも私たちのいたみや弱さのただなかでこそ主イエスと出会います。パウロたちもまたそうでした。鞭うたれた傷が痛み、心身が衰弱していた夜に、やはりキリストが共にいてくださったのです。だから賛美がほとばしり出たのです。牢にいる人々はパウロたちの祈りや賛美に耳を傾けていました。通常なら、寝静まるべき夜にうるさいと怒鳴られるところです。しかし、信仰のない人々にとっても平安さを導く賛美であり祈りであったのでしょう。賛美と祈りが響き、囚われ人たちに美しく平安に夜は更けていきました。
<本当の自由>
ところが、突然、大きな地震が起きました、そして牢の扉が皆開きました。使徒言行録の別の箇所でペトロが牢から天使によって連れ出された時と違って、ここではパウロは牢から出ることはしませんでした。牢の看守は、牢の扉が開いていることに気がつき、囚人たちが逃げたと思いました。そしてその責任を問われると思った看守は自殺しようとしました。それをパウロはとめました。不思議なことです。パウロたちはともかく、他の囚人たちの牢の扉も空いたのに、それに乗じて逃走する囚人はいなかったのです。普通に考えたら、牢の中で暴動のようなことが起きても不思議のない状況です。パウロたちの賛美と祈りが、囚人たちの心を穏やかにし、逃走するというような思いを抱かせなかったのでしょう。そして何より素晴らしいのは、この看守と看守の家族が主の言葉を聞き、神を信じる者とされたことです。大地震は、パウロたちを助けるためというより、むしろこの看守と看守の家族を神の救いにあずからせるために神が起こされたことでした。さらにさかのぼれば、理不尽で不幸と思えるパウロたちの逮捕も、神の豊かな救いのご計画のゆえだったといえます。看守たちは、「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」とあります。看守たちは騒動を起こしたユダヤ人を牢に入れて監視していたはずが、自らが福音を聞くこととなりました。看守たちにとってもパウロにとっても思いがけないことでありました。
さて、その驚くような一晩の後、パウロたちは、一晩の留置で放免ということになりました。高官たちにしたら、騒動を起こしたユダヤ人をちょっと懲らしめて、そのあとは関わるつもりのなかったのでしょう。下役に伝えさせておしまいのつもりだったのが、パウロたちがローマ市民権を持っていると知って驚き恐れます。
これは単に高官たちをパウロたちがぎゃふんと言わせたという話ではありません。私たちはこの世の常識の中で、また自分の思い込みの中で生きています。ローマに支配された愚かなユダヤ人と見えていたパウロたちが実はローマ市民であったように、かわいそうな不自由な人と思われていた人が実はほんとうの自由と権利を持っているということがあります。パウロたちが捕らえられていた牢の中でもそうです。牢の一室で鍵をかけられ、足枷までつけられていたパウロたちこそが実は一番自由だったのです。現実的物理的には制限された状態で、むしろこの世の中にいる誰よりも自由だったのです。そしてまた、牢の扉が開いたとき、もともと悪いことはしていなかったパウロたちには逃げる自由もありました。しかし、パウロたちはその自由を行使せず、むしろ看守を助けました。一方、看守は本来は牢の中で自由な存在でした。囚人たちに対して権力を持っていました。しかし、大地震が起きて見ると、彼自身、もっと大きな権威に縛られた不自由な者であることが露呈しました。ことが起こったら、責任を取らされ、あっさり殺されてしまう立場でした。看守は自分の自殺をとどめてくれたパウロこそが本当の自由を持っていることを知ったのです。だから「先生方、救われるためにはどうするべきでしょうか」とパウロたちに聞いたのです。自分が自由な権力側にいるのではなく、ただ弱く不自由な人間であることを看守も知ったのです。囚人に過ぎなかったパウロたちこそが救われ、本当の自由を持っていた、だから「先生方」と呼びかけたのです。
私たちもまたキリストによって救われ、まことの自由を得ています。もちろん日々にはさまざまな制約があります。しかしもっとも大事な罪からの自由を得ています。その自由はクリスマスに到来され、十字架にはりつけにされ自由を奪われたキリストのよってもたらされたものです。キリストは十字架から逃れる自由もお持ちでした。しかし、私たちへの愛ゆえその自由を行使することなく死を選ばれました。十字架の死はキリストの神としての自由な選択でした。それゆえ私たちはいま、自由とされています。神の前でのびのびと神の子として歩む自由を得ています。コロナの禍のために、私たちの日々は制約を受けています。普段であっても一人一人、仕事であったり、病であったり、家族のためであったり、さまざまなことのゆえに制約を受けて歩みます。しかしなお、私たちは神の前で最も大事な自由を得ています。その自由の内に喜びながら歩みます。
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