大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 8章18~30節

2017-09-04 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年9月3日 主日礼拝 「希望と栄光」 説教 吉浦玲子

<被造物の呻き>
 今日の聖書箇所の前半では、被造物という言葉が出て来ます。この箇所の被造物を人間と捉える解釈もあるのですが、ここでは聖書でいう一般的な被造物、つまり神に造られたもの全体ということで考えてよいでしょう。もちろん人間も神に造られた被造物のなかに数えられます。しかし、人間以外の動物や自然、さらには宇宙のすべても被造物です。今日の聖書箇所の前のところで、パウロはキリストと結ばれた者は神の子とされる、神の相続人とされるという、たいへん恵み深い言葉を語っていました。そのやがてくる人間の輝かしい将来と合わせて被造物全体が語られているのはとてもスケールが大きなことだと感じます。


 ところで、私たちは被造物の中で、特に美しい景色、ことに絶景と言われるような景色や夜空の星などを見る時、ああ神様はすばらしいものをお造りになったなあと感じることがあります。ハッブル宇宙望遠鏡という地上600キロのところに浮かんで、地球の周回軌道にある人工衛星のような宇宙望遠鏡は地上にある望遠鏡と違って、大気の影響を受けず、高性能で宇宙空間を観測することができるそうですが、その宇宙望遠鏡からの画像を見ると息をのむほど美しいものがあります。ねじれた不思議な形をした銀河であるとか、ガスが噴き出しているようにみえる星の集まりとか、星としての命を終えた恒星が爆発する瞬間であるとか、そういう色鮮やかな劇的な画像を見ることができます。そういう画像を見ると、想像を越える宇宙の神秘を感じます。そういった美しいもの、神秘的なものをみると、逆にこんなに素晴らしいものは神様にしか造れない、だから神様はおられるんだと神の存在を確信することもあります。


 しかし、一方で、自然災害が起こり、罪のない人の命が奪われたりしますと、自然というのは怖いものだと思います。ことに日本や世界で多くの人が亡くなるような大災害が起こりますと、今度は逆に、こんなひどいことが起こるなんて、神様なんておられないに違いない、と思ったりもします。なぜ自然災害が起こり悲惨な被害が出るのでしょうか?自然災害の中には、人間の身勝手な自然破壊によると考えられるものもあります。その場合ですと、それは人間の罪ゆえの災害ということになります。人災です。しかし、すべての自然災害がかならずしも人間に原因があるとはいえません。そうなるとやはりそのような自然、被造物を造られた神様は無慈悲な方といえるのでしょうか?あるいは神様など最初からおられなかったのでしょうか?もちろん神はおられなかったわけでも、無慈悲な方でもありません。愛なる方です。では、愛なる方が造られた自然、被造物によって、なぜむごいことが起こるのか?それは人間には理解できないこと、としか言えません。人間にとって不条理なことも含めて、神の摂理なのだと私たちは受け取るしかありません。ヨブ記などに記されている神の摂理を受け入れていくのが私たちのあり方です。

 ただ、今日の聖書箇所の20節にパウロはこう言います。「被造物は虚無に服している」、と。また21節にも「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」とあります。つまり、いま現在、被造物もまた、虚無や滅びといった苦しみの中にあるとパウロは言っています。これは不思議なことです。ことに日本のように、自然のすべてのものに神が宿るというアニミズム的なものを精神性の土台にもっているところでは理解しがたいことです。しかし、美しい自然も、心を吸い込まれるような夜空の星々も、虚無に服し、滅びに隷属しているとパウロは言うのです。
 つまり世界は壊れているのです。はじめに神は天地創造において素晴らしい祝福された世界を造られました。<見よ、それは極めて良かった>と神がご覧になった被造物の世界がいまは壊れているのです。アダムとエバ以来、世界に罪が入って来たゆえに、世界は壊れ、壊れた世界では、被造物全体も、天地創造の最初の時は異なる状態であるというのです。きわめて良かったといわれる状態ではなく、虚無に服している、良い状態ではないということです。キリストを知らない時の人間のように、被造物もまた、滅びへの苦しみの中で、今この世界に呻いているのだとパウロは語ります。この壊れた世界で被造物の呻きの中で、さまざまな悲惨が起こるのです。それはキリストが再び来られ、キリスト者が神の子とされ、その栄光を受ける時まで続くのだとパウロは語っています。
 つまり、先週お読みした箇所にあった人間がキリストゆえに神の子とされる、神の相続人とされる、そのことはただ人間だけの希望ではないと今日の聖書箇所でパウロは語ります。
 キリストの到来と十字架の御業で救いは成就されました。しかし、完成ではなく、完成は終わりの日です。私たちはその終わりの日を待っています。そのとき、すべてが新しくされ世界が完全に変えられます。「見よ、それは極めて良かった」と言われた創造の最初のときのような世界となります。それは世界の再創造と言っていいでしょう。そのときを被造物も待っている、そう語られます。これはなかなかピンとこないとこです。

<すべては新しくされる>
 しかしこれは、これまでいくたびか申し上げてきたこと、つまり私たちの信仰はただ心の問題ということではないということと関係します。終わりの日に、魂だけがとこしえの平安の世界に生きるというのではなく、私たちは肉体をもってその新しくされた世界に生き、またその世界も物質的なモノがある世界なのです。古典的な哲学的な考えでは、魂や精神を崇高なものと考え肉体や物質を下等なものとするものがあります。しかし、聖書は肉体も物質も新しくされる世界が来ることを語っています。それはいまは目に見えている現実ではありません。現時点では、見えないものです。その見えないものを待ち望むことこそが希望なのだとパウロは語ります。見えているもの、これは単に視覚的に見えるということだけでなく、人間が現実的に認識しやすいことを含みます。つまりお金や財産、さらには地位や名誉などです。現実的な日々の中での人生の目標みたいなものも含まれるでしょう。生きがいをもって生活をしたいとか人の役に立ちたいとかいったこともあるでしょう。それらを願うこと自体はもちろん悪いことではありません。でもそれらは人間を究極的に生かす希望とはなり得ません。世界一の億万長者になっても肉体は死にますし、たくさんの人を助ける生活に生きがいを感じていてもそれは永遠に続くものではありません。マザーテレサはインドで多くの人々を助けながら、信仰的な深い迷いを感じた時、自分の活動自体にも懐疑的になることがあったそうです。神へつながる本当の未来への希望がなければ、私たちの日々は虚しいのです。そんな私たちは被造物と共にいまはまだ苦しみのなかに呻きつつ、すべてが完成される日を待ちます。しかし、忍耐して待つ、おおいなる未来があるからです。


<希望の先に>
 しかし、その希望を信じて生きていくということは、見えないものにかけていくあり方ですから、けっして楽なものではありません。私たちは折々に弱気になります。信仰者が一生の間、ただの一度も疑うことなく、弱気になることなく、神に確信をもって生きるというのは通常あり得ません。パウロですら、ある時は弱気になり、恐れに取りつかれています。聖書に出てくる偉大な人々も皆そうです。預言者エリヤはバアルの預言者たちとの戦いで劇的な大勝利をおさめたあと、激怒した王妃イゼベルに殺されそうになり、恐れて逃げ去ります。戦いの後の燃え尽きたような精神状態もあったのでしょう。恐れと衰弱の中、神に「もう自分の命を取ってください」と願います。そんなエリヤに神は使いをつかわし、食べ物を与え、癒されます。預言者エリヤに神の御使いが遣わされたように、私たちには今、神の霊が与えられています。「同様に“霊”も弱いわたしたちをたすけてくださいます。」そうパウロは語ります。


 ヨハネによる福音書で十字架におかかりになる前、主イエスは弟子たちに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 ヨハネ14:18」と語られます。主イエスにはわかっていたのです。地上から主イエスがおられなくなったときの弟子たちの、そしてまた、わたしたちの孤独と悲しみを。キリストに従って歩む時、この世には苦しみがあります。終わりの日の希望を持ちながら信じながら、なお、わたしたちがみなしごのような心になることを。そのために私たちには“霊”、聖霊が与えられました。聖霊は弁護者とも言われます。また慰め主とも言われます。わたしたちがどうしようもない時、もう祈ることすらできないようなとき、聖霊は、父なる神に向かって、うめきをもってわたしたちのことをとりなしてくださいます。祈れない私たちの代わりにわたしたちの言葉にならない思いを父に伝えてくださるのです。わたしたちはみなしごのように孤独で、行くあてもなく途方に暮れていても、聖霊のとりなしのゆえに慰められるのです。絶望しないのです。ふたたび希望を信じて立ち上がることができるのです。

<万事が益となるように共に働く>
 そのような聖霊に支えられながら歩んでいく信仰の歩みの先に何があるでしょうか。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」そうパウロは語ります。
 万事が益となるように共に働く、という言葉はたいへん有名な言葉です。キリスト者同士でなぐさめるとき、この言葉を良く使います。「いまはたいへんでも、神様は万事を益となしてくださる」と言ったりします。これは途中には苦労はあっても、最後にはうまくいくということではありません。


 織物のようなものを考えていただいたらいいかもしれません。縦糸と横糸で模様を織り込んでいきます。織物をしている人にはどのような模様ができるのかはわかっています。でもその織物の中に織り込まれているのはわたしたちの日々なのです。わたしたちの日々には明るい日もあれば暗い日もあります。なぜここでこんな真っ黒の糸が織り込まれているのか、そのときにはわたしたちには分りません。こんなどぶのような色ではなく、もっと明るいブルーの糸があったらいい、鮮やかな赤い糸であったらいい、そう思うかもしれません。しかしあるとき、気づくのです。神がおられている織物の美しさに。嫌だなと思った黒い糸も、灰色の糸も、神の織物の美しい模様に必要なものだったことに気づくのです。私たちのすべての人生の糸がすべてが美しく共に働いていたことに気づかされます。


 「万事が益となるように共に働く」というのは単純に最後は丸く収まるとか、苦労が報われるということではありません。もっともっと壮大な物語の中に私たちが置かれているのです。そしてある時、そのことが私たちにもわかるのだとパウロは語っています。「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」わたしたちは知らされるのです。わたしたちの日々の苦労や悲しみが一ミリたりとも無駄ではなかったことを。それもすべて神のご計画の中で、美しく織り込まれ壮大な出来事の完成のためにあったことを知らされます。わたしたちは万事が益となるように共に働くことを知らされながら、御子の姿に似た者とされていきます。キリストに似た者とされていくのです。わたしたちがキリストに似た者になろうとするのではなく、呻きながら痛みながら歩んでいくとき、聖霊によってとりなしていただきながら生きていくとき、神ご自身がわたしたちを変えてくださるのです。聖霊ご自身の祈りの中で変えられていきます。そのことを信じながらこの一週間も生きていきます。


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