大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書第3章7~20節

2021-11-28 15:14:17 | ルカによる福音書

2021年11月28日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたを切り倒す斧」吉浦玲子 

<クリスマスの驚き> 

 アドベントが始まりました。アドベントではなく、一足早くクリスマスの思い出ですが、まだ小学校に上がる前のことです。ある朝、目が覚めると枕元に、折り紙が置いてありました。普通に文房具屋で売ってある何の変哲もない折り紙です。なぜ折り紙が置いてあるのか分かりませんでした。折り紙を手に取って怪訝そうにしている私に母が言いました。「今日はクリスマスだから」と。ひょっとしたら、それ以前にも、クリスマスプレゼントというものは貰っていたのかもしれませんが、記憶にあるクリスマスプレゼントはそれが初めてでした。私にとって初めてのクリスマスの体験でした。へえ、クリスマスというのは、折り紙がもらえるのだ、子供心にそう感じました。我が家はクリスチャンホームではありませんでした。そしてまたそれ以前にたいへん貧しかったのです。その一年ほど前に父が病気で急死して、母と子供二人が残され、まさに路頭に迷っていた時期でした。昼間はガラス屋として営業している店舗の奥の一間を借りて母子で住んでいました。四畳半ほどの畳の間と台所として使える小さな土間が母子の住居で、母は仕事を探している時期で、経済的な余裕はなかったのです。いつもきりきりとして、怖かった母が、何を思ったのか、その朝は、プレゼントをくれたのです。ですから、とても印象に残っています。信仰的なクリスマスとはほど遠い思い出なのですが、あれもまた、自分にとっては、クリスマスがやってきた出来事でした。クリスマスの意味は全く分かっていなかったのですが、驚きをもってクリスマスというものはやってきました。目を覚ましたら、不意打ちのように、枕もとに何かが置かれている。クリスマスというのは驚きなんだ、そう感じたのです。それから30年以上のちにクリスチャンになりましたが、その後も、毎年思うのです。クリスマスというのは驚きなのだと。ふいに神から届けられるものなのだと。 

 実際、聖書においても、クリスマスは驚きの到来でした。貧しい家庭の枕元のプレゼントというとなんだか甘いような、うるわしいような話になりますが、聖書に記されたクリスマスの到来はほのぼのとするお話でもなければ、一般的に言うような美しいお話でもありません。今日の聖書箇所は、クリスマスのまえ、キリスト到来を告げる者として洗礼者ヨハネが登場します。この洗礼者ヨハネの物語は、少しもハートウォーミングでないどころが、ちょっとむさくるしく、厳しい話になります。しかしここは、このアドベントの期間に読まれることの多い聖書箇所です。 

<悔い改め> 

 洗礼者ヨハネは、マタイによる福音書によれば、らくだの毛衣を来て、革の帯をして、いなごとはちみつを食べていたと描かれています。なんとも野性味あふれるイメージです。そして、これは旧約時代の預言者の風貌でもありました。彼は、旧約時代ののち、数百年途絶えていたと言われる神の言葉、預言を語る預言者として、イスラエルに登場したのです。そして実際のところ、彼は最後の預言者とも言われます。旧約時代のイザヤが、エレミヤが、エゼキエルが、預言した神の救いのできごと、この世界の回復を告げる最後の預言者としてヨハネは登場しました。そしてそれは、彼によって旧約の時代は完全に閉じられ、新しい時代の幕開けが高らかに宣言されたことを示します。そして彼が伝えたことはただ一つでした。 

 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」 

です。枕元に折り紙が置かれるよりこれは当時のイスラエルの人々にとって驚きでした。悔い改めとは、神の方を向け、ということです。当時、イスラエルの人々は、自分たちこそが神を向き、何より神を重んじ、神に従って歩んできたと思っていたからです。自分たちは、当然、神の救いに与る権利があり、神の国は自分たちのものだと思っていたからです。イスラエル以外の人々、異邦人とは自分たちは違うそういう自負がありました。イスラエルの信仰の父と言われるアブラハムの子孫である自分たちは当然神の救いにあずかれる、天の国に入れると思っていたのです。 

 翻って、今ここにいる私たちは昨年のアドベントから一年を過ごしてきました。ここにおられる方はほとんどがクリスチャンでありクリスチャンとして神と共に一年を歩んでこられたと思います。しかし、教会の暦として一年の始まりの言葉として、私たちは聞くのです。「悔い改めよ」という言葉を。繰り返し繰り返し、毎年聞くのです。らくだの毛衣を着て革の帯をした古い時代の風貌をした預言者の声を聞くのです。あなたは救われないといけない、あなたは神の国に入らねばいけない、さあだから悔い改めよという声を聞くのです。自分はすでに洗礼を受け救われている、天の国への切符をいただいている、たしかにそうです。その切符がただの紙くずになることはないでしょう。しかしまた一方、私たちはすでに切符を持っているのだから、当然の権利として天の国に入れると大きな顔をして神に申し上げることはできないはずです。この一年を振り返ってみてください。ヨハネの「『我々の父はアブラハムだ』などと言うな」という言葉は、そのまま「『我々はクリスチャンだ』などと言うな」という言葉として、私たちに返って来る言葉です。それよりまえの箇所でヨハネは過激な言葉を吐いています。「蝮の子らよ」これは1世紀の人々が神を重んじると言いながら、実際は偽善的だったからそういわれていたのであって、私たちとは関係のない言葉でしょうか?毎週、礼拝に来て、祈って、奉仕をして、そのうえなぜ「蝮の子らよ」などと言われねばならないのでしょうか。それは、1世紀のイスラエルの人々も同様だったでしょう。厳しい律法を守り、精一杯生きていたのです。蝮の子だなどと言われる筋合いはないと感じるのが普通だと思います。実際のところ、これは何を言っているのでしょうか?もっと祈れとか、もっと奉仕せよと言っているのでしょうか。聖書通読、聖書日課をサボるなと言っているのでしょうか?そうではありません。ヨハネの言葉は「悔い改めにふさわしい実を結べ」なのです。悔い改めの実を結ばない、その状態が蝮の子なのです。 

 今年、中庭の大きな植木鉢に植えられていたドイツヒイラギを庭の土に地植えしました。植木鉢の中で育ちすぎて、根詰まりを起こしていたからです。ぱんぱんに根がつまり、さらに植木鉢の下の穴から根が出て地面に根付いていました。そのドイツヒイラギを地植えにするためには植木鉢を割って、外に出すしか方法はありませんでした。地植えにしたドイツヒイラギが土と馴染んで、枯れずに生き続けるかどうか心配でした。そのまま鉢に入れていても弱っていくだろうし、一方で、新しい環境で生きることができるか心配でした。しかし幸い、無事に土に根付き、このアドベントの季節、赤い実をつけてくれました。その赤い実は今朝のアドベントキャンドルを飾ってくれています。言うまでもなく、植物が実をつけるということは、土から養分をもらって、生きているということです。「実を結べ」ということは「生きよ」ということです。肉体が自己完結して生きていけないように、信仰の命も神から養分をいただかなければ死ぬのです。神につながって「生きよ」ということです。クリスチャンとはかくあるべし、祈りとはこうあるべきだ、そういう自分で作った勝手な枠を作って、植木鉢の中で根詰まりしていたドイツヒイラギのようになっていないか点検をしないといけないいのです。信仰の命がガチガチに自分で作った枠の中で固まっているのなら、その枠を壊さねばなりません。植木鉢を割ったように、私たちの勝手な心の枠を壊すのです。十年一日のような自分のやり方が熱心な信仰だと思い込んでいる傲慢さ、伝統だ厳粛さだといって愛をはじき出している冷たさを叩き割りなさいとヨハネは語っているのです。ただただ、心素直に神につながり、神から命を得なさいと言っているのです。そこに命があるのです。 

 命には新陳代謝があるのです。人間の肉体の細胞が入れ替わるように、私たち一人一人の信仰も新陳代謝するのです。私たちは罪赦され新しい信仰の命をいただいた日から、まだ残っている古い肉の体を少しずつ捨てていくのです。体の細胞は60兆とも37兆とも言われます。その細胞の多くは入れ替わっていくのです。もちろん細胞の中には人間が生まれた時から死ぬまで体内にとどまる細胞もあります。しかし、多くの細胞は、入れ替わりの期間の長さは細胞によって大小ありますが入れ替わるのです。信仰の命もそうです。御言葉は変わりません。いただいた聖なる霊は変わりません。しかし私たちの肉の心は変わっていくのです。変わらねば、健やかな命はないのです。健やかな命には健やかな行いが現れます。ヨハネは貧しい人に施せと言ったり、徴税人に金をごまかすなと言っています。これは施しや公正なあり方が救いをもたらすのではなく、健やかな信仰の命は、おのずと健やかな行いに現れるのです。そしてまた行いの健やかさによって、信仰自体の健やかさが保たれるのです。泥棒をしながら健やかな信仰の命は保てないのです。 

<聖霊の風> 

 ヨハネはさらに恐ろしいことを語ります。やがて来るべきお方、これこそキリストですが、このお方は、手に箕をもって脱穀場をきれいになさるというのです。麦と殻を分け、殻は消えることのない火で焼き払われる、というのです。この消えることのない火という言葉に私たちは恐れを覚えます。悪いことをしていると地獄の火で焼かれる、というようなイメージを持ちます。しかし、ここで語られているのは、麦の殻が取り去られ、その殻が焼かれるということです。ある人が麦で、ある人が殻で、殻の人が焼かれるということではないのです。私たちの中の殻が焼かれるということです。そしてまた箕というものを私は良く知らなかったのですが、これは塵取りのようなざるのようなもので穀物を放り投げて風によって殻や小さな混じり物を吹き飛ばして、ふたたび箕で受ける、あるいは不純物が取り除かれたものを地面に落とすというものなのですね。つまり風によって、不要なものを取り去るのです。キリストは確かに裁き主としてこの世に来られます。箕に穀物をのせて風で殻を取り除かれます。この風は聖霊の風なのです。つまり私たちの内に聖霊の風が吹かねばなりません。聖霊の風はただ一度吹くのではないのです。何度も何度も箕に穀物が乗せられて風で殻が取り除かれるように、何度も聖霊の風に私たちは吹かれるのです。聖霊の風が吹かないように心を閉ざし、魂の扉を閉ざしていてはいけないのです。 

 たえず風が吹くように、願い求めるのです。聖霊よ来てください、と。聖霊というとペンテコステのようだと思われるかもしれません。しかし、聖霊の風の吹かなければ私たちは新しくされないのです。固い殻に覆われ、命から離れていくのです。古い死んだ細胞が皮膚の表面で皮膚をくすませているように私たちの信仰もどんよりとしていくのです。喜びから離れていくのです。教会の周りのブロック塀が撤去され、風通しの良いフェンスに代わりました。そのフェンスにアドベントの電飾が輝いています。私たちの魂にも聖霊の風がたえず吹き渡るようにと願います。そこに信仰の命が息づき、豊かに輝くのです。私たちは聖霊の風に促されて悔い改めます。そして新しい命の輝きに生きていきます。 

  

 



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