大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録第20章1~12節

2021-02-21 15:33:47 | 使徒言行録

2021年2月21日大阪東教会主日礼拝説教「礼拝中に居眠りをした青年の末路」吉浦玲子

【聖書】

この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。

この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。

【説教】

<主にある交わり>

 パウロは三回目の宣教旅行の途上でした。彼は第二回目の宣教旅行に続き、ふたたびマケドニア州、ヨーロッパへと向かいました。エフェソでたいへんな騒動があった後のことでした。これは、かつて2回目の宣教旅行の時に開拓し、建て上げた教会をまわり、指導をしたのです。若い教会を育てあげる働きでした。それぞれの教会で、これまで弟子になった人々との再会もあり、また、新たな信仰者が与えられるという喜びもあったでしょう。これまで使徒言行録で読んできましたように、パウロは、かつてキリスト者になる前、ファリサイ派として、キリスト者を迫害していました。かつて迫害者としてパウロがダマスコに向かっていた当時も、たしかに彼には仲間はいたでしょう。パウロはユダヤの権力者とも懇意だったと考えられます。パウロと当時の仲間たちは、自ら熱心に律法を守り、律法を守らない輩は、神を冒涜する者として徹底的に叩きのめしていました。当時、パウロはユダヤ人のなかで多数派で、思いが一致していた人々がたくさんいたのです。

 しかし、そこには本当の愛ある交わりはなかったのです。本当の交わりは聖霊によって与えられるものですから、かつてのパウロには本当の隣人との交わりはなかったのです。そこにあったのは、かつて主イエスが嘆かれた頑なな律法主義、冷酷な心でした。目の前に苦しむ人を見ても今日は安息日だからと助けようとしない、そのような愛に乏しい心でした。みかけの宗教的厳粛さはあったかもしれませんが、心は堅く冷たかったのです。本来、律法は、神を愛し隣人を愛せと語っていたのに、かつてのパウロを始め律法学者たちには本当の意味で、神へ向かう心はなかったのです。一見まじめで立派そうな宗教者が、苦しむ人々への慰めも与えることができなかったのです。パウロもかつてそうでした。

 このようなことは今日の教会においても起こることです。ことに長老教会には起こりやすいのです。厳粛ではあっても、生き生きとした信仰がなく、本当に主にある愛の交わりがないのです。そして逆にむしろ世俗的な交わりが蔓延していくのです。そこに主にある交わりがあったとしても、聖霊に導かれていないがゆえに、主にある交わりと、世俗的な人間的な交わりの区別もつかない霊的な貧しさがあります。

 さて、そのように頑なであったパウロは実際のところ、孤独だったのです。その彼がキリストと出会って福音を知った時、かつての仲間は敵となりました。今度はパウロ自身がかつての仲間から命を狙われるようになりました。そもそも、もとから本当の仲間ではなかったからです。福音を信じないユダヤ人たちからのパウロへの攻撃はずっと続きました。しかし、一方で、その苦難の中、パウロにはまことの信仰の友を与えられました。それは共に宣教をする仲間たちでもあったし、各地の教会でパウロたちの教えを聞いてイエス・キリストを信じた人々でありました。かつてダマスコで、パウロは劇的にキリストと出会い、目も見えなくなって三日間、孤独に過ごしていましたが、いまや、行く先々で多くの人々との本当の交わりを持つことのできる存在となりました。そして危険を冒してもパウロを守ろうとする人々もありました。もちろんパウロはたいへん影響力のある大伝道者でした。だから多くの人々がパウロを中心にして集まりました。神が集められたのです。そして、人々は彼を支えました。

 では、パウロのように影響力のある人物、特別に人を引き付ける人間だけが、豊かな交わりをもてるのでしょうか。そうではありません。神は一人一人に必要な交わりは必ず与えられます。自分自身、洗礼を受けた時、同世代の女性が教会の中にほぼいなくて、信仰者の友がいない状態が何年か続き、正直、少し寂しかったのです。しかし、やがて、わたしの信仰生活に大きな影響を与えてくださることになる友との出会いを神は備えてくださいました。もっともその友はもう天に召され、期間的には長いお付き合いではなかったのですが、生涯、忘れえぬ主にある交わりをいただきました。神はかならず必要なときに必要な交わりを与えてくださいます。

 さて、パウロは神に与えられた多くの人々との交わりの中、旅を続けていきます。相変わらず、ユダヤ人による危険と隣り合わせの日々でした。実際、3節にはユダヤ人による陰謀があったことが記されています。そのなかでも、パウロは多くの人々に支えられていました。4節に同行した人々の名前が記されていますが、みずからにも危険があるかもしれないのに、多くの人々がパウロを守ろうとしたのです。

<神が与えられた時間>

 さて、パウロはヨーロッパからまたシリア州へと戻ってきました。そこでも多くの人々が、パウロが語る福音を、涸れた大地に注がれる水のように欲しました。7節以降には、トロアスでの集会の様子が書かれています。「週の初めの日」と書かれていますから、これは日曜日です。当時は、まだ日曜日は休みの日ではありませんでした。ですから、集会を行うのは、それぞれの仕事が終わってからです。人々は、一日の疲れを覚えながら、礼拝に集いました。

 そんな人々を迎えるパウロにも熱がこもっていました。ここに書かれているパン裂きとは聖餐のことです。共に食卓を囲み、礼拝を捧げました。そして皆、パウロの説教を聞いたのです。ここで、パウロが夜中まで話をしたとありますが、それは礼拝としての説教が延々と長かったのか、礼拝を終わったあと、なおパウロが聖書研究なり、別の集会として語っていたのかは、よくわかりません。

 パウロは、翌日にはトロアスを旅立つ予定でした。限られた時間、残された時を惜しむように、できる限りのことを伝えようとしたのです。それは、懇親会や送別会ではなく、パウロが遺言のような熱を持って渾身の力を込めて福音を語った夜だったのです。皆さんも経験がおありではないかと思います。人生の時間は、けっして、均一に流れていくものではありません。時として、ひどく凝縮された濃密な時間が与えられるときがあります。パウロにとって、そしてその話を聞く人々にとって、このひと晩はそうであったかもしれません。それまでも福音を何回も聞いて来たでしょう。豊かな主にある交わりがあったでしょう。しかし、この時は特別であったのではないかと思います。パウロは、これからエルサレムに向かうつもりでした。パウロにとってエルサレムは特に危険な場所でした。具体的には、エルサレムの教会に各地の教会から集めた献金を持っていくためでもありました。パウロは異邦人伝道に特別に召しを受け、仕えた伝道者でしたが、キリストを信じる信仰の源はエルサレムにあると考えていました。すべての教会は、霊的な恵みをエルサレムの教会から受けているのだから、逆に、それぞれの教会は経済的な恵みをエルサレムの教会へ捧げるべきだとパウロは考えていたのです。

 しかしまた、先週もお話ししたように、パウロにとってエルサレムへ行くこと、そしてまたローマへ向かうということはキリストの御跡を追うことでした。かつて主イエスが十字架におかかりになるために、敢えて、主イエスの命を狙う者が多いエルサレムに向かわれたように、パウロ自身もまたエルサレムを目指していたのです。

 そのことは、トロアスの人々もよくよくわかっていました。ことによると、パウロとの交わりはこれが最後かもしれないと思っていたでしょう。パウロは単に神学や教理、聖書の解釈を説いたのではありません。そこに自分自身の信仰者としての真実な歩みを重ねて、人びとに示したのです。ですから彼の言葉は人々に響いたのです。パウロ自身がまさに御言葉を行う人として生きていた、キリストに倣う者として生きていた、その真実の姿が人々に分かったのです。

 とはいっても、やがてくるかもしれない別れは悲しいものです。もし地上で共に過ごすことが本当に最後であったとしたら、天において再び会えるといっても、やはりつらいものです。このトロアスの集会に集っている人々は、パウロから生き生きと語られる福音に満たされ豊かな思いを与えられる反面、おそらくどこか緊迫した思いを持っていたと考えられます。

<居眠りをした青年を用いられた神>

 その特別な夜、あろうことかエウティコという青年が居眠りをしてしまいます。おそらく彼も昼間労働をした後に礼拝にやってきて疲れていたのです。しかも礼拝は深夜に及びました。肉体の疲労に打ち勝ちがたく青年は眠りこけてしまって、三階の窓から転落してしまいます。青年が窓に腰を降ろしていたのは、外気に当たって眠気を払い、さらには窓という危険な場所に敢えて座って気を引き締めて眠らないでパウロの話を聞こうとしたためと思われます。エウティコは単に居眠りした青年というより、むしろ熱心に御言葉を聞こうと努力した青年でした。

 ところで、ヨハネによる福音書の11章には、主イエスが十字架におかかりになる前、病気で亡くなったラザロという男性を主イエスが生き返らされた話が書かれています。すでに墓に入れられて四日も経っていたのにラザロは蘇りました。死者を巻く布をつけたまま、墓から出てきた場面は衝撃的です。今日の聖書箇所のエウティコの蘇りは、ラザロの時のように衝撃的な記述はされていません。しかし、主イエスや、そしてまたパウロの大いなる命の危機が迫っている状況での、人間の命の蘇りという点においてはラザロの場合とエウティコの場合は似ています。

 いずれも、神が与えてくださっている「しるし」なのです。私たちのすべてが肉体の死では終わらないという「しるし」なのです。その「しるし」は置かれている状況が厳しかったからこそ、神が与えてくださるのです。慰めとして与えてくださるのです。主イエスが十字架に向かわれたように、これからパウロにも苦難がきます。そしてまた、残されることになる教会の人々にも苦難がくるのです。しかしなお、神が共にいてくださり、失望で終わらない希望へと導かれることを神はエウティコという青年を用いて「しるし」として与えてくださいました。エウティコという青年は、聖書でここにしか出てまいりません。居眠りした青年として2000年後の私たちにも、その名が残されました。しかし、その名は、2000年後を生きる私たちにとっても希望の象徴です。神によってエウティコはそのような役割を与えられました。死では終わらない、私たちの命の希望を伝える者とされました。私たちに日々にも苦難があります。しかし、私たちの命には苦難も死も消すことのできない輝きを与えられている、そしてまた私たちもエウティコなのです。弱くて心ならずも居眠りをしてしまうのです。エウティコが3階から1階に落ちたように、神の道から転げ落ちてしまう者なのです。しかし、「まだ生きている」、そういっていただけるのです。そう神はエウティコという青年を用いて、今日も力づけてくださるのです。そしてまたこの蘇りの奇跡は礼拝という場で起きました。これも重要なことです。エウティコのようにこの場で死んだ人が生き返ることはないかもしれません。しかし、なお礼拝は命を新しく生み出す場です。聖書において慰めとは力を与えることでした。礼拝において私たちは力を得ます。まことの命をいただきます。



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