大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 7章7~25節

2017-08-21 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年8月20日主日礼拝説教 「わたしの内に住む罪」吉浦玲子

<罪に売り渡された人間>

 「ジギル博士とハイド氏」という小説があります。ご存知の方も多いかと思います。子供の頃読んだ記憶があるのですが、内容を細かくは記憶していなかったので、ネットなどで調べて思い出してみました。この小説は普段は善良なジギル博士が薬物によってハイド氏という悪の権化のような人物に変化するという内容でした。善良なジギル博士と極悪なハイド氏は、実際は同一人物なのですが、見た目も全く違うように変身が出来たのです。ジギル博士はハイド氏に変身して、人目を気にせず、道徳から解放されて好き勝手な行動をして楽しんでいたのです。最初は薬物を使ってジギル博士はハイド氏に変身していたのが、だんだんと薬物を使わなくても、ハイド氏に変身するようになってきました。ジギル博士が望んでいない時でも勝手にジギル博士はハイド氏になってしまうようになったのです。つまりジギル博士はハイド氏をコントロールできなくなって行くのです。ある意味、ハイド氏にジギル博士がだんだんと乗っ取られていくのです。

 荒唐無稽な作り話といえばそれまでですが、この小説が書かれた時代、モデルとなるような事件が実際にあったそうです。その一人が、昼間は善良な実業家で、夜間には強盗を18年間も続けていたという人物です。またほかにもいて、昼間は医者で、夜は墓場荒らしをしていたという人物もいたそうです。人間の善悪二面性ということが、当時、この小説が書かれたイギリスでは話題となっていたようです。

 しかし、問題の本質は善悪の二面性ということではないと思います。人間には善と悪の二面があるのではなく、むしろ悪の心をどうしようもないのが人間の本質なのです。ジギル博士とハイド氏の物語にしても、そもそも表向きは善良な生活をしているジギル博士自身の本質的な罪に、すべてのことは起因しているといえます。見た目も異なるハイド氏に変身して、周囲の人々の目から隠れて悪を行うということ、それを望んでいたのは他ならぬジギル博士自身でした。ジギル博士とハイド氏が二人いるのではなく、ジギル博士の本当の姿がハイド氏であったともいえます。根本にあるのは悪の問題、罪の問題であって、それを偽善によって覆い隠していたのがジギル博士であったと言えます。それにしても普段はジギル博士として慈善活動をして周囲の信頼や尊敬を得ながら、ひそかにハイド氏に変身をして悪いことをする、実際、この小説のモデルとなるような事件もあったとしても、これは極端な話というわけではなく、人間の罪のあり方を良く示していることだと思います。法律を犯すような罪であれ、法律は犯さないけれど人に心の痛みや不快感を与えるような罪であれ、バレなければ良い、人から非難されなければ良い、後ろ指さされなければ良い、こっそりやったら良い、あるいはみんなでやれば怖くない、というのは、神を畏れない人間のあり方です。そしてそれが人間の罪の性質そのものです。

 そのようなもともと罪の性質を持った人間は、小説の中で、ジギル博士が、ハイド氏になることを最初は自分がコントロールできると考えていたように、自分の罪を自分でコントロールできると考えていました。しかしそうではない。むしろ、ジギル博士が最後にはハイド氏にのっとられてしまったように、罪に人間の側が乗っ取られてしまうのです。それはノンフィクションのお話や極端な人物だけのことではなく、キリストの救いを知らないすべての人間の姿でした。

 パウロもそのような憐れな人間の罪の本質を良く良く知っていました。

 「14節 わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

 ジギル博士がハイド氏をコントロールできなかったように、私たちは罪をコントロールできません。それをパウロは<罪に売り渡されている>と表現しました。ハイド氏からジギル博士に戻った時、ハイド氏の行った殺人を含むえげつない悪行にジギル博士は愕然とします。ジギル博士はひそかに自分の欲望を満たしたいとは願っていましたが、自分が望む以上の悪が現れてきて、戦慄します。私たちの罪もそうです。たいしたことではない。そう思ってやったことがやがて自分に絡みついてきて逃れられなくなります。全く自分には罪の意識がなくやったことで人が傷つくこともあります。ほんの軽い気持ちで言ったことで人が死に選ぶほどのことも起こります。いじめや、モラハラや、人間関係における裏切り、そういったものは、場合によっては人を殺す力を持ちます。直接手を下さなくても、人の心を殺し、心を殺された人が死を選ぶ、そういうことが実際にこの世界では起こっています。そしてまたその力は罪を犯す人間自身をも、死へと導きます。パウロが「罪の報酬は死です」と言っているまさにその通りなのです。

<連戦連敗の心>

 「20節 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

 望まないこと、つまり罪を、悪を犯しているのは、わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです、この言葉は取りようによっては無責任に聞こえる言葉です。わたしが悪いことをしているのはわたしではなく、わたしの中の罪なのだ、とまるで罪が寄生虫かなにかのようにわたしたちの中にあって、それが勝手にやっているのだというのです。

 こういうことは通常の常識的な社会で通用するはずはありません。法的な罪を犯した人が、「自分がやったんじゃない、自分の中に住んでいる罪がやったんだ」と言っても通りません。しかし、それほどに罪は私たちの手に負えないということなのです。<五体の内にある罪の法則のとりこにしている>そうパウロは言っています。パウロはキリストに救われる前の状態を、今日の聖書箇所で、<肉の人>、あるいは<五体>と言っています。<肉の人>、あるいは<五体>は罪の法則に生きているというのです。それに対して、善を為そうとする意志をもったものを「内なる人」あるいは「心」といっています。しかしその善を為そうとする意志はありながら「内なる人」「心」はけっして「肉」「五体」に打ち勝つことはできないのだとパウロは語ります。善を為そうとする「心」は、罪のつきまとう「肉」に連戦連敗するのだと語ります。いや、連戦連敗どころではない、罪に支配されてしまうのだと語っています。戦争に負けた方が捕虜になるように、「内なる人」は罪に支配されるのです。ジギル博士がハイド氏に乗っ取られてしまったように、私たちは自分の内に住んでいる罪をどうしようもできないのです。

 しかし、18節に戻って読んでみますと、少し不思議な言葉が書いてあります。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」善をなそうという意思はありますが、とパウロは語っています。何となく読み飛ばしそうなことです。実際、わたしもさらっと読んでいたところですが、ある神学者がこの言葉にたいへん驚いたと書いているのを読み、改めて読みますと、たしかに不思議な言葉です。アダムとエバ以来、罪の性質をもち、その罪の力をどうすることもできない人間がなお「善をなそうとする意志」を持っているとパウロは言うのです。ジギル博士とハイド氏の物語は人間の単純な意味での善悪二面性を現しているのではないと申しました。むしろ悪に支配された人間のみじめさを描いたものだと申しました。しかし、一方でパウロは確かに人間は善を望むのだと言っています。19節に「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とあります。「心」は善を望みながら、「五体」は悪を行うというのです。

 創世記を読みますと、その1章27節に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。神はご自分にかたどって人間を造られた、つまり、神はご自分の似姿に人間を造られたということもあります。神に似た姿を人間は持っているのです。人間は神の似姿なのだということです。逆ではありません。神が人間に似ているのではありません。人間が神の似姿なのです。似姿に造っていただいたのです。似姿と言っても、手が二本で口がひとつとかいうことではなく、人間には神性、神の性質が本来、備わっているということです。つまり、人間は神の心が、本来は、分る存在なのだということです。神は善なる方ですから、当然、善を望まれます。その似姿である人間もまた、善を望むのです。

 しかし、罪の性質が人間に入り込んできました。体は罪に支配されました。本来、神の似姿として善を望む人間が善を行えなくなりました。もともと悪を望んでいて悪をなすのであれば、そこに苦しみはなかったでしょう。心と体が分裂するような苦しみを味わうことはなかったでしょう。心で善を望んでいても、体は勝手に悪をなしてしまう。その体を私たちはコントロールできないのです。

<パウロの叫び、徴税人の祈り>

 ところで、パウロの手紙はパウロ自身が筆記したのではなく口述筆記であると言われています。パウロが語る言葉を、別の人が書き留めていったと言われています。基本的にパウロは論理的に語っていて、このローマの信徒への手紙も、順序正しく語られ論理的に構成されています。しかし、語る途中で、パウロは、ときどき、感情があふれてきてしまうところがあったようです。今日の聖書箇所では、24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」というところがそうではないかと言われています。そこまでは、論理的に内在する罪と心の関係を語りながら、ついついパウロは叫ぶように「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と言ってしまった。ひょっとしたらパウロはこの部分は筆記されることを意識していなかったかもしれません。パウロの言葉を聞きながら書き留めていた人もこのパウロの言葉を書き留めるべきかどうか少し悩んだかもしれません。しかし結局、このパウロの感情のあふれた言葉は文章として残されました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」これはパウロ自身の実感のこもった言葉です。「あなたがたはみじめな人間だ」と言っているのではありません。ほかの誰でもない自分自身がみじめだとパウロは語っているのです。別のところでパウロは自分のことを「罪人の頭」だとも語っています。パウロが自分自身の罪の具体的な内容はあきらかではありません。もちろんパウロはかつてはキリスト教徒を迫害していましたから、そのことをもって自分の罪と考えていたところもあるでしょう。しかし、それ以外の具体的なあのことこのことはあげられていません。しかし、具体的な事柄は聖書にはあかされていませんが、パウロは自分のみじめさを告白しているのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」この告白は、パウロの叫びでありながら、同時に、心で善を願いながらそれをなすことのできない人間すべての告白です。

 ところで、ルカによる福音書18章に有名なファリサイ人と徴税人の祈りの話があります。ふたりはそれぞれに祈るために神殿に上りました。そして自分は律法をしっかり守っているという自信のあったファリサイ人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました。一方で、当時、イスラエルを支配していたローマの手先として、あこぎなやり方で人々から税を徴収していた徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」と祈りました。主イエスはこの二人の内で義とされて家に帰ったのは徴税人なのだとお語りになりました。

 胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人の姿は、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫ぶパウロの姿でもあります。神は、自分こそは正しく立派だと思う人間ではなく、自らのみじめさ弱さを知っている人間、善をおこないたくてもできない苦しみの中にある人間に、そのまなざしを注がれます。そして救われます。

 7章の最後の部分でパウロの叫びは続きます。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」この神への感謝はほとんど歌うようにパウロの口からついて出てきた言葉です。この7章の後半の部分でパウロが論理的に語りたかったことは「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と最後にまとめてあるように、心と肉の分裂なのです。しかし、そこからあふれるように、キリストの救いへの讃美がまじりこんでいるのです。論理的な構成としては救いに関しては8章で語られるのですが、ここでパウロは自身のみじめさの告白と神への賛美を語らずにはおられなかったのです。論理的な論の組み立てを壊してもパウロが叫んだ言葉の内にまさに聖霊が働いたといえます。

 わたしたちは、善を行いたくても行えない、そのみじめな姿のままで、罪の体のままで、胸を打ちながら神殿に立った徴税人のように神の前に立ちます。

 そのとき、キリストの十字架からの光が豊かに私たちには注がれるのです。善を行えないわたしたちが、善を願っても体が言うことを聞かない私たちが、罪の支配から解放されます。最初の創造の時のようにまことに神の似姿として生き始めるのです。わたしたちは神の前にみじめな姿のままで立ち、ただただ嘆くとき、神の憐みのうちにすでにあります。神は憐れんでくださる方なのです。そしてまさにその時、神は、詩編51編にあるように、私たちの内に清い心を新しく創造してくださるのです。新しく創造された清い心は体に支配をされません。わたしたちは願っている善をなすことができるようになるのです。新しく生きていくのです。

 

 


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