大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2020年9月13日大阪東教会主日礼拝説教使徒言行録10章23~48節

2020-09-13 15:01:23 | 使徒言行録

2020年9月13日大阪東教会主日礼拝説教「神は本当に公平か 」吉浦玲子

【聖書】

翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。

次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。

ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある皮なめし職人シモンの家に泊まっている。』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

【説教】

<主にある出会い>

 10章の最初のところで、まずローマの軍人、コルネリウスに天使が現れて、ペトロという人物を呼ぶように伝えました。そのコルネリウスからの使者が、ペトロの滞在していたヤッファの町に近づくころ、ペトロは神によって幻を見せていただきました。その幻は異邦人を受け入れなさいということを神がペトロに示したものでした。その神の示しのゆえ、ペトロは異邦人であるコルネリウスの使者を快く迎え入れました。そこから今日の聖書箇所は始まります。しかし、ユダヤ人の家に、異邦人を招き入れ、ましてや泊まらせるなどということは、この時代ありえないことでした。実際、このことはのちの11章で、エルサレムの教会において批判されることとなります。以前にも申し上げましたように、異邦人と交際をしない、ということは今日的な意味での人種差別とは違う側面もある問題でした。それは、律法的な問題、神との関係の問題だったのです。しかし、神はその救いのご計画の中で、ペトロと異邦人であるコルネリウスを導かれ、出会わせられました。

 私たちの人生にもまさに神が備えてくださった出会いがあります。それは自分の人生が開かれるような出会いの場合もありますし、逆に試練や挫折のきっかけとなる出会いもあります。キリスト者ではなくても、人との出会いによって人生が変わるということはよくあります。人生全体が人との関係性によって成っているといってもいいくらいです。しかし、特に、神の備えられる出会いは、救いに関わる出会いです。私たちは出会った人すべてに対して聖書の話やキリストの証をするわけではありませんが、私たちが出会った人たち、そしてまた離れていった人たち、そのどちらにも、神のしるしや業が私たちを通して実はなされます。私たち自身が気づいていなくてもそうです。ペトロとコルネリウスの出会いのように、神がまさにこのときしかないというご計画の中で出会いが備えらえ、コルネリウスが救いへと導かれたように、私たちの出会いの内にも神の働きがあります。救いへの働きがあります。

<神が命じられたこと>

もともとコルネリウスは神を求めていた人でした。ですから、その求めに神は応えられました。そしてペトロが招かれたのです。「親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」とあります。コルネリウスはイスラエルを当時支配していたローマ側の人間でした。しかも、百人隊長という地位にあるにも関わらず、支配されているイスラエルの人間に過ぎないペトロを、親族や友人まで招いて待っていたのです。ここにコルネリウスの期待の高さが分かります。

 そして実際、ペトロが来ると、百人隊長であるコルネリウスがペトロに対して<ひれ伏して拝んだ>のです。ペトロを神のように思って拝んだのです。ペトロはコルネリウスにとって天使によって示された人物ですから、神の使いにも等しく思えたのでしょう。しかし、ペトロはもちろん神でもなければ天使でもありません。ペトロは彼を起こして「お立ちください。わたしもただの人間です。」と言います。これはコルネリウスが特別におかしいというわけではなく、古今東西、まことの神を知らない人間は、人間を神や神に等しいもののように思うことがあるということです。権力者が自分を神であるかのように民衆に思わせるというのは古代のみならず近代や現代においてもあることです。残念なことに宗教の名前において、個人が教祖となって神のようにふるまうこともあります。まことの神を知らない人間は容易に神ならぬものを神とするのです。またそういう人間の性質を利用する人間もいるのです。

 さてコルネリウスはペトロの「同じ人間です」という言葉を理解します。そして天使に示されたことを語り「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」といいます。ペトロが普通の人間であることは理解しつつ、なおペトロが神に命じられて語る者であることを知り、それを「残らず聞こう」とするのです。神を求めていたコルネリウスは、いままさに神が備えてくださった出会いの中で、神に命じられたペトロの言葉を全身全霊をもって待っているのです。これは、今日における礼拝に向かう礼拝者の姿勢と同じです。

<なぜ証人なのか>

 そのコルネリウスの切なる願いに応えて、ペトロはまさに神に命じられた言葉を語ります。ここで語られていることは、イエス・キリストはすべての人の主である、ということです。つまり福音を語りました。そのイエスはユダヤ人であって、その業はユダヤにおいてなされたこと、そしてユダヤ人によってイエスは殺されたこと、そして三日目に復活をなさったこと、そしてまたイエスは、生きている者と死んだ者とを裁く者であることが語られました。主イエスが裁き主であることは私たちが毎週告白しています使徒信条にも記されています。しかし、主イエスが裁き主であることは、恐るべきことではありません。この裁き主は、罪を赦してくださるお方でもあるからです。「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」とあるように裁き主である方は、罪の赦しのために来られた方でもあるからです。

つまりユダヤ人であり、またユダヤにおいて活動されたイエスは、この話を聞いているユダヤ人ではない異邦人のコルネリウスも含めたすべての人の主であり、裁き主であり、罪を赦してくださる方であるとペトロは語りました。

 ところで、ペトロは「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。39節」、「神はこのイエスを三日目に復活させ、人人の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。41節」と語り、また「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。43節」とも語っています。ここに、証人とか、証しという言葉があります。つまり主イエスの出来事、つまり福音は証人によって証しされるものなのです。この証人は主イエスの働きや出来事を直接見た人々だけがなるのではなく、証人の証言を聞いて信じた者もまた証人とされるのです。

 罪の赦しやキリストの復活は実験によって再現されるとか、エビデンスによって証明されることではなく、キリストを証しする人によって証言され、それを聞いた人々がその証言を信じ、福音を信じ、救われるのです。そうやってキリストの証人の証言が2000年に渡って続いて来たのです。ここにいる皆さんもどなたからかキリストのことを聞き、その証言を信じ、信仰を得られました。そして皆さんもまたキリストの証人とされています。

これは不思議なことです。天地創造をなさった神であれば、わざわざ人間にキリストの証しさせることなどなさらずに、一人一人にキリストの十字架と復活の意味を直接示されることも可能だと思うのです。しかしなぜか神は敢えて人間を証人として用いられるのです。

<愛の業としての証>

ある神学者は「神は私たちにご自分の御業にあずからせることを欲したもう」と言いました。つまり神は人間にご自分の業に関与することを望んでおられるというのです。神が御自身の業、つまり、人間の救い、福音の伝達を、御自分の中で敢えて完結なさいませんでした。神の中で完結することは可能であるのに、あえてそうなさいませんでした。福音の証言者として人間が語ること、すなわち人間による宣教を神は選ばれました。パウロがコリントの信徒への手紙で語っているところの「宣教という愚かな手段」を神は敢えて取られました。さきほどの神学者は植民地時代、ヨーロッパ人が現地の人の意向を無視してヨーロッパ的なものを押し付けたようには、神はご自身の業を一方的に押し付けることを望まれないと例を挙げて説明してされていました。神はその深い人間への愛のゆえ、人間自身が自由な意思によってご自分に従い、自由にご自分の業に関わってくることを望んでおられるのです。

宣教とか伝道というとなにか義務のような気がします。たしかに宣教は主イエスの大宣教命令によるものではあります。そのイエス様の命令に従うことは神の愛に応えることです。しかし、神の愛に応えて、宣教をなすとき、むしろ、私たち自身が、まさに生きて働いておられる神の愛をいっそう感じることができ、恵みを受けるのです。未信徒の方がキリストを自分の救い主として受け入れ、変わって行かれる様子を拝見することは、本人のみならず周囲の人にとっても大きな喜びと驚きに満ちたものです。「私は神を信じます」その言葉を聞くとき、自分が洗礼を受けたり、神から恵みを受けた時以上の喜びや感動を覚えたことが何回もあります。

以前いた教会で、ある時、なんだかちょっと変わった若者が教会にやってきました。大学生で運動部に所属していたらしく、いつもジャージを着て教会に来ていました。最初の頃は、どういう思いで教会に来られているのかあまりよくわかりませんでした。やがて、祈祷会の中で学びを共にする機会がありました。気がつくと真剣に求道をされていて受洗を決意なさいました。私はその時は牧師でも教会の役員でもなかったのですが、ひょんなことから、その方からの受洗志願書をなぜか預かりました。その一枚の神がとても重いものに感じられ、とても感慨深いものでした。洗礼式の日、その方は普段とは違って、スーツを着てこられ洗礼をお受けになりました。そこには、初めて教会に来られた時の何となくふわふわした感じの若者ではなく、はっきりと自分の言葉でキリストを証しされる青年の姿がありました。自分自身が直接伝道したわけではなく、志願書を預かっただけなのですが、それでも、大きな感動を覚えました。

<神は人を分け隔てなさらない>

 さて冒頭に申しましたように、ペトロとコルネリウスは神の導きによって出会いました。その導きがまさに神によってなされ、神が異邦人をも救おうとされていることを知ったペトロは34節で「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と語っています。この言葉は口語訳では「ほんとうによくわかってきました」と訳されていて、まことに、実際に、という強調のニュアンスがあります。ペトロにとって大きな驚きだったのです。ペトロ自身が神によって変えられたのです。

 そしてまた神が人を分け隔てなさらないということが、実際に、神ご自身の業によって示されました。それが44節以降に記されている異邦人たちに聖霊が降ったという出来事です。 「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と35節にあるように、神が受け入れられるのは、「神を畏れて正しいことを行う人」です。正しいこととは何かというと、善行を行うということではなく、福音を信じるということです。主イエスを自分の救い主として受け入れるということです。福音を信じる者を神は分け隔てなく受け入れられるのです。そしてまた、いまは福音を信じていない人にも神はキリストを通して救いへの道を開いておられます。キリストはすべての人間の主だからです。人種、国籍、性別、社会的地位、心身の障害の有無、といったことは神の前に意味はなさないのです。しかし、何回か申しましたように、注意しないといけないことは、これはヒューマニズム的な意味での平等とか公平ではないということです。人間は皆同じだ、平等だ、皆が公平であるべきだということは、私たちは耳がタコになるくらい聞かされています。しかし、私たちは実際のところ、他者との壁をそれぞれに持っているのです。人間は自分が直面さえしなければ、ヒューマニズム的な安易な平等主義を唱えることができます。しかし、実際に職場や、マンションの隣の部屋や、あるいは子供の結婚相手に、人種や国籍や社会的地位や心身の障害の有無といった点で容認できない人が現れた時、往々にして差別は起こるのです。

 そしてまた神は分け隔てなさらないということは、救いにおいて分け隔てなさらないということでしたが、それはこの世界がただちに、平等な社会になるということでもありません。基本的な人権や、生存権が脅かされるような不平等はゆるしてはなりませんが、神は多様な人間の多様なあり方を容認されます。実際、ペトロたちはユダヤの権力者に対抗しようとしたわけでも、支配者であるローマに反旗を翻そうとしたわけでもありません。支配者と被支配者という構図、身分の上下、金持ちと貧乏人という違いは歴然とあったのです。その現実のなかで、支配者であるローマ側のコルネリウスたちに聖霊が降りました。ペトロに同行したユダヤ人もこの光景を見ました。人間の間の違い越えて神の力が働かれることをユダヤ人もローマ人も知らされたのです。

 今日も神の力は働いています。どの国の人にも。豊かな人にも貧しい人にも働いておられます。力に満ちて元気に働く人にも寝たきりの人にも神は働いておられます。福音を信じて生きていくとき、神は私たちの内なる壁を取り除いてくださいます。他者との間の壁も、自分で自分に対して作っている壁も取り除いてくださいます。若すぎるからダメだとか、年を取ったからできないとか、体力がないから無理だといった限界を神が突破してくださいます。分け隔てなさらない神は、私たちを自由にしてくださいます。



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