2018年12月23日大阪東教会主日礼拝(クリスマス礼拝)説教 「飼い葉桶に寝かされた救い主」吉浦玲子
<寂しい誕生>
生まれてきたばかりのみどりごは布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされていました。この赤ん坊は世界を救う救い主として生まれてきました。「布」という言葉は、この12月に刊行された新しい聖書では「産着」と訳されています。多くの英訳の聖書でも赤ん坊を包む衣服と訳されているようです。しかし、現代の日本で考えられるような産着や、ベビーウェアとはイメージが違うのではないかと思います。素朴に布にくるまれている、そちらのほうが当時のイメージに近いのではないでしょうか。さらにいえば、産着というよりおしめといったものであるかもしれません。
「布」は赤ん坊がごく普通に赤ん坊として生まれてきたことを示します。この赤ん坊は、生まれてすぐ、なにか素晴らしい言葉を発することもなく、超人的な能力を発揮することもなく、ただ大人の世話を受ける非力な存在としてこの世に生まれました。つまり、おしめをした赤ん坊なのです。そして飼い葉桶に寝かされていたのです。赤ん坊は三時間おきに母親の乳を求めたかもしれません。おしめの気持ちが悪くて泣いたかもしれません。そのようなごく普通の赤ん坊としての日々があったでしょう。そしてその日々はおおむね静かな日々であったと考えられます。先ほど言いましたように赤ん坊は泣くことはあったでしょう。しかし、両親と赤ん坊の日々は静かであったのです。
クリスマスの絵本や、ページェントには、かわいらしい動物たちやら、羊飼いやら、博士たちが登場し、何となくおごそかながらもにぎやかなイメージがあります。しかし、救い主の誕生はむしろ静かで、誰にも顧みられない片隅の出来事であったのです。
翻って、この飼い葉おけに寝かされたみどりごイエス・キリストに先立って歩む預言者となる洗礼者ヨハネはイエス・キリストより半年ほどまえに誕生しました。その誕生は近所や親戚の人々に囲まれ、山里は喜びがあふれました。しかし、その人々の喜びの中で誕生した洗礼者ヨハネが成長ののち指し示すこととなる救い主イエスの誕生はむしろ寂しいものでした。
それは主イエスが人間の根源的な寂しさのただなかに来てくださったことを象徴します。イエスは沸き立つような喜びのただなかではなく、寂しさ、貧しさ、孤独のただなかにお生まれになりました。こぎれいな産着ではなく粗末なおむつにくるまれた赤ん坊としてこの世にお越しになりました。生涯、その静かな寂しさの中を歩まれました。もちろんその成長ののちの宣教活動においては多くの人々が殺到し、その教えや癒しの業を求めました。しかし、ご自身のことを本当に理解する人は傍らにはいなかったのです。そして孤独に十字架へと向かわれました。
<世の暗さ>
さて、みどりごは飼い葉桶に寝かされたと聖書に記されています。これは、端的に言えば新生児が育児に不適切な環境に置かれているということが記されているのです。そもそもいったいどこの親が生まれてきたばかりの赤ん坊を飼い葉桶などに寝かせたいと思うでしょうか。現代であれば、新生児が使うものは、念入りに消毒をします。ただでさえ2000年前は乳幼児の死亡率は高かったのです。もちろん親はできる限りのことをしたかったでしょう。そして出産を終えたばかりの母親もゆっくりと体力を回復し、また赤ん坊の世話をするための環境が必要です。しかし、ヨセフとマリアという若い夫婦には、そのような環境は与えられませんでした。非衛生的な劣悪な環境に、新生児と出産を終えたばかりの女性は置かれたのです。
彼らは故郷のナザレで出産することができませんでした。当時イスラエルを支配していたローマから皇帝の名によって住民登録の命令が出されたので、人々は、現代で言えば本籍地にあたるところに行って登録をしなければなりませんでした。ヨセフはそのためにベツレヘムに行ったのです。ヨセフたちの町ナザレからベツレヘムは200キロほど距離がありました。登録してなんらかの福祉サービスが受けられるというものではありません。ローマのための税金を徴収され、兵役や労務につかせられるための登録でした。当時のイスラエルの人々が置かれていた暗さが現される出来事でした。
しかし暗いといっても、イスラエルの人々は当時奴隷のような存在であったかというとそうではありませんでした。むしろ大ローマ帝国によって<パクスロマーナ(ローマによる平和)>と言われる平和が帝国と植民地には保たれていました。戦乱の世ではなく、人びとの生活はある意味では安定していたのです。ローマは支配している地域のある程度の自治や文化・宗教の自由を認めました。ローマに逆らいさえしなければ貧しくはあっても生活ができるという背景があったのです。パクスロマーナ、つまりそれは人間による平和、力による平和が実現した時代なのです。しかしまたそれは植民地の人間にとっては飼い殺しされているような時代でもありました。
しかしパクスロマーナの時代でなくても、人間は本当の意味での平和のなかに生きることはできません。超大国の軍事力の均衡のうえにきわどく一触即発を避けつづけている平和。誰かが誰かの犠牲になり、その犠牲の上に成り立っている平和。都合の悪いことはなかったことに隠ぺいして成り立っている平和。人間はいつの時代もそのようなきわどい偽りの平和の中に息を殺すように生きているといえます。いつの時代も、そのような世界の暗さ、世の暗さがあります。2000年前、その世の暗さの片隅に若い男女は見捨てられたような環境で寂しく初めての子供を迎えたのです。
さて、この飼い葉桶に救い主が寝かされてから2000年以上が過ぎました。人間の世界は変わったでしょうか?1945年12月の大阪東教会のクリスマス礼拝の記録の詳細を知ることはできません。会堂はその年の3月の空襲で焼け落ちていました。それ以降は、森小路教会と合同で礼拝を守る日々でした。幸い、空襲を免れた森小路教会において礼拝は守り続けられたのです。戦後の混乱と困窮の時代をわたしは母から聞かされたくらいで、なにも知りませんが、おそらく教会の人々は、それぞれ日々、かつがつ生きていくだけで精いっぱいであったでしょう。しかし、礼拝は守られ続けました。1945年の礼拝出席の統計を見ると驚くべきことに平均36名の主日礼拝出席があります。さらには3名の受洗者の記録が残っています。ちなみに続く1946年も同様の数字が残されています。1945年のクリスマス礼拝は森小路教会での合同での礼拝でしたから、そのクリスマスの日、大阪東教会のこの場所、この鎗屋町の地はまだがれきのなかにあったかもしれません。ことに夜は深い闇の中にあったかもしれません。調べますと1945年の冬は寒さが厳しかったようです。この教会のあった場所には寒い暗い寂しいクリスマスの夜が覆っていたのです。しかしその寒い暗い寂しい夜、なお救い主はこの地におられました。鎗屋町に、そして森小路教会があった千林の地に、そしてまたかつがつ生きていたそれぞれ教会の人々の傍らに救い主はおられたのです。2000年前に世界の片隅に到来された救い主は、それぞれの時代にあって、なお人間の寂しさ、この世界の暗さのただなかに共におられたのです。
<居場所はなくてよい>
そしてまた時代の暗さと同時に、ヨセフとマリアの置かれた特別な状況もあります。5節に「いいなずけのマリア」とあります。「妻のマリア」ではないのです。ここにはなんらかの事情があったと考えられます。本来は子供が生まれるのは結婚した男女の間であるはずです。特に律法を厳しく守っていたイスラエルの人々にとって婚約はしていても、まだ正式に結婚していない男女に子供ができるということには厳しい目が向けられたと考えられます。マリアは聖霊によってみごもったのですが、その理解者はおそらくヨセフだけであったろうと考えられます。本来は、身重のマリアは長旅をすることなく、ナザレに残っておくということもできたのかもしれません。しかし、彼らはおそらくナザレにも居づらい状況だったのでしょう。少なくともマリアだけを残してヨセフは旅立つことはできなかった、そう推測する人もいます。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と聖書にはあります。これはヨセフと臨月のマリアが誰からも親切にされず、動物小屋みたいなところで出産をせざるを得なかった、これは世間の冷たさのゆえだという文脈での読まれ方もします。それもけっして間違いではないのでしょう。しかし、これはおそらく出産するための場所がなかったということで、ベツレヘム滞在中ずっと宿屋に宿泊できなかったわけではないのかもしれません。しかしいずれにせよ、出産のとき、彼らには出産にふさわしい場所がなかったのです。彼らは故郷のナザレにいることもできず、またベツレヘムでも泊まるところがなかったのです。
これは救い主イエス・キリストの生涯の姿でもありました。主イエスが福音宣教を開始されたのち旅から旅の生活をされました。それは貧しい旅でした。主イエスご自身こうおっしゃっています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」これはずっと野宿をなさっていたということではなく、救い主のこの世界での孤独を表しています。ナザレにもベツレヘムにも、そして、どの町にもどの村にも、救い主の本当に居場所はなかったということです。
学生時代、博多で一人暮らしをしていたころ、クリスマスの時期にパン屋でアルバイトしていた年がありました。パン屋と言ってもケーキも作っていて、それなりに規模のあった店舗でした。当然、クリスマスの時期はかき入れ時でした。クリスマスケーキが飛ぶように売れました。そこの店のケーキは超高級というわけではありませんでしたが、それなりにおいしかったので、普通の家庭で家族で食べるクリスマスケーキとしては十分なものでした。私は大学が休みだったので来る日も来る日もバイトしていました。当時はクリスチャンではありませんでしたから、当然、教会に行くこともなく、24日も25日も一日中お店にいました。クリスマスケーキを売りながら自分はケーキを食べることはありませんでした。一緒に食べる人もいなかったので別にどうでもよかったのです。今はクリスマスを一人で過ごすということを指す<クリぼっち>という言葉がありますが、まさに私は当時<クリぼっち>でした。しかし、そもそもむかしの九州の地味な学生生活で、特段、クリスマスだから何か特別にという感覚は現代ほどはありませんでした。とはいえ、クリスマスに忙しくバイトをしていてどこか安堵する気もありました。忙しくしていれば、行く所もないこと、約束もないことを忘れていられるからです。本当はクリスマスに自分の居所がない、そのことを感じないですんだのです。
クリスチャンになって、それは変わったでしょうか?クリスマスの頃は、年末でもあり、さまざまに忙しくしています。教会でのクリスマスの準備のための奉仕もありました。忙しさにかまけているという点では、なんら変わっていなかったように感じます。もちろんクリスマスの日は教会に集います。祝会もあります。一人ではありません。そして本当の意味で、クリスマスにいるべき場所にいる、という面はあったでしょう。クリスマスに豪華なディナーやパーティの場ではなく、教会にいる、それこそ本当のクリスマスであろうと思います。
しかしまた同時に思うのです。クリスマスに自分の居場所のなさを感じても良いのだと。救い主が、赤ん坊の出産に適切な場所がない状態でお生まれになり、そしてまた生涯、居場所のない生活を送られたのですから、そのキリストの弟子である私たちもまた居場所がなくて当然ではないかと思うのです。
生涯、居場所がなかったキリストの最後の場所は十字架でした。まさに十字架こそ主イエスのおられるべき場所だったのです。主イエスは飼い葉おけの中から、一筋に十字架へと歩む歩みをされました。飼い葉おけのなかのみどりごは布にくるまれていました。この布は最初に申し上げましたように産着でありおしめでありました。そしてそれはまた亡くなった人を包む布をも暗示しています。つまり飼い葉おけの中の救い主は生まれたときから、死を帯びておられたということです。
それは私たちが生きるためでした。人間一人一人が罪の死ではなく、まことの命に生きるためでした。救い主は飼い葉桶から十字架をめざされました。しかし救い主に救われた私たちは命の道を歩んでいきます。永遠の命の道を歩んでいます。キリストの弟子である私たちもまた居場所がなくて当然だと申しました。しかし、実際のところは、すでに私たちには居場所があるのです。キリストが用意してくださった父なる神の御許に私たちの場所があります。救い主がその場所を準備してくださったのです。飼い葉おけの中のみどりごが私たちにとこしえの場所をすでに備えてくださっています。そのことのためにキリストはこの世界に来られたのです。それがクリスマスなのです。
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