大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録第21章37節~22章21節

2021-03-21 17:19:53 | 使徒言行録

2021年3月21日大阪東教会主日礼拝説教「 大胆に語れ」吉浦玲子 

【説教】 

<語らずにはいられない> 

 いま、受難節を私たちは過ごしています。受難節は、主イエスの十字架のお苦しみを覚える時です。そして、その苦しみが何のためであったか、そのことをよくよく覚える時です。私たちは繰り返し繰り返し、聞いてきました。キリストの十字架が私たちの罪のためであったことを。キリストを十字架につけたのは他ならぬ私たち自身であったということを。2000年前の遠い国の出来事、歴史家のヨセフスの歴史書に小さく記述されているエルサレムでのイエスという男の処刑の記事、それが2021年を生きている私たちの存在の根幹にあること、その驚くべきことを私たちはこれまでも聞かされてきています。聖書から聞かされ、そして聖霊によって知らされています。 

 しかしまた、一方で、罪ということを聞くとき、自分は罪人だと思う時、「ああ私はどうしようもないダメな人間だ」と落ち込みます。クリスチャンであっても、いえ、クリスチャンであればいっそう、自分の罪が見えてきます。繰り返し繰り返し犯してしまう罪が見えてきます。気づかずに犯して、あとから罪だと示されることもあります。しかし、罪は、罪だと気づいて、落ち込んで終わりではありません。「イエス様ごめんなさい」とお詫びして終わりではないのです。私たちは私たちの罪を聖霊によって知らされる時、新しく生き始めるのです。まったく新しい人生を歩んでいくのです。そもそも聖書を読んで、キリストの十字架を見上げて、自分自身がまったく変わらない、そんなことはありえないのです。あなたは罪人だと言われて、自己嫌悪に陥って、自信をなくして、それで終わり、ではないのです。むしろそこから、新しく歩み出す勇気、生き生きと生きる命を与えられるのです。自分の罪が大きければ大きいほど、自分に注がれた神の愛の大きさが分かるからです。今日の聖書箇所では、まさにパウロという大伝道者が、いかに新しくされたかということがパウロ自身の口から語られています。 

 さて、パウロは、エルサレムでとうとう逮捕されました。神殿に異邦人を入れたという濡れ衣を着せられたのです。怒りと憎しみに燃えたユダヤ人たちのリンチによってあやうく殺されるところを、当時のイスラエルの支配者であったローマの軍隊がやってきて、命拾いをしたのです。暴動の様相を呈していたので、ローマ兵がやって来て、騒ぎの原因を知ろうとしましたが、群衆はあれやこれや叫びたてていて、まったく事情が分かりません。そこで、騒ぎの原因と思われるパウロから事情聴取をしようと、パウロを兵営に連れて行こうとしました。しかしそこで、パウロ自身が、話をさせてほしいと願ったのです。パウロはローマ兵に話すことを許され、ユダヤ人たちの前で語り出します。しかし、パウロ自身が助かるためであれば、このままローマ兵の取り調べに応じて誤解を解いて釈放してもらうことも可能であったかもしれません。にもかかわらずパウロは自分を殺そうとした同胞の前で敢えて話をすることを希望しました。 

 ここから語られる内容は使徒言行録第9章で描かれていることと重複します。パウロがかつてキリスト教徒を迫害していたこと。キリスト教徒を迫害するためにダマスコに行こうとして、その途上でキリストと出会ったこと。そして回心をしたこと。さらにキリストを証しする伝道者となったことを語ります。 

 しかしこれは不思議なことです。パウロはいまユダヤ人たちから訴えられているのです。訴えられている理由は、神殿を冒涜したという嫌疑です。そのことに対しての申し開きをパウロはしていないのです。自分が律法に基づいて神殿で清めの儀式をしていたこと、異邦人を神殿の入れてはいけない場所に異邦人を入れてはいないことを語れば良かったのです。しかし、そうではなく、パウロは自分がいかにしてキリスト教徒になったかを語りました。これは、火に油を注ぐようなことです。パウロを殺そうとしていたユダヤ人たちは、そもそもイエス・キリストを信じられない人々でした。パウロがキリストを信じさえすれば救われるといってる、そのことに憎しみを募らせていたのです。その人々に、自分が主イエスを信じるようになったという証をしても、律法によってこそ救われると思っている人々の反発を買うだけなのです。そもそも信仰の出来事は、理屈で納得させることのできるようなものではありません。それがどんなに真実の言葉であっても、聞きとることができない人々はいるのです。イエス様ご自身、お語りになる時、「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃっていました。物理的に耳があっても、音声としての声は聞くことができても、言語を理解する能力はあっても、神の真理を聞く耳のない人はいるのです。そんな人々に対して語るとき、むしろその言葉が真実であればあるほど、聞く耳のない人々にとっては憎しみを助長する言葉になるのです。真実の言葉は、耳当たりのいい言葉ばかりではないからです。神の真理の言葉は、人間の思いや行いを否定する言葉にも聞こえるからです。神の真理の言葉は、人間の罪、自分自身のあさましさを知らされる言葉でもあるからです。 

<多く赦された者として> 

 しかし、パウロは語りました。語らずにはいられなかったのです。彼を駆り立てていたものは、自分を愛し、赦してくださった神への情熱でした。彼にはかつてキリスト教徒を迫害していたという深い罪の負い目がありました。テモテへの手紙Ⅰに有名な言葉があります。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」この<わたしは、その罪人の中で最たる者です>という言葉は、文語訳聖書では、「その罪人の中にて我は頭なり」と訳されていました。有名な「罪人の頭」という言葉です。讃美歌249番には<罪人の頭>という言葉が出てきます。「われ罪人の頭なれども 主はわがために いのちをすてて つきぬいのちをあたえたまえり」という歌です。神の前に立つ時、私たちの罪は、とてつもないものです。いや私の罪はたしかにひどいけど、あの人よりもましだというように、くらべようもないものです。一億円を借金をしている人が一億一円借金をしている人より自分はましだというようなものです。実際のところ、一億円だろうが、一千万円だろうが、私たちの罪は、神であるキリストを十字架につけねば赦されないものなのです。神であるキリストの肉を裂き、血が流されなければ赦されないほどのものなのです。あなたはキリストの血を流させたが私はちょっとしたひっかき傷だけだ、などといえる人はいないのです。パウロだけではなく、神の前に立つ時、私たちは誰もが<罪人の頭>です。誰もがキリストの肉を裂き、血を流させた者です。 

 しかし、最初にも申し上げましたように、罪ということを聞いて、それでずどんと落ち込んで「ああ私なんてダメだ」と思って終わりではないのです。いえ、「ああ私なんてダメだ」と思っている程度であれば、それは本当のところでは罪がわかっていないということでもあります。不思議なことなのですが、自分の罪が本当に分かるのは、罪が赦されたことを知った時なのです。赦された時、逆に自分がどれほどの罪を犯していたのかが分かるのです。それと同時にそれほど神に愛されているのかを知るのです。 

 福音書の中で、このような話があります。罪深い女が主イエスがファリサイ派に人の家で食事をしている場に入ってきました。その女は泣きながら、そのイエス様の足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗ったのです。いきなり入って来て、異様なことをする女性です。しかし、この女性は精いっぱいの主イエスへの感謝を表したのです。主イエスは主イエスを食事に招いた家の主人であるファリサイ派の人にこうおっしゃいます。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」と。そしてさらにおっしゃるのです。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」罪深い女はおそらく娼婦であったと思われます。当時の社会で、誰から見ても、罪深い、排斥されるような女性でした。そんな女性が部屋に入って来ること、ましてや体に障られることなどは、律法を守って生きている人には耐え難いことです。主イエスが女性が為すままにされているのを見て、家の主人は主イエスをも軽蔑したと思います。しかし、主イエスはおっしゃるのです。その女性は多く赦され多く愛を示しているのだと。 

 パウロもまた、多く赦され、多く愛を示して生きる者とされました。パウロは福音を語ること、自分を変えてくださったイエス・キリストを語り続けることによって、神の愛、そして隣人への愛を多く示した人でした。神は赦された者に新しい使命を与えられます。その使命がパウロにとっては、福音を語ることでした。福音を語るということは正しく教理を講義することではありません。立派な聖書解釈を示すことではありません。自分自身を変えてくださったイエス・キリストを指し示すことです。 

 私の信仰の先輩であったある女性は、クリスチャンになる前、クリスチャンの友人の女性の自宅で行われていた聖書を読む会に誘われて行きました。聖書の話も良かったのですが、なによりそこに集まっていた仲の良い友人たちとおしゃべりができる、リラックスできるということが、楽しかったようです。その先輩がある日、まだ洗礼を受ける気持ちにはなっていなかった頃、近所の道を歩いていると自分を聖書を読む会に誘ってくれた友人が向こうから自転車でやってきたそうです。その友人は通りすがりに先輩の耳元で「あんたのために死んでくれたお方がいてはんねんで」と言って自転車で去って行ったそうです。それまでも十字架の話は聞いて理解していたのですが、その時はじめて「自分のために死んでくれた方がいる」という言葉に衝撃を受けたそうです。その先輩は、そのときのことを鮮明に覚えているそうです。友人が自転車で通り過ぎて行った情景、その時のまわりの街並み、空の色、すべてが忘れられないと。そしてその先輩は洗礼を受けてクリスチャンになりました。その先輩は、その自転車の一件以外で、私の知る限り、特別なことはなにもなかったようです。また受洗後、劇的に人生が変わったというわけでもなかったようです。それまでと同じように子育てをし、仕事をしていたそうです。でもずいぶん経ってから娘さんに言われたそうです。その先輩には娘さんが三人いたのですが、先輩が洗礼を受けた後、雰囲気がまったく変わったと娘さんたちに言われたそうです。特に上の二人の娘さんからは、自分たちが小さいころは、やたら厳しかったお母さんが、洗礼を受けてから、以前ほど怒らなくなったと言われたそうです。洗礼を受ける前の厳しいお母さんを知っていた二人にとって、一番下の娘さんは変わってからのお母さんに小さいころから育てられたわけで、その末っ子の妹が羨ましいと言われたそうです。先輩は自分では気づいていなかったそうなのですが、そういえば、上の子供たちが小さいころは、もちろん子育てになれてなくて一生懸命だったというのもあったのですが、どこかにほかの家の子供と比べたり、自分の願いを子供に必要以上に押し付けていたと気づいたのだそうです。でも、洗礼を受けてからは、そんな思いがなくなったそうなのです。なので特に末っ子の妹さんはのびのびと育ったそうです。つまりその先輩自身も、キリストによって変えられたのでした。 

 私自身は、中年になって洗礼を受け、そこから会社を辞めて牧師になるという、かなり人生が変わりました。そのことに関しては丸一日でも語れるくらいですが、ここでは語りません。しかし、外側の生活が変わろうが同じであろうが、すべての人は、キリストによって変えられます。

 受難節、私たちもキリストによって変えられた者として生きます。キリストは高みに立って私たちを断罪し、裁かれたお方ではありませんでした。むしろキリストこそが罪人の頭として十字架におかかりになりました。罪なきお方が私たちと同じ罪人となってくださったのです。だから私たちは変えられるのです。それぞれに新しい役割を与えられ新しく生きる者に変えられます。一度、変えられたらそれで終わりではありません。繰り返し変えられるのです。そしてその変えられた証しを私たちは大胆に語りつつこの生涯を歩んでいきます。 



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