大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅱ第2章1~10節

2021-12-05 15:23:49 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年12月5日大阪東教会主日礼拝説教「真理を歪める者」吉浦玲子 

 季節外れの話題ですが、今年は庭の奉仕をしてくださる方がまいてくださったひまわりがたいへん大きく育って、2メートルを越えるような高さになって、そしてまたとても長い期間、11月までも花を咲かせてくれました。福音書の中に、「からし種」のたとえ話が出てきます。からし種はとても小さな種だけれども、成長すると大木になる、小さな信仰もそのように成長することができるというたとえです。からし種の種を実際に見たことがありますが、ほんとうに小さくて、ゴマ粒よりも小さな種でした。ひまわりの種はからし種よりはずっと大きな種です。教会学校の生徒さんが、花のあとから種をとってくれましたが、薄い楕円形の1センチから2センチほどの大きさの種です。からし種より大きいと言っても、種は小さなものです。その小さな種から、身長の高い男性でも見上げるくらいの高さのものが成長するというのは驚きます。茎も支えをしなくても2メートルの高さを自分で支えるようにがっちりとしているんです。花のあと、切り倒すのがけっこう大変だったとお聞きしています。小さな種が大きく育つ、それは植物の神秘です。そしてそれは同時に命の神秘でもあります。吹けば飛ぶような種の中に、命があるのです。その命は豊かに大きく成長をするのです。同じような大きさや形の砂や石や鉄くずからは当然ながら何も生まれません。命がないからです。信仰もまた、命を持っています。命のない信仰はないのです。血の通った生き生きとした信仰は、神の命によって生かされています。私たちは、信仰の命を神からいただきました。また、その命は、キリストによって与えられた命と言っていいでしょう。クリスマス、キリストの到来は、私たちがまことに命の信仰に生かされるためのものものでした。 

 ところで、今から8年前の12月にこの大阪東教会で日本基督教団大阪教区の准允式がありました。私自身もそのとき准允を受領いたしました。そしてまた5年前に按手礼式がやはりこの会堂で行われ、私は按手を受けました。実は、自分が仕えている教会で准允・按手共に受けるというのは珍しいことです。いずれの時も、当日、120名もの人々がこの会堂に集いました。それまで、いくたびも無牧を経験し、教勢も落ちていたこの教会に、ひとときとはいえ、入りきれないくらい人々が集いました。神の憐れみが注がれた出来事であったと言えます。今日は新たに任職された執事の任職式がのちほど行われます。牧師、伝道師、長老、執事、それぞれに役割は異なりますが、それぞれに神によって立てられた者です。牧師も長老も執事もそれぞれに立てられるにあたって、テストであったり選挙であったり推薦であったりといったプロセスがあります。そのプロセスは人間が決めて人間の思いによって進められているように感じるかもしれません。もちろん、そこに人間の思惑やさまざまな事情というものはあります。そういったものがまったくないなんてことは逆にないのです。しかし、神に立てられるということは、そのような人間の思惑や事情を越えた出来事なのです。そのことを私たちはしっかりわきまえて教会生活を行わなくてはなりません。人間の思惑や事情というものを越えて、私たちの信仰や教会には神の力が働くのです。そこに信仰の命があるからです。逆に信仰の命がなければ、人間の思いだけですべてが進んでいき、個人の信仰も、信仰共同体である教会も壊れていくのです。 

 今日の聖書箇所には偽預言者、偽教師という言葉が出てきます。神の言葉を歪めて伝えるのが偽預言者であり、神の真理を偽って語るのが偽教師です。この偽預言者や偽教師は、当然、神から立てられた者でも、神から遣わされた者でもありません。旧約聖書の時代、繰り返し偽預言者が現れました。神に遣わされた本当の預言者は、イザヤにしてもエレミヤにしても、神へ立ち帰るように人々に語りました。神を軽んじていた人々に対して警告を送ったのです。それに対して、偽預言者は、人びとにおもねった言葉を語りました。人々が聞きたい言葉を語ったのです。「大丈夫だ、神はあなたたちを救ってくださる。イスラエルは滅びたりしない」「あなたたちは今のままでいい、神は愛の深い方だ、イスラエルはこれからも繁栄する」そういう言葉を語ったのです。一方で、「このままでは神の裁きが下る、国が亡びるぞ」と、神から遣わされた預言者たちは声をあげました。しかし、神から遣わされた預言者たちがどれほど声をあげても、人々は聞きませんでした。信仰の命を失った者たちは、自分の聞きたい言葉を聞きたいのです。神の言葉ではなく、自分の耳に心地よい言葉を聞きたいのです。それはひととき心地よく響いても命はなく、死へと、滅びへと人々を向かわせる言葉です。 

 そしてまた新約聖書の時代、ペトロやパウロたちの時代に偽教師は現れたのです。たとえば彼らは「律法を守らなくてはいけない」「割礼を受けなくてはいけない」と語りました。これらは、一見、宗教的でまじめな言葉のように聞こえます。しかし、キリストが完全に成し遂げてくださった救いの業を軽んじ、人間の行いによって救いを勝ち取らなくてはならないという教えであり、福音を根っこから否定する言葉です。そのようなことを語る偽りの教師たちが教会の中に入り込んで来たのです。また特にこのペトロの手紙Ⅱの時代はグノーシスという人間の知恵を重んじる異端が入り込んで来ていました。しかし、いずれにしても、旧約の時代の偽預言者たちは、国を破滅へと向かわせました。それに対して、新約時代の偽教師は、教会の中に対立を生じさせたかもしれませんが、旧約時代の偽預言者より、さほど害は大きくないと思われるでしょうか?そうではありません。偽教師も偽預言者も、神の救い、神の命から人間を引き離す存在です。せっかく神が命へと導いてくださっているのに、偽預言者や偽教師は人間を死へ導くのです。 

 いま、アドベントを私たちは迎えています。世の中もクリスマスモードのこの時期、教会でも、クリスマスにふさわしく、天使やマリアや羊飼いたちの話をしたら、クリスマスを待ち望む喜びが増し加わるように思います。正直、今週と来週の聖書箇所は、まったくクリスマスらしくない箇所のように思えるかもしれません。 

 でも、皆さんに考えていただきたいのです。キリストは何のために来てくださったのか?いうまでもなく、皆さんに、救いを、命を与えるために来られたのです。私たちが罪による滅びではなく、信仰によって永遠の命を得ることができるように救い主が来られた、それがクリスマスでした。飼い葉桶に寝かされた赤ん坊は、布にくるまれていました。それは死者をくるむ布を暗示していました。つまり生まれたばかりの赤ん坊は、死の陰を帯びて飼い葉桶に眠っていたのです。キリストは死ぬためにお生まれになったからです。もちろん私たちの日々も肉体の死に向かって進んでいます。私たちもいつか死にます。しかし、キリストが死を帯びて、死者を包む布にくるまって、この世界に来られたということはまったく違う意味を持っています。キリストはご自身の死をもって、すべての人間に命をお与えになるために来られたからです。その命は福音を信じることによって与えられます。福音は命を与えるのです。しかし、福音ならざるものは命を与えないのです。宗教的に立派な生き方をしても、人に親切にしても、身を粉にして誰かのために働いたとしても、そこには命がないのです。そしてまた信仰の命のないところに、愛はないのです。 

 主イエスの時代、立派な宗教家であったファリサイ派が目の前にいる腕の動かない人や中風の人への憐れみよりも、安息日の規則を優先したように、命のない信仰は、愛のない形式的な教条主義になります。本来の安息日は神から人間に与えられた平安であったはずなのに、宗教的に生きようとしていた人々は、むしろ神の愛から離れていったのです。 

 今日の聖書箇所で、ペトロは、偽預言者や偽教師への批判をしています。偽教師は、現代の教会にも入り込んできます。ペトロの言葉を読みますと「みだらな楽しみ」とか「嘘偽り」という言葉があり、いかに偽教師がよこしまな者であるかが強調されています。しかし、実際に偽教師というのは、偽教師の顔をして入り込んでくるのではないのです。柔和で親切で謙遜そうな態度で入り込んでくるのです。おそらく本人にもまったく悪気はないのです。むしろ本人は信仰的な思いに満ちてすらいるのです。そして彼らは聖書の言葉を語ります。愛や福音という言葉を語るのです。十字架の犠牲だって語ります。ですから多くの場合、すぐには判別できないのです。一つの手立てとしては、教理的な基礎をしっかりともっておくということがあります。愛や十字架を語りながら、偽教師の言葉は、突き詰めると教理的に破たんしているからです。偽教師は、三位一体や復活をきちんと理解していないということが往々にしてあります。 

 ただ、理屈で彼らを論破しようと思っても難しいところがあります。理屈と理屈で対抗しても不毛になることが多いのです。信仰の本質は聖霊によって与えられる真理に支えられているからです。2000年前に降誕されたキリストが神であること、処女懐胎や肉体の復活などという非科学的な事柄を理屈で語ろうと思っても困難です。そこは信仰的な事項だからです。人間の理性ではとらえられない事項だからです。 

 では私たちは偽教師に対してなすすべがないのでしょうか。そうではありません。私たち自身の信仰の命を十分に養っていくことによって、悪しき教え、歪んだ信仰姿勢に対抗することができます。ウィルスや細菌に対して特効薬がなくても、人間の側のもともとの基礎体力や免疫力が十分にあれば撃退できるように、私たちは自らの信仰の健やかさが養われているとき、偽教師に引きずられたりしなくなります。その養いは、信仰の命を与えてくださる神ご自身がなさってくださることです。その神への信頼に固く立つことが大事です。神を信頼し「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈り続けることが必要です。私たち自身の信仰が健やかであれば、偽教師がどれほどフレンドリーに近づいて来ても、それに教理的に対抗できなくても、なんらかの違和感を感じ取ることができます。表面的なあたたかさ、和やかさの奥にある、自己中心性や傲慢さを感じとることができます。 

 もちろん無理に感じ取る必要はありません。私たちはひたすら神に信頼して、自らの信仰の命を養っていただきます。信仰の命の養いの源は礼拝です。御言葉の礼拝につながっているとき、信仰は豊かに養われます。み言葉を聞くことはお勉強ではありません。聖霊によって今日の私自身に与えられる命の糧としていただくのです。悔い改めと恵みを与えられるのが命の言葉です。新しく生きようという思いをもって礼拝の場からそれぞれの生活の場へと戻るのです。そして、共に御言葉を聞き、共に聖餐に与る共同体にある時、私たちは物理的な交わりを越えて、まことの愛の交わりのなかに入れられます。今日、聖餐式を行いますが、そこで、十字架で死なれ、肉体をもって復活されたイエス・キリストと出会います。飼い葉桶に布をまかれて寝かされていた御子が、まさに私たちに命を与えてくださった、そのことを聖餐において覚えます。そして、御子を与えてくださった神の愛に触れます。人間が勝手に考える形式的な宗教ではない、まことの神の愛が示されます。まことの神の愛が示されたのがクリスマスの出来事です。その愛に触れましょう。聖餐において触れさせていただきましょう。その愛に触れる時、私たちの信仰の命は豊かに息づくのです。 



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