大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書12章27~43節

2019-07-11 08:40:08 | ヨハネによる福音書

2019年2月3日大阪東教会主日礼拝説教 「光あるうちに」

<心騒ぐ>

 「心騒ぐ」、主イエスは十字架の時を前にして心騒がせておられます。なぜ心を騒がせておられるのでしょうか?それは生身の人間としての体を持っておられる主イエスにとって、やはり十字架という刑罰は過酷なものだということもあるでしょう。神の御子でありながら、肉体を持った人間としてこの地上を歩まれた主イエスにとってその肉体の極限の苦しみを伴う十字架はけっして楽々と受け入れられるものではありませんでした。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」とおっしゃっています。楽々と受け入れられるものではない十字架ですが、しかし、まさにそのために主イエスは来られました。罪なきお方が十字架におかかりになるというのはもちろん主イエス以外にはできないことです。しかしその心騒がせるお姿に私たちはいくばくかの慰めも感じます。

 私たちはもちろん主イエスとは異なります。御子イエス・キリストの父なる神への従順さは私たちにはとうてい真似ができないものです。私たちはもっとちっぽけなことで神に従うべきか否かということを逡巡する者です。いつもいつも迷いなく神の御心に従えるわけではありません。主イエスが神のご計画の中で心騒がせておられるのは私たちの信仰の弱さとは次元の異なることです。しかしなお、父に従う心を持ちながら心騒がせておられる主イエスの姿に私たちは私たちとは次元が異なると言いながらも励まされる部分があるのではないでしょうか。神は、時に逡巡しながら、戸惑いながら一歩一歩神に従おうとする私たちたちの歩みをも豊かに見守ってくださるのではないかと思います。私たちの心や体の弱さ、そして信仰の弱さもよくよくご存知の上で、なお招いてくださるのが父なる神なのです。

 しかしまた一方で主イエスが心騒がせておられるのは特別なことでもあります。この場面はヨハネによる福音書のゲッセマネと言われます。他の福音書には十字架を前にした主イエスがゲッセマネの園で祈られることが書かれています。そのゲッセマネで主イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃいます。そしてまた「父よ、できることなら、この杯をわたしから取り去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」という祈りもなさいます。本日の聖書箇所の「父よ、わたしをこの時から救ってください」という言葉と通じます。ここで主イエスは単に死に怯えておられるのではありません。主イエスの死はそれまで人間が経験しなかった死であり、神の裁きの死でした。父なる神と共に歩んでこられた主イエスが、決定的に神と断絶し、神の怒りをお受けになる死でした。それは人間の誰もが経験していない完全な死といえるものです。そしてまた滅びと言えるものです。

<天の声>

 さてその心騒がせておられる主イエスに天からの声がありました。「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」父なる神は主イエスの受肉において、そしてまた主イエスのかずかずの奇跡、つまりしるしにおいて栄光を現されました。そしてまた再び栄光を現されることを語られました。その栄光とは十字架にほかなりません。

 この天からの声はそばにいた群衆にははっきりと理解できる形では聞こえなかったようです。雷が鳴ったという者もおり、また、天使がこの人に語りかけたのだという人もいたとあります。なにか尋常ならざる音として多くの人は認識したようです。多くの人が聞いた尋常ならざる音と言うか声はその時にはその意味を理解する人はいなかったのです。それは今日の聖書箇所の後半で語られている人間のかたくなさのゆえ人々は理解できなかったといえます。しかし、この時点で人々が理解できなかったことであっても、神のなさった一つ一つのことが、やがて十字架と復活ののち、意味を持っていたことが人々に理解されるのです。キリストが歩まれた道に、そして神のご栄光が現された道に、ひとつひとつ丁寧にそのしるしが残されていったのです。弟子たちが、初代教会の人々が、そして2000年後の私たちがその意味を理解できるように神は備えてくださったのです。

<人の子は上げられる>

 十字架の出来事は人の子が上げられる出来事でありました。人の子、すなわち救い主メシアが十字架にかかる、ということです。今日の聖書箇所はその前の、ギリシア人がイエスに会いにくる場面からつながるものです。主イエスはその場面で「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られました。しかし人々はそのことがわかりませんでした。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。」そう人々は問いました。

そもそも「人の子」という言い方は、旧約聖書ではもともとは普通に人間という意味で使われていました。やがてその言葉はメシア的な特別な存在を示すものとなってきました。ここで群衆と主イエスの間に混乱が生じました。当時の、聖書を知っている人は、メシアと言うのは栄光を帯びてこられ、永遠に共にいてくださると考えていました。ですから主イエスのおっしゃる「上げられる」ということは到底メシアにはふさわしくないことでした。今日の聖書箇所の後半はイザヤ書の53章が引用されて、イザヤの預言したメシア到来について説明をされています。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか」これは、主イエスの時代に広く読まれていたギリシャ語訳の聖書からの翻訳なので、新共同訳聖書のヘブライ語から訳されたイザヤ書53章とは少し言葉が違います。いずれにせよ主イエスの十字架の出来事は旧約聖書の時から預言されていたことでした。そしてまた、なおそのことを人々が理解できないことも旧約聖書で預言されていたのです。イザヤ書53章は<苦難のしもべ>と呼ばれる救い主が来られることが預言されているのですがそれは十字架と復活ののちにならなければ理解されなかったのです。

 それにしてもユダヤの人々はずっと聖書を大事にして、学んできた人々であったのに、イザヤの言葉も良く良く知っていたはずなのに、なぜその預言の意味を理解できなかったのでしょうか。同じくイザヤ書の6章を引用して、神が人々の心をかたくなにされたことが40節から記されています。旧約聖書には、神が人間の心をかたくなにされたということが時々書かれています。たとえば出エジプト記にはエジプトの王ファラオの心をかたくなにされたと書かれていました。神がかたくなにされ、人間が心を開かないようにされたのだから人間が理解できなくても当然のように思えます。神が人間の心をかたくなにされ、メシアのことも主イエスの十字架のことも理解できないようにされていたのなら、人間の側としてはどうしようもないように感じます。しかし、神が人間の心をかたくなにされる、というのは、むしろ人間の罪があまりにも深くて、それゆえに神のなさることを人間が理解できないとき、いったん神は忍耐をなさるということを示しています。罪深い人間に理解の及ばないことを、理解の及ばないままになさって、しかるべきときまで神は忍耐をなさるということです。

 ところで、教会には子供のころから教会に通っていた人もいれば、私のように中年になってから教会に招かれる人間もいます。洗礼を受けた後、ときどき思いました。なぜもっと早く神と共に歩む人生を始められなかったのか、と。もっと若いころに神を知っていたら、主イエスと共に歩んでいたら人生は変わっていただろうと感じました。なぜ神はもっと早く私を導かれなかったのかと残念に思いました。しかし、当然ながら神は一人一人にもっとも良い時に信仰へと招かれます。私ももしもっと早い時期に教会に来るチャンスがあったとしても、その時は、まだ心がかたくなであったのではないかと思うのです。罪や救いということが良くわからなかったと思います。それは実際に自分の罪が深かったからで、その状態はまさに神がかたくなにされていたとようにも見えることだったと思います。

 しかしそのようなかたくなな者のために主イエスは十字架にかかられました。前の聖書では地に落ちる一粒の麦のように主イエスは死ぬ、そして多くの実りを結ぶために死ぬとおっしゃっていました。今日の聖書箇所では「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっています。十字架の出来事には、地に落ちるという下方向の向きと、上げられるという上に向く方向があります。矛盾するようですが、十字架には両方の側面があるのです。主イエスは神の裁きの前で死に下られました。罪人として下へと向かわれました。それは私たちを上に引き寄せるためでした。かたくなで罪に滅びるはずの私たちを神の栄光の「上」へと引き上げるために十字架に上げられました。

<光あるうちに>

 「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」

 ヨハネによる福音書では1章からキリストは光として描かれていました。救い主は罪の闇に沈む人間を照らす光です。救い主であるイエス・キリストは永遠の存在です。アルファでありオメガ、とこしえにおられるお方です。しかしここでは「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」とおっしゃっています。これは十字架を前にした主イエスが、この地上で自分が人々の間にあるのは「いましばらく」であるという側面と、私たちが信じるということにおいて残されている時間が「いましばらく」である側面があります。

 わたしたちが信じるということにおいて残されている時間は「いましばらく」なのだということです。それは信仰告白はまだいいやと思っておられる未信徒の方にだけ語られていることではありません。明日はどうなるかわからないこの世界で、もちろん信仰告白は早くなさった方がいいです。しかしまた、すでに信仰を持っていると思っている人間にとっても「光はいましばらく」なのです。罪の暗闇はやってくるのです。暗闇の力に追いつかれてしまうのです。ですから絶えず光なる神であるキリストと歩まねばなりません。闇の覆われ道に迷うことがないように。

 そしてまたさらなる闇が来ます。それは神がこの世界をふたたび創造なさるときです。今は天におられる主イエス・キリストがふたたび来られるときです。それは裁きの時です。その時まで、あるいは自らの肉体の死の時まで、私たちは光なる神と共に歩みます。それは教会に繋がって歩むということです。光なる神が建てられ光なる神がおられる教会に繋がって歩むとき、私たちは闇に追いつかれません。教会はキリストが復活ののち天に昇られ、そして再び来られるときまでの間、この地上にあるものです。今日は大阪東教会の創立記念礼拝です。1882年2月5日、奇跡のように教会は立ち上がりました。先人たちが光のあるうちに海を渡り、この島国に教会を創立しました。まだキリスト教が耶蘇と言われ、毛嫌いされたり、恐ろしがられたりしていた明治の初期に宣教を進めた人々がありました。この国の人々を、大阪の地の人々を光の子とするために教会は建てられましt。創立記念といってもなにか特別なことをするわけではありません。ただ教会の光の源であるキリストを覚えます。すべての人を自分のもとへ引き寄せようとされているイエス・キリストの願いとしてこの教会が21世紀にあることを覚えます。大阪東教会は小さな群れです。文化財になるような立派な会堂があるわけでもありません。しかしなお光の子とされた者の集いです。昔も今も、なおこの地上にあってキリストの光を放っています。その光の内を私たちは歩みます。暗闇ではなくキリストの光の中を歩みます。光の内にあって、私たちは行くべきところを知らされています。父なる神のおられる上へと私たちは歩んでいきます。

 

                                             



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