2019年1月20日 大阪東教会主日礼拝説教 「信仰は止まらない」吉浦玲子
<香油の香りでいっぱいになった>
過ぎ越し祭の六日前のことでした。
ヨハネによる福音書では主イエスは過ぎ越し祭の始まる前に逮捕されています。ですから今日の聖書箇所は主イエスが十字架におかかりになる一週間ほどまえのことだと考えて良いでしょう。ヨハネによる福音書では11章のラザロの復活をもってイエス様のこの地上での宣教活動は終わります。12章からは十字架への歩みと十字架を前にしたイエス様の説教が記されています。その流れを踏まえます時、今日の聖書箇所は、イエス様の十字架の出来事へのプロローグとも言えます。
生き返ったラザロ、そしてその姉妹であるマリアとマルタが住むベタニアはエルサレムに近い町でした。以前にもお話ししたように、それはイエス様にとって危険なところであることを指していました。主イエスの命を狙う権力者たちがエルサレムにはいるからです。しかし、主イエスはご自身の十字架の時が近づいたことをご存知でした。ですから敢えて危険なベタニアに行かれたのです。そこはもともと主イエスにとって、心を休めることのできるところでした。親しいラザロ、マリア、マルタと心置きなく過ごせるところでした。父なる神のご計画である十字架が迫っていることを知っておられた主イエスは、親しいラザロたちとの別れの思いもあって向かわれたのかもしれません。
しかしおそらく、そのベタニアでの滞在は、表面上はいつものようであったと思われます。いつものように主イエスのために夕食が準備され、マルタはかいがいしく給仕をしていたでしょう。生き返ったラザロを交え、弟子たちとのいつもながらの歓談がなされていたでしょう。
そのいつもの和やかな場、ひょっとしたら生き返ったラザロもいましたから、普段以上になにか喜ばしいような雰囲気もあったかもしれない場面が、突然、異常事態に見舞われます。マルタの姉妹のマリアが突然、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラももってきて主イエスの足に塗ったというのです。1リトラというと約300グラムです。
香水がアルコールににおいの成分が溶かされたものであるのにたいし、香油は名前の通りオイルに溶かされたものです。香油は香水よりにおいが変化せず、香りの持続時間も長いそうです。香水でもほんの1滴でもかなりの匂いがします。香油でもそうとうな匂いでしょう。そもそも香油は死体に塗って匂いを抑えるために使われたりするものでもありました。このナルドと言われる香油はことにそのような場面で使われる種類のものであったようです。強い独特の香りがあったのではないでしょうか。それを香水瓶ひと瓶ほども一気にマリアは使ったのです。
家は香油の香りでいっぱいになったとあります。これは良い香りでいっぱいになったというより、おそらく香りで息苦しいような状態だと思われます。ナルドの香油を再現して販売しているネットサイトもありますが、実際のところは古典的な香料で、正確にはどういう香りかわかりません。しかし、香水でもそうですが、もともとがいい香りのものであったとしても大量にぶちまけたら、かなり匂いが充満して気持ち悪いような異様な状態になると考えられます。香油を塗られた主イエスご自身もその匂いがかなりの時間取れなかったのではないかと思います。
<とんでもない無駄遣い>
マリアの行ったことは、非常識極まりないことでした。弟子のひとりのイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったとありますが、これはある意味とてもまっとうなことです。イスカリオテのユダはのちに主イエスを裏切ることになりますから、ここで悪役的な記述をされていますが、他の福音書の香油注ぎの記事を見ると、マリアに対して憤慨したのは「弟子たち」と記されていて、ユダ一人だけではなかったのです。そもそも三百デナリオンは1デナリオンが当時の労働者の一日の賃金ですから、だいたい労働者の年収分の金額です。年収分の価値のあるものをマリアはぶちまけたのです。貧しい人に施すのではなくても、たとえば主イエスたちのために三百デナリオン分のなにか価値あるものを買ってお捧げするなら、まだ人々は納得できたでしょう。
しかし、マリアの行いは、奉仕の心の表れである、とよく言われます。マリは今自分にできる精いっぱいのことを主イエスにしたのだと言われます。「ナルドの香油」というのは讃美歌にも歌われています。またナルド献金というような献金もあります。今、自分にできることで奉仕をしましょう。できる限りの献身をしましょう、そのような勧めとしてとらえられるのがナルドの香油です。もちろんナルドの香油にはそういう側面もあります。
しかしまた話が戻ってしまいますが、香油をぶちまけることがマリアにとってほんとうにできる限りの奉仕だったのでしょうか?主イエスはこうおっしゃいます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」この言葉から主イエスがマリアの行いを肯定しておられることが分かります。マリアの行いは人間の普通の価値観からはただの無駄遣いとしか見えません。しかし、主イエスはそうは考えられませんでした。そしてまた、それはわたしたちの人生における私たちの行いに対しても同様です。その価値をお決めになるのは神なのです。立派な福祉活動をした、たくさんの困った人々を助けた、目に見える形での行いももちろん立派で大切なことです。しかし、その行いの価値は、実際のところは神がお決めになるのです。
神がお決めになるということであるならば、人間には判断しかねることもあるということです。マリアの行いのように人間には無駄遣いとしか思えないようなことも神からは称賛されるということです。そもそも私たちは神のなさること、お考えになることを理解することはできません。神が私たち人間を救われる、そのこと自体が想像を絶することです。私たちは救われるべくして神に救われているのではありません。当然の権利として、私たちは神に罪赦され救われているのではありません。神の愛という、とてつもない常識破りのことのゆえに私たちは赦され救われているのです。神はただおやさしくて、私たちを赦してくださったのではありません。犠牲を払われたのです。わたしたちを救うための神の犠牲は三百デナリオンの香油どころの話ではありません。神の御子が十字架にかかって死なれるという、とてつもない犠牲が払われたのです。神ご自身が理屈に合わない常識外れの犠牲を払われたのです。その常識外れの愛を人間に注がれる神の御子がマリアの行いを良しとされました。
私たちはマリアのように香油をぶちまけるようなことはおそらくしないでしょう。しかし、私たちの小さな行い、人から見たら、つまらないということであっても、あるいは世間的にはたいしたことではないということであっても、神の御心にかなうことであれば神は良しとおっしゃってくださるのです。逆に言えば、ある時は、人からは非難されても、常識外れと思われても、神の御心に従うことであれば行うのです。その行いを自分自身に対しても他者に対しても、止めてはいけないのです。
<死の香りをまとわれた主イエス>
そしてもうひとつ今日の聖書箇所で注目したいのが、主イエスが「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」という言葉です。最初に申し上げましたように、今日の聖書箇所は、十字架へと向かう福音書の流れの中で、十字架のプロローグとなる場面です。この場面には主イエスの死の影がさしているのです。マリアがぶちまけた香油は死体に塗るためにも使われたとさきほど申し上げました。マリアが主イエスの十字架をどのくらい理解していたかはわかりません。しかしある程度、主イエスが死を覚悟なさっていることはマリアは感じていたのではないでしょうか。そしてラザロの復活においてマリは主イエスが来るべきメシア、救い主であることを信じたのです。マリアはラザロの死に打ちひしがれていました。涙にくれていました。死の力のまえでなすすべもなく、打ち砕かれていたのです。そのマリアの目の前でラザロが生き返りました。その蘇りの場面でマリアの姉妹のマルタは、墓の石を取りのけよとおっしゃった主イエスに「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。そうです。墓の中には死のにおいが充満しているはずでした。肉体が滅んでいく残酷な現実である死の香りが満ち満ちているはずでした。しかし、ラザロは生き返りました。ですから、墓の中には本来あるべき死の香りはなかったのです。
今日の聖書箇所では、死体に塗ることにも用いられる香油が主イエスに注がれました。ラザロの墓に中になかった死の香りを、主イエスご自身がまとわれました。マリアはラザロが死んだときにも塗らなかった香油をとっておいて主イエスに注いだのです。マリアがどういう意図でラザロの遺体にはこの香油を使わず取って置いたのかはわかりません。ひょっとしたらユダのいうように高価な香油は売って有益なことに使うつもりだったのかもしれません。しかし今や、その香油は主イエスを死の香りで包むものとして用いられました。この香りはなかなか取れなかったであろうと前に申しました。体を洗ったとしてもすぐにはなかなか取れなかったのではないかと思います。しかしそのことのゆえに、主イエスの十字架への道のりを際立たせることになりました。
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」主イエスは去って行かれるのです。主イエスの宣教活動の期間は三年半くらいだったといわれます。共に語り、共に歩んだ三年半の歳月が終わるのです。先週、1月17日は阪神淡路大震災の24回目の記念日でした。いつも一緒にいたはずの人があの日を境に突然一緒にいることができなくなった、そのような深い悲しみを24年たった今も抱えておられる方々がたくさんおられます。阪神淡路大震災から24年間、多くの自然災害がありました。災害被害規模の大小に関わらず、一人一人にとって、いつもいっしょにいた人を失った悲しみは深いものです。昨晩いっしょに晩御飯を食べた人が翌朝にはもういない。朝ご飯を家族で一緒に食べて元気に出て行った女の子がブロック塀の下敷きになって亡くなってしまう。そのような残酷な死を、主イエスは自ら、このときまとわれました。
それはわたしたちのためです。私たちの現実には、残酷な死があります。しかし、その死で終わりではない永遠の命のために、救いのために主イエスは自ら死の香りをまとわれました。ラザロを復活させたお方、命も死も支配されるお方が、いまや自ら死の香りをまとって、十字架へと受難へとあゆみはじめられました。私たちがまとうべき死の香りをイエス・キリストご自身がまとってくださいました。ですから私たちは死の香りではなく、命のただなかに生きていきます。もちろんこの世界にはさまざまなことが起きます。明日はどのようになるのかまったく分かりません。今日共にいた人と明日出会えるかそれは分かりません。ですから今日できることを今日出会う人とできる限りのことをするのです。私たちができる限りのことをした、そのことを主イエスは、ただ主イエスだけは良く良くわかってくださいます。ですから安心して今日を精いっぱい生きていきます。
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