注:今日は比較的真面目な話です。
14日に将棋フェスティバルin長野・権堂にボランティアに行ってまいりました。やはり、ながの東急将棋まつりより規模はだいぶ小さくなりましたが、入場者はそこそこのものがあり、将棋をオフラインで指したい人は多いんだなあ、と再認識させられました。
会場には長野市出身の棋士、田中悠一四段も来場されており、数分お話をすることができました。彼は本当にナイスガイで、感心させられました。
帰りの電車の中で、将棋世界(という月刊将棋情報誌があるのです)を読んでいると、若手棋士像として次のような表現がありました。
「いまの若手棋士は、おしなべて、このタイプ(注:遠征しても将棋しか考えておらず、観光など眼中にないタイプ)がそろっている。それでいて、話をすると、偏屈でもなければ、暗いわけでもない。いうなれば、"好青年"ばかりで、なんとも不思議な集団である。」
まさにここに書かれているとおりの人が田中四段でした。
実のことを書くと、将棋指す人というのは、昔からプロもアマも比較的暗くて社交的でない人(あるいは社交的に見せて自分の世界に閉じこもっている人)が多いというのが、私の経験から感じるところでした。だから、私は「将棋指す」ということを大声で言いたくないというのが正直なところでしたし、支部にも入会しなかったのです。
これは私の仮説ですが、将棋指す人というのは、非常に屈折しやすい(笑)。なぜなら、負けた時の衝撃がほかのゲームと比べても大きいのですよ。柔道やボクシングのように体格やリーチ差を言い訳にできない。麻雀のような運のせいにもできない。囲碁のようにコミのせいにもできない(笑)。言い訳の要素が少なくて、「負けたのは実力」というのが顕著に出てしまうゲームなのですよね。世の中いろいろ厳しいですが、将棋ほど立ち直り、前を向くのにエネルギーのいることはそんなにないと思います。だから、将棋やる人は暗いとまわりに受け取られる、コミュニケーションがとりづらい人が多いというのが、私の長年の経験則からくる印象です。
でも、僕たちより下の世代のプロは、比較的社交的な人が多いようです。それは、プロ棋士の数が多くなりすぎて、ただ将棋指して勝ち負け競うだけでは生きていけない世界になったからなのかもしれません。プロの人数が多くなってくると、ただ、勝った、負けた、でお金をもらうことにどれだけの意味があるのかということになってきます。本当に強くて、感動を与えられる将棋を指せる人(トップ30人くらい)はトーナメントプロとして矜持も自負もあるでしょうからいいでしょうが、それ以外の棋士はある程度、将棋の普及をしていかないとおまんまの食い上げになってしまう可能性があります。そうなると、若手は必死に将棋も勉強したうえで、向き不向きはともかく一般の人たちと交流を持たないと仕事にならないし生きていけないわけです。冒頭の若手像というのはいわば当然の帰結であり、今世紀に棋士になった人たちの多くはそういう感覚を持っているのではないでしょうか。
こんなことを偉そうに書いていますが、かく言う私も基本的に他人と交わるのは苦手です。ほんとの意味でそれに気づいたのが社会人になってからなので、どうしようもなかったのですが(笑)。社会人になって、初めて、「みんなが自分の味方になってくれるわけではない」ということに気付いたのです。それまでは性善説で生きてきたのですが(箱入り息子だったもので(笑))現在は性悪説とまではいかなくとも性善説を全肯定することはできなくなりました。皆様にはそうは見えないかもしれませんが、できるだけそう見せないようにしてきたのと、仕事が人と交わらざるを得なかったので、なんとかうまくやり過ごしている状況なんですよ。
本来的には「性善説」「性悪説」という2分法は正確ではなく、自分の心の中、腹の内を的確に表現できる人とできない人(コミュニケーション能力のある人とない人)がいるわけです。私は、仕事ができるとか、人間性があるとかいうのは、極論してしまえばコミュニケーション能力の有無だと思うんですよね。
例えば仕事で言えば、すべてのことができる人はいないし、すべてで劣っている人もいない。でも、それをどのように表現するかで「仕事できる人」と「仕事できない人」に分けられるというのが私の基本的な考え方です。「表現しない(口や顔に出さない)」と決めて、それをやり抜くのであれば、逆に立派なコミュニケーション力だと思います。例えば頑固一徹笑わない職人とか。そして、一番いけないのは、「中途半端に表現し、中途半端に表現しない」ことだと思っています。でも、世の中は中途半端な人が一番多い(笑)。私も含めてですが。
論点が拡散してしまいましたが、結論は「今の将棋指しはコミュニケーション能力に優れたうえ、人間性もいい人が多い」ということでよろしいでしょうか?
14日に将棋フェスティバルin長野・権堂にボランティアに行ってまいりました。やはり、ながの東急将棋まつりより規模はだいぶ小さくなりましたが、入場者はそこそこのものがあり、将棋をオフラインで指したい人は多いんだなあ、と再認識させられました。
会場には長野市出身の棋士、田中悠一四段も来場されており、数分お話をすることができました。彼は本当にナイスガイで、感心させられました。
帰りの電車の中で、将棋世界(という月刊将棋情報誌があるのです)を読んでいると、若手棋士像として次のような表現がありました。
「いまの若手棋士は、おしなべて、このタイプ(注:遠征しても将棋しか考えておらず、観光など眼中にないタイプ)がそろっている。それでいて、話をすると、偏屈でもなければ、暗いわけでもない。いうなれば、"好青年"ばかりで、なんとも不思議な集団である。」
まさにここに書かれているとおりの人が田中四段でした。
実のことを書くと、将棋指す人というのは、昔からプロもアマも比較的暗くて社交的でない人(あるいは社交的に見せて自分の世界に閉じこもっている人)が多いというのが、私の経験から感じるところでした。だから、私は「将棋指す」ということを大声で言いたくないというのが正直なところでしたし、支部にも入会しなかったのです。
これは私の仮説ですが、将棋指す人というのは、非常に屈折しやすい(笑)。なぜなら、負けた時の衝撃がほかのゲームと比べても大きいのですよ。柔道やボクシングのように体格やリーチ差を言い訳にできない。麻雀のような運のせいにもできない。囲碁のようにコミのせいにもできない(笑)。言い訳の要素が少なくて、「負けたのは実力」というのが顕著に出てしまうゲームなのですよね。世の中いろいろ厳しいですが、将棋ほど立ち直り、前を向くのにエネルギーのいることはそんなにないと思います。だから、将棋やる人は暗いとまわりに受け取られる、コミュニケーションがとりづらい人が多いというのが、私の長年の経験則からくる印象です。
でも、僕たちより下の世代のプロは、比較的社交的な人が多いようです。それは、プロ棋士の数が多くなりすぎて、ただ将棋指して勝ち負け競うだけでは生きていけない世界になったからなのかもしれません。プロの人数が多くなってくると、ただ、勝った、負けた、でお金をもらうことにどれだけの意味があるのかということになってきます。本当に強くて、感動を与えられる将棋を指せる人(トップ30人くらい)はトーナメントプロとして矜持も自負もあるでしょうからいいでしょうが、それ以外の棋士はある程度、将棋の普及をしていかないとおまんまの食い上げになってしまう可能性があります。そうなると、若手は必死に将棋も勉強したうえで、向き不向きはともかく一般の人たちと交流を持たないと仕事にならないし生きていけないわけです。冒頭の若手像というのはいわば当然の帰結であり、今世紀に棋士になった人たちの多くはそういう感覚を持っているのではないでしょうか。
こんなことを偉そうに書いていますが、かく言う私も基本的に他人と交わるのは苦手です。ほんとの意味でそれに気づいたのが社会人になってからなので、どうしようもなかったのですが(笑)。社会人になって、初めて、「みんなが自分の味方になってくれるわけではない」ということに気付いたのです。それまでは性善説で生きてきたのですが(箱入り息子だったもので(笑))現在は性悪説とまではいかなくとも性善説を全肯定することはできなくなりました。皆様にはそうは見えないかもしれませんが、できるだけそう見せないようにしてきたのと、仕事が人と交わらざるを得なかったので、なんとかうまくやり過ごしている状況なんですよ。
本来的には「性善説」「性悪説」という2分法は正確ではなく、自分の心の中、腹の内を的確に表現できる人とできない人(コミュニケーション能力のある人とない人)がいるわけです。私は、仕事ができるとか、人間性があるとかいうのは、極論してしまえばコミュニケーション能力の有無だと思うんですよね。
例えば仕事で言えば、すべてのことができる人はいないし、すべてで劣っている人もいない。でも、それをどのように表現するかで「仕事できる人」と「仕事できない人」に分けられるというのが私の基本的な考え方です。「表現しない(口や顔に出さない)」と決めて、それをやり抜くのであれば、逆に立派なコミュニケーション力だと思います。例えば頑固一徹笑わない職人とか。そして、一番いけないのは、「中途半端に表現し、中途半端に表現しない」ことだと思っています。でも、世の中は中途半端な人が一番多い(笑)。私も含めてですが。
論点が拡散してしまいましたが、結論は「今の将棋指しはコミュニケーション能力に優れたうえ、人間性もいい人が多い」ということでよろしいでしょうか?
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