おじいちゃんが呆けたとか、頑固だったとかすぐ言ってしまうので、おじいちゃんのいいところも書こう。
義父は九州に本社のある新聞社の記者だった。人付き合いは嫌いだったが、ちょっと変わったところがあるので目だったのだろう。義母とは恋愛結婚だったらしい。
昭和19年だかに結婚したようだ。
しかし母一人子一人だった義父は、実母にべったりで、義母の入る隙間もなく、義母は百年の恋もさめた・・・という状態だったらしい。でも二人の間には3人の息子ができ、うちの主人は末っ子の三男である。祖母にも父にも母にもかわいがられたみたいだった。
主人が5歳くらいの頃、もう義父と義母は一緒に住むこともなく、義父は祖母といつも一緒に転勤していたようだ。
あの頃水俣病のことが話題になり、義父はそれを記事にして告発する立場だったの
で、「俺は水俣病のMといわれた」と
まだ頭が確かな頃、義父はよく誇りを持って喋っていた。
義父は電話が好きだったので、私はしょっちゅう呼び出された。ある日すぐ来いというので行ってみると、義父はあのアパートで古い水俣病関係の記事が見つかったと
私に見せるのであった。見せると、もう帰っていいと追われる。
愛想のない、すごいマイペースな性格だった。
新聞が好きで、もう読めなくなったら終わりだといっていた。20年前くらいは
投稿マニアで、朝日の読者欄によく投稿していたみたいである。採用されたこともあったようだ。
亡くなる3年前くらいから、パーキンソン病が進んで、前立腺肥大で尿も出なくなってしまったから、カテーテルをつけて、ベッドと車椅子。亡くなる半年前くらいからは足も曲がって、車椅子にのるのも苦しくなり、ベッドのみとなったと思う。
好きな新聞を読めなくなってから、3年は過ごしたこととなる。
亡くなったのは2002年(平成14年)12月5日夜中、ちょうど次男の入試の日であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/35/72a206b9ae717ccc93584cbe94819b30.jpg)
写真はヒメシャラですよね。近所に咲いていました。
義父は九州に本社のある新聞社の記者だった。人付き合いは嫌いだったが、ちょっと変わったところがあるので目だったのだろう。義母とは恋愛結婚だったらしい。
昭和19年だかに結婚したようだ。
しかし母一人子一人だった義父は、実母にべったりで、義母の入る隙間もなく、義母は百年の恋もさめた・・・という状態だったらしい。でも二人の間には3人の息子ができ、うちの主人は末っ子の三男である。祖母にも父にも母にもかわいがられたみたいだった。
主人が5歳くらいの頃、もう義父と義母は一緒に住むこともなく、義父は祖母といつも一緒に転勤していたようだ。
あの頃水俣病のことが話題になり、義父はそれを記事にして告発する立場だったの
で、「俺は水俣病のMといわれた」と
まだ頭が確かな頃、義父はよく誇りを持って喋っていた。
義父は電話が好きだったので、私はしょっちゅう呼び出された。ある日すぐ来いというので行ってみると、義父はあのアパートで古い水俣病関係の記事が見つかったと
私に見せるのであった。見せると、もう帰っていいと追われる。
愛想のない、すごいマイペースな性格だった。
新聞が好きで、もう読めなくなったら終わりだといっていた。20年前くらいは
投稿マニアで、朝日の読者欄によく投稿していたみたいである。採用されたこともあったようだ。
亡くなる3年前くらいから、パーキンソン病が進んで、前立腺肥大で尿も出なくなってしまったから、カテーテルをつけて、ベッドと車椅子。亡くなる半年前くらいからは足も曲がって、車椅子にのるのも苦しくなり、ベッドのみとなったと思う。
好きな新聞を読めなくなってから、3年は過ごしたこととなる。
亡くなったのは2002年(平成14年)12月5日夜中、ちょうど次男の入試の日であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/35/72a206b9ae717ccc93584cbe94819b30.jpg)
写真はヒメシャラですよね。近所に咲いていました。
ごめんなさい…決して悪い意味じゃなくて、そういう苦労を感じさせない人なんですね。
おじいちゃん自身も大変だったかもしれませんが、それをひまりんさんが支えて来られたのがよく分かりますよ。
写真のヒメシャラ? とても優しげな花ですね。