ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

私も書いておこう

2006-06-15 18:58:06 | 家族のこと
隣のS駅までの私の好きな田んぼ道の続くところに、実は主人の父が住んでいたアパートがある。その家はまだ残っていて、今はほかの人が住んでいるのは、洗濯物がだされていることでわかる。

主人の父は4年前に亡くなった。一緒に暮らすことはなかったが、夫が面倒を見るからということで、私たちがここへ越したときに、同じ町内に越してきたわけだ。
このアパートは2件目だ。3年くらい住んだだろうか。

義父は少し変わった人であった。それは母一人子一人で溺愛されて育ったせいと思われる。義母と離婚はしなかったものの、仲が悪く、主人たち子どもとも一緒に暮らすことも少なく、実母(義母のお姑さん)とずっといっしょに暮らしていた。
その義父の母(主人の祖母)が亡くなってからは、しばらくは長男親子と共に暮らしていたが、長男の奥さんと折り合いが悪く、一人暮らしとなった。
私たちが結婚した年である。
次男夫婦は義母と暮らしたので、お父さんは他に頼るところもなく、何となく三男である主人に頼っていたと言える。
身体が悪くなり、病院、施設、病院と場所をかえ、駅二つ向こうの病院で亡くなった。享年85歳であった。
他人には冷たい嫁と映ったかもしれないが、私は私なりの努力で、義父に接した。
でも義父が亡くなったときは、至らぬ自分を嘆く気持ちがあり、涙が止まらなかった。主人は私の努力を認めてくれ、苦しいときには力になってくれた。
父は花など好きではなかった。好きだったのは、新聞だった。地方の新聞記者だったので、呆けるまでは新聞を離さなかった。

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2 コメント

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同じだ。。。 (pochiko)
2006-06-16 21:03:41
私はばぁちゃんの面倒を看るにかこつけて、じいちゃんの面倒を看たくなかった。

やっぱり ちょっと大きな農家の長男に生まれて、我がまま一杯に育てられたようで、晩年は腹の立つ事ばっかり。

それでも、ばぁちゃんが元気なうちはばぁちゃんが面倒を看ていたが、一度として「ありがとう」だとか「すまないが…」という言葉は聞いたことがなかった。

ばぁちゃんが脳梗塞で倒れてからは、孫である子供達もあまり話することがなく、しだいに痴呆へと進んでいきました。

もっと声をかけてあげれば良かったと思うけど、亡くなってからじゃ~遅いもんね。

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Unknown (ひまりん)
2006-06-16 21:58:05
そうですか。pochikoさんのおじぃちゃんもやはりそうだったんですか。うちのおじいちゃんもずいぶんなことを言った後でも、私に謝るなんてことは一度もなかったです。あのおじいちゃんは特殊だと思っていましたが・・
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