北京より帰任してもう何日?

4年3ヶ月間の北京赴任から日本に帰ってきて…

ジャパンカップ(G1)

2004-11-27 17:22:55 | 競馬
 明日はジャパンカップ(G1)、今年で24回目になる。競馬に夢中だったころ、住まいが南武線沿線にあり東京競馬場の最寄り駅府中本町まで近かったので、よく出かけた。ジャパンカップも2、3度見に行った。
 明日のメモリアルレースは、東京8Rでトウカイテイオーメモリアル。トウカイテイオーは、一般に1年ぶりの有馬記念を勝利したレースが印象に残っているが、私には東京競馬場で直に見たダービーとジャパンカップが印象に残っている。
 3歳時(当時の数え方では4歳)には無敵のテイオーも4歳時は苦しんでいた。騎手が岡部に乗り換わった春の産經大阪杯では「地の果てまで伸びるよう」に圧勝したものの、天皇賞(春)では「天まで駆けてゆきそうな」メジロマックイーンの5着に負けてしまう。秋になり天皇賞(秋)でも1番人気を背負いながら、レッツゴーターキンの7着。

 92年11月29日、私は会社の部行事で軽い運動をした後に1年上の先輩と東京競馬場にやってきた。ジャパンカップは観客に外国人が目立つ日だ。また、パドックにも調教師やオーナーなど関係者が入って普段の雰囲気とは違う。
 日本の馬の名前は最大9文字までと決められていたので、ジャパンカップに出る外国馬の単勝や複勝の馬券は馬名が途中で切れていたと思う。
 ジャパンカップでは5番人気まで落ちていた。私も最初は買ってなかったが、テレビかラジオの解説者が返し馬のトウカイテイオーを見て、「調子が良い」と言っていたので、また並んで2番人気だったナチュラリズムとの組み合わせも含めて買い足した。大した額ではなかった。
 レースは、4コーナーで好位に着けていたトウカイテイオーが他馬を差して1着でゴールイン。2着はナチュラリズム、馬連は21番人気の48.9倍。にもかかわらず場内では、「岡部コール」が鳴り響いた。前年のアイネスフウジンから始まった「コール」を岡部騎手が受けるのは初めてで、勝利騎手インタビューでも(コールは)良いと応えていた。

 帰りに先輩と二人、居酒屋で祝杯をあげた。

 この後何事も無ければ、岡部騎手が乗り続けるはずであったが、有馬記念の前週の土曜日のレースで降着になり翌週以降のレースが騎乗停止になった。このレース、テレビで見ていた。「降着」と聞いた時、来週の有馬記念は誰が乗るだろうと思った。有馬記念は田原騎手が乗ることになった。最初の有馬記念は、中山競馬場へ出かけた。結果は、スタートから出遅れて11着。翌年は、奇跡の1着。でも、私は仕事の関係で大阪に転勤していたため、中山競馬場に行けなかった。
 
 時計を戻して、トウカイテイオーがダービーに勝ったとき、私は東京競馬場にいた。ウィナーズサークルの近くでレースを見ていた。翌日のサンケイスポーツの1面、花束を持った安田騎手の後ろに多数の観客の中に私が写っていた。

 私の記憶に残る1頭である。

 ところで、JRAにアクセスが出来ない。明日の投票が出来るか心配だ。

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