サニテラの仲間達

退職を機に、自分は残りの人生で何をしたいのか心の声に耳をかたむけ山小屋生活を楽しみ、世界を歩く夢を実現したいと考えてます

第二の人生 19歳の時のアルバイト先

2023-03-09 16:56:59 | 旅行
今日、気になっていた事がわかってすっきりしました。

私が大学生のころの夏休みにお金が無いにも関わらず、南の島でひと夏を過ごしたく、当時は関東では新島、西日本では与論島が大学生の夏のメッカだったので、私も片道分の旅費と確か2日分の宿泊代をもって与論島に渡りました。当時はネットも無いので、勿論アルバイトはそこに行っての一か八かの飛び込みでした。でも、運よく到着後の次の日に海岸で知り合いになった大阪出身の1年上の大学生が、既に島で住み込みでバイトしていて、彼が知っていた民宿を紹介受けその日から雇ってもらいました。当時のアルバイト条件は肌の色も日にやけて小麦色になって現地人みたいになっておく必要があったのですが、まだ島に来たばかりの肌の色も白いままでしたが、3食付きで1日の日当が1200円か1500円でした。




仕事はハードで朝早くからおばちゃんたちと朝ごはんの準備、食事が終わったら車で宿泊者の希望する浜まで送迎。帰ってきたら大浴場の掃除。お昼ご飯をおばちゃんたちと食べて1時間ほど昼寝の時間。昼寝するかその時間を浜に行くか。各民宿でのバイトも浜に集まって来るので仲間と泳いだり日焼けしたり。午後はごみ捨てに行ったり食料の買い出しに行ったり宿泊者からの連絡で浜に迎えに行ったり。夕方は夕食のお手伝い。夜は初日のお客さんを歓迎するイベント与論献奉をやって一応終了。でも与論銀座のバーや今でいうクラブでお客さんと合流して遊んだりもしますが次の日も朝早いので途中で抜けて帰ってきます。寝床は部屋が空いていればそこに寝ますが満室の場合は食堂で。仲良くなる男性組のお客さんとは彼らの島での武勇伝を聞いたり一緒に部屋に入れてもらって酒を飲んだり。お客さんを帰りのフェリーに送りに行って最後は海に飛び込んで、とてもきつい仕事でしたが楽しい思い出を作ってくれた民宿の親父さんとその一族の皆さん。自分が帰る時はフェリーの上で、岸壁から民宿の皆さん全員から送ってもらい感極まって大泣きしてしまいました。「また会いに来ます」と言いながらもう40年以上。帰ってからも20数年ほどは年賀状のやり取りもしていましたが、親父さんも、お袋さんも亡くなりその後自然に年賀のやり取りがなくなり20年近くもそのままでした。ひと夏の沢山の楽しい思い出をくれた民宿のその後がどうなったのか?気になっていました。ネットで民宿名を入れて検索しても出てこないので、もう廃業しているとは思っていましたが、息子さんや娘さんが継いでいて欲しいとも思っていました。何にも手掛かりを見つけられずにいました。




ところが、フェイスブックで繋がっている大学時代の後輩が、仕事で与論島にしばらく滞在すると言うではありませんか。早速、彼に連絡を入れて事情を説明して、地元の人だったら昔の民宿名でも知っていると思うから、時間があったら聞いてもらえないだろうかとお願いしていました。そして、今日なんと、その場所に行って写真を送ってきてくれました。既に大浴場や宿泊棟や食堂は解体されているようでしたが、道から敷地内に入るエントランスがそのもので、表札名も同じ苗字。お子さんかお孫さんの誰かが住んでおられると思います。また、その民宿は2009年に廃業したとの話も聞いてくれました。私が働いた年から30年近くも続いていたと思って感傷的になりました。




長く、その後が気になっていたので、仕事の合間に調べてくれた後輩に感謝です。絶対に次に会った時には一杯おごらせてもらおうと思います。

PS.海外への飛行機のチケットの効率的な購入方法については、様々な検索してみましたが、途中でのストップオーバーを利用する買い方するほうが、東南アジアの場合では割高になってしまうことが分かりました。つまり目的地別に個別購入のほうが数千円ですが安いし、自由も利くのでよさそうです。
自分に鞭を打ちながら、さあ出れるかな?





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