皆さん、こんにちは。
↑シフト頑張ってる高橋(1)
↑こちらも同じくシフト中の岡田(1)。カメラ向けたらピースしてくれました🤗ありがとう〜〜
授業は夏タームに入り、毎日0〜2コマずつしかなくて日中はガースカ寝ている笠松(2)です。
なのに金曜日だけはフルコマ。何やねんこの時間割は!!!!
、という愚痴はさておいて。今回もやります徒然音楽日記。
とはいえ、新年度初なので、「何やねんそれ。」という方も少なくないでしょう。
徒然音楽日記とは、応吹と兼団しながら(ガチの)吹奏楽を現在進行形で続けている笠松(2)が、演奏会や普段の練習その他で感じたことを、私の思うがままに綴っていくだけのブログです。
一応、過去に書いた日記のURLも貼っておきます。こちらから。
その1→アンサンブルといふもの。
その2→「聴く」という勉強。
番外編→「表現力」を磨く。
前置きが長くなってしまいました。失礼。
それでは今回の本題へ。
私が所属する北大吹奏楽団では今、いわば吹奏楽の甲子園とも称される一大行事、「吹奏楽コンクール」に向けて、日々練習に励んでいます。
その練習の中で、こんなことをよく言われます。
「もっと周りの人の音を聴いて」
「隣の先輩の音に寄せよう」
「音色がバラバラだよ、もっとお互い聴き合って」
端的に言えば「他の人と音を合わせて」ということです。
ふと、疑問に思いました。「それってどういうこと?」と。
これについて、最近の私の考えが1つ。それは
合わせることだけがすべてじゃない
ということ。
例えば、人間は1人ひとり全然違う声色を持っていますよね。当然のことです。
しかし、この世に生きるすべての人間が全く同じ声色を持っていたとしたら…?それはそれで不気味な感じがしてきませんか?
音楽にも、同じことが言えると思うんです。
同じ楽器だからといって、全く同じ音が鳴るとは限らない。プレイヤーは各々バラバラの音色を持っていることが当たり前なのであって、それをむやみに揃えようとする必要は無い。全プレイヤーが全く同じ音しか出さないのなら、音楽としてはつまらないものになるのではないか。と。
そりゃあ、「魂のルフラン」の冒頭がバカでかかったり、「残酷な天使のテーゼ」で弱々しい音だったりするのはダメで(※昨年のブラチアの話です)、「そこ◯◯の音しか聞こえないよ!他の人もっと出して!」とかなるのは当然だと思うし、そもそもの話として各々の楽器に「理想の音」は存在する。
そういうことじゃなくて、いつ何時も他の人に「合わせる」ことだけを考えようとするのは、ちょっと違うのかなぁ、と。いくら、複数人で創り上げる音楽だとしても。
※ちなみにこういうとき、「お互いの音を寄せる」という表現をよく使います。ピッタリ合わせるのではなく、似通わせる、というニュアンスでしょうか。
応吹の中に限ったって同じことです。私と倉持さん(4)のサックスの音も、高橋(1)と春田さん(3)のトロンボーンの音も、岡田(1)と中村さん(いたら5)のスネアドラムの音も、全然違うのです。
しかし、わざわざ一概に上の年目の音、あるいは上手い人の音(音色)に合わせる必要はないんじゃないか。「◯◯みたいな音を目指す」と「◯◯の音に合わせる」は、ちょっと違うんじゃないか。
むしろ、団員のバラバラな音が混ざり合うことで、より聴かせられる(=相手の心に届く)音楽・応援が出来るのではないか。
だからこそ、毎代毎代、全然違う個性的な"応吹サウンド"がつくられてきたのではないか。
音楽と真剣に向き合う中で、最近になってそう感じました。
今回の学び、応吹の何かに活かせていけたら良いなと思い、ブログにさせてもらいました。
音楽って追求しても追求しても際限がない…奥が深いなぁ…と思う今日この頃です。
そんな感じで、徒然音楽日記その3、これでおわりにします。
このシリーズ、その幾つまで続くかな。また何か新しい発見があったら、ブログにしますね。
それでは、また次のブログでお会いしましょう!!
【おまけ】
6/2(金)〜4(日)にかけて行われた第65回北大祭に1人で行ってきました("1人で")。
↑シフト頑張ってる高橋(1)
映ってないけど、この時は早坂(援団1)も同じ店で同時にシフト中でした。
カメラを構えた私のことを、早坂が「参観日に来てるお父さんみたい!」って言ってたのはここだけの話。
↑こちらも同じくシフト中の岡田(1)。カメラ向けたらピースしてくれました🤗ありがとう〜〜
今年の1年目も、楡陵祭よく頑張りました!👏
(P.S. 写真は無いけど、ちゃんと最終日のストームにも参加してきましたよ🥳🥳)
※トプ画にした画像は、所属する北大吹奏楽団の公式YouTubeの一節から拝借致しました。
文責:最近めちゃくちゃ高頻度で曜日を間違えまくる笠松(2)