想定外の新型肺炎で、日本じゅうが大騒ぎになっているが、天気は素晴らしい青空の晴天だ。3月に入り、暖かい春がおとづれたことを伝えている朝であったが、小学校から高校までの早めの春休みに入ったのはウイルスのせいか。想定外と言えば、東北を襲った地震と津波の大災害であったろう。このうちいまでも復興していない原発事故であろうが、その様子をつい最近、テレビのNHKの再生録画(88時間の福島第一原子発電所の記録)を見たが、この恐ろしさを認識した。私も、当時地震後様子をテレビでみていたが、その後に起こった津波で、原子力発電所の電源が失われたとのことを知ったが、格納容器の厚さが20数センチあり、破壊することはないとのアメリカの学者の見解が出ているのをインターネットで知り、安心していたのであったが、そうではなかったのだ。当時の現場でのなままなしい状況の88時間であるが、吉田所長の置かれた立場は、刻々と迫る状況の変化で、どうすればよいかの判断の瀬戸際であったのがよくわかる。第一号機では、既に、メルトダウンが起こっていて、格納容器の圧力が増してきてそのままでは、爆発することになる状態で、その圧力を下げる手段としては、バルブを開けて、容器ないの放射能を含むガスを水で冷やして、煙突から放出する(^ベント)の手段が必要で、その操作には、放射能の影響を受けながらの操作を行う人を選ぶことであったあった。これが旨く行った後に、水素爆発が起こり、バッテリー車からの電源供給もできなくなり、刻々と時間がたっていくのであるが、その後、第3号機、と第4号機ても同様に、水素爆発が起こり、同様にベントをおこなっている。しかし、それ以上に、第2号機で起こったことが一番恐ろしいことになったのだ。水素爆発はなかったが、やはり、メルトダウンを起こしており、格納容器の圧力が限界に達してきて、ベントを行おうとしたが、このガスを抜くためのバブルが開かないと言う事故がおこってしまった。このままでは、容器が爆発してしまい、若し、爆発したら、その放射能の影響で関東地方まで含めた東日本には住めないことになる状況に至ったのだ。この最終手段は、格納容器の上部にある蓋を開けて、ガスを放出する以外はないとの結論から、それを実施する作業者が選ばれ、上部の蓋を開けに行くのであったが、その場所の放射能の値は、15分もその場所に居られないほどで作業を中止している。この状態では、容器の爆発がないことを神に祈ること以外になかったのだ。しかし、救われたのは、格納容器の上部の割れ目からガスが放出され爆発が起こらなかったことである。しかし、今でも、この福島の周辺地域は、住めないほどの放射能の汚染がつづいているのだ。もし、格納容器が爆発していたらと思うと、東京に住んでいた私も含めて、東日本の人達はどうしたであろうか。このことから、今後、全ての世界の原子力発電所では、このような事故が起こらないとは決して言えないと思う。電源をコントロールするケーブルが切断されただけで、恐ろしいことになることを知る必要がある。