筑波山大御堂は、完成は2020年3月の完成を目指して新築工事中です。
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大本山護国寺別院筑波山大御堂
関東八州を一望に見渡す霊峰筑波山は、今から千二百有余年前の柏武天皇の延暦元年(782年)、
徳一上人が東国に下って筑波に錫を留め、荒廃していた山頂二社を再建し、筑波山大権現と称し、
中復の地に堂宇を建立して、千手観世音菩薩を安置、知足院中禅寺と号した。
弘仁年間(810~824年)弘法大師空海上人によって真言密教の道場が開かれたと伝えられる。
その後、江戸時代に至り、知足院宥俊の代、御朱印五百石を得て復典し、中興の第一世となる。
続いて徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉、豊山長谷寺に留学、
学を修めて慶長19年(1614年)知足院の住職に転じて第二世となる。
徳川家の思籠を極めて厚くした。
降光は、徳川五代将軍綱吉の信頼を一身に集め、
元禄元年神田橋畔に大伽藍を建立して、寺名を護持院と改称した。
しかし、この護持院は享保2年(1717年)火災に遇い焼失した。
その後、幕命により護持院は護国寺の境内に移され、
本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護寺院の住織が謹国寺を兼務することになる。
筑波山には院代を置き寺務を執行させた。
この時代より筑波山大御堂と護国寺とのかかわりが始まる。
〔明治の廃仏毀釈〕
やがて徳川幕府が崩懐し、明治維新を迎え、統治機構が一変し、護持院は廃寺となる。
廃仏毀釈の嵐が知足院中禅寺を襲ったのは、明治5年(1871年)年8月27日のことである。
大御堂、十一面観音堂など華美を尽した堂塔は打ちこわされ、仏像、仏具経巻等は境内に積まれ焼却された。
本尊千手観世音は、尊崇する信者によって手厚く護られ、仮堂に移されたが、寺籍なき状態が続いていた。
昭和5年(1930年)、護国寺持仏堂として維時することになる。
その仮堂も昭和13年7月3日の豪雨による大災地変に遭遇、濁流と共に一瞬にして埋没する。
幸いにして、ご本尊は難をのがれ、損傷なく助かり、応急的な処置をして民家に安置されることとなる。
昭和15年(1940年)、佐々木教純貫首代に再建の認可を受け、護国寺と筑波町の方々と協議の上、
筑波神社の左側の地、風光明媚なる位置に大御堂の絶好なる敷地と定め、
本堂、庫裡、山門、鐘楼堂を建立する計両が立案された。
しかし太平洋戦争激化の状況となり、再建の夢はたたれる結果となる。
時移り昭和34年、岡本教海貫首代、再び大御堂再建の計画が立てられ、
筑波町の有志の方々の協賛を得て、藤代町の民家(総欅造り)を買受け、
千手襯世音を安置するお堂に改修、昭和36年(1961年)に完成した。
阪東三十三観音霊場第二十五番札所として、
多くの巡札考に信仰されている霊験あらたかな千干観音さまであります。
〔上掲のリーフレットの説明文から抜粋〕
〔参考〕
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