ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

小田城主・八田知家の策略にはまり没落した多気城

2020-05-26 | 茨城県南 歴史と風俗

                         つくば市北条の城山(多気城跡)  

 城山(じょうやま
  もとは多気山(たけやま)という。戦国時代に城が築かれて以来、城山とよばれる。現在は龍ヶ崎市正覚山正信寺の寺社林として管理されている。
  平安末期に北条を本拠とした多気氏の祖は平継幹(これもと)で、平安中期に平将門の乱を平定した平貞盛の弟、繁盛の子である。
  なお、貞盛の一族は、恩賞で得た三重県の領地で「伊勢平氏」となり、後世に平清盛が出ることとなる。 


                 北条マップ(城山付近)  



北条の多気城跡  
 城山(じょうやま)と通称される多気山(たけやま、標高約129.4m)に築かれた山城の跡で、4つの曲輪があり、それらを堀や土塁が囲んでいる。
 その外側には大きな堀の跡があり、南には土橋の跡も見つかっている。
 4つの曲輪のうちⅠ〜Ⅲ曲輪は連なりあって多気山の山頂から中腹にかけて広がり、Ⅳ曲輪は少し離れて多気山と西隣の道場山との間にある。

 平安時代中期に常陸平氏の宗家である大掾の平維幹が常陸国筑波郡水守から多気の地に移り築いた城とする説がある。
 大規模な城郭遺構は戦国時代、特に永禄から慶長にかけて平安時代の城跡に大改修を施したものであろう、とされている。    


      村田修三編著「図説 中世城郭辞典 ① 第1巻」 株式会社人物往来社   
 

 現地は山林になっている。
 多気山では採石が行われていたため、城郭の南西部の地形は往時に比べ大きく変形している。  


 
  
  日向廃寺跡    

   日向廃寺跡 (ひゅうがはいじあと)
  平安末期の阿弥陀堂跡。
 本堂を中心に東西に翼郭が延びる形で礎石が並び、宇治の平等院鳳凰堂と同様で全国でも珍しい。

  多気氏の拠点であったと推測される。

 多気太郎義幹之墓 



 多気太郎五輪塔(たきたろうごりんとう) 

  裏堀を造った義幹は、その功績を称え「多気太郎さま」と親しまれて呼ばれる。
 非業の最期を供養するための五輪塔が、裏堀を見下ろす丘の上に立っている。
 かつては毎年8月7日に万燈会(まんとうえ)を行っていた。  



 〔碑文〕

 多気太郎義幹は桓武平氏の流れを汲み、桓武天皇の子葛原親王より数えて11代に当たる。
 3代高望王より平氏を称し、4代良望は常陸大掾に任ぜられ、平国香と名乗る。

 6代維幹は水守より多気城(現北条城山)に移り初代城主となるが、直系子孫は常陸常平氏の本家とされる。維幹より6代目の城主が多気太郎義幹である。
 名君の誉れ高く領民のため無量院裏池及び現在地を流れる通称裏堀を開削し、水利に多大の貢献を果たしている。 

 しかるに源頼朝の全国支配が進展するにつれ、義幹の支配下にある小田の地に八田知家が進出するにつれ、両者の確執が惹起、建久4年頼朝の富士巻狩りにかかわる曽我兄弟の討ち入りに関し、義幹は知家の讒にあい領地はただち没収され、身を駿河国に預けられ当地にて没した。

 没日は7月6日と15日の2説がある。
 遺臣等義幹の遺徳を偲び霊骸を迎えて当地に葬り以って英魂の安慰を奉り今日に至っている。 
 なお無量院は義幹の建立になり、のち時宗4代呑海和尚上人が当地を遊行のみぎり、無量院殿等阿弥陀佛の戒名を追贈している。


北条の街を流れる裏堀(うらぼり)     
 商店街通りの南に、裏堀と呼ばれる北条用水が流れている。
 現在は護岸工事が施され、幅が狭くなっている。かつては泳げるほどきれいで、堀幅も広かった。3㎞ほど北西の桜川から取水し、北条の水田を潤している。

 江戸時代の古文書によると、多気氏6代義幹(よしもと)が北条に用水がないのを嘆いていたので造ったと伝えている。しかし、1193(建久4)年、小田城の八田知家が、この用水を「戦の準備のために掘った」と源頼朝に訴えたため義幹は謀反の罪に問われ、領地没収の上、刑に処せられ、多気氏は亡ぶこととなる。





 無量院裏の池   

  
無量院裏から漆所方向へ登る道があったが、現在は草木が繁茂しているため登れない。 


  無量院本堂      

 無量院 
  鎌倉初期の創建とされ、義幹の位牌がある。
  本尊の阿弥陀如来像は、宋朝様式をもつ鎌倉中期の作である。  


 再建記念碑 


 (碑文) 

 そもそも無量院の濫觴をたずぬるに、当山は建久元(1190)年11月多気山城主常陸大掾多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京都を観して後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿院光明寺と号し、寺領一千貫を寄せ、以って報恩の城を致せるものなり。

 然るに、建久4年義幹公かって庶民のために図り給いし水利土木のことをもって、隣接の小田城主八田知家のために讒せられ(注、そしられ)て、身を岡部権守泰綱に預けられ、その領常陸六郡の地を馬場資幹に改付せらる。
 このとき再三身の公明を申し述べられしが、遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる。遺臣等、公の遺徳を偲び奉りて、零骸を迎えて、当山に葬り、もって霊魂を安慰し奉る。 

 越えて正中年中(1324~24)、当宗4代呑海和尚、当国御修行のみぎり、○(判読できず)光の前に現れ来り、得度し給うと。ここにおいて、旧恩の領民等相集いて公が英霊を慰めんがため、無量院殿等阿弥陀佛の法号を追贈し奉り、天台宗を時宗となし、千日の念仏をなすと。

 次いで嘉暦年中(1326~28)、当山を現今の地に遷し、なお義幹公生前崇敬し奉るところの天満大自在天神・稲荷尊・大弁財天・熊野権現を勧請して、以って当山の鎮守となし、かつ塔頭甘露院のほか末寺一寺を建立しその恩に報ゆと。
 然れば山門の勢観、四方の清景とともに栄えて、自ずより衆生摂取念仏通の霊場となれり。


 旧本堂
 再建発願 当山三十二世東国和尚  
 建立成就 当山三十三世察道和尚  
        享保11(1726)年2月29日


  当山五十一世敬道和尚の記録
       大正6(1917)年 茅葺本堂屋根を瓦葺きとす。
       昭和13(1938)年6月大豪雨 同年9月大台風より
       本堂を大破のため修復工事。 


  昭和40年代以後幾度か補修を加えしも老朽化の防止は困難と
  判断 平成12(2000)年10月、建立以来270余年の風雪に
  耐えし堂宇の再建を決議す。
  完成まで満4年の歳月を要せり。 


 新本堂 
   建立成就 当山五十三世別海和尚 
   平成16(2004)年11月6日落慶



石造多層塔 



 
この塔の正面下段には延文6(1361)年4月22日と刻まれている。

 中久木家の家伝によれば、中久木家は小田筑波守を祖とし、興国2(1341)年7代治久は足利尊氏の家臣高師冬と戦い、20年後小田一族の供養のため下大島の地にこの塔を建立した。

 下って16代氏治の時世に中久木家の姓を名乗ったが、天正初期小田城陥落に際し、中久木一族は小田氏と多賀氏に分かれて抗争したと伝えている。

 この塔は永く下大島の墓地にあったが、中久木家は祖先の墓として墓守を続けてきた。
 然るに昭和38年当時の当主常一郎氏が塔の大部分を当家の墓地に移転、このたび当主芳保氏の努力により当地を発掘し不足部分を補うとともに山内の威容を一段と整えんがため この地に再建したものである。
 多層塔の下にはこのときに収拾された多数の遺骨が安置されている。
 また左の層塔は同時に発掘されたものを再建したものである。  

   熊野神社   

 熊野神社 (くまのじんじゃ)  

  参道にある鳥居は、1663(寛永13)年と刻まれ、年号の分かるものでは県内最古級である。
  修験道の神社として室町時代よりあったとされる。
 急な階段を登りきった拝殿の後ろには巨石があり、その上の宝塔は岩より彫りあげたもので信仰の深さを伺うことができる。

  拝殿からは北条の町並みを一望できる。 
   
        長い石段   
  
     
       熊野神社本殿     
 
          
     熊野神社から北条の街方向を見る     

 

  〔関連文書〕
  筑波山麓 国指定史跡 「小田城跡」

 

 


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