珍味を有するガマガエル
北大路魯山人『蝦蟇を食べた話』1935(昭和10)年の作
蝦蟇を食べた話
山椒魚は手に入れるのが困難だが、反対にいくらでも手に入るもので、しかも、滅多に人の食わないもの、それでいて、相当の珍味を有するものと言えば、日本の蝦蟇《ひきがえる》だろう。
ひと頃、食用蛙というものが流行して、非常に美味いもののように言われたが、食用蛙などよりは蝦蟇の方が、よほど美味い。しかし、このことを知っている者は、案外少ないようである。
私がはじめて蝦蟇を食ったのは上海であった。ある料理屋に入ってみると、蛙の料理が特別に大きく書いて貼り出してあった。大田鶏と大書して貼り出してあったところをみると、中国でも蛙の料理は珍しい料理か、少なくとも呼びもの料理であったに違いない。さすが中国だけに面白い字を使う。田の中の鶏とはうまい表現である。
これは珍しいと思ったので、早速注文した。すると大丼に一杯持って来た。煮たもので薄葛がとろりとかけてあった。一体中国料理というやつは、いずれも大袈裟で量の多いものであるが、このときも御多分に洩れなかった。いくら美味くても、こんなには食えまいと思ったが、いざ食ってみると、非常に美味いので、とうとうみな平げてしまった。
それから、どんな蛙だろうと思って、みせてもらったが、日本の蝦蟇をやや小振りにしたくらいの大きさで、色は赤味がかっていた。いわゆるアカヒキという種類である。シュンは冬眠の時期であろう。私が食ったのは、五月で産卵後であったかと思うが、それでも非常に美味かった。
ところが、美味も美食も、意のない者には縁がないもので、中国に十年も住んでいるとか、またはたびたび中国を訪問したりしているが、いわゆる中国通にかぎって蛙を食わしていることを全く知らないものが多い。
蛙が美味いと私が話をすると、そういう連中が知らないものだから、びっくりして、「ほんとうか」などと不審がる。初めて上海へ行った新参者の私が、そういう古強者《ふるつわもの》の中国通たちを案内して、蛙料理を食わしてやると、いずれの面々もその美味に驚嘆した。
そんなわけで、私は日本の蝦蟇も相当美味いだろうと思っていた。いつか機会があったら食ってやろうと考えていたのである。しかし、なんと言っても、蝦蟇の皮膚は見るからに気持が悪いから、ちょっと手を下す気になれなかった。習慣の力というものは恐ろしいもので、こういうものは、やはり、なにかのきっかけがなければ食えないものである。
ある時、瀬戸から来た陶工が、瀬戸あたりでは蝦蟇などはほとんど常食のように食っている、誰でもそこらへ行って捕えて来ては食っている、という話をした。亀などもよく捕えて食うということだった。なるほど、あのあたりで土いじりをしている職人というものは、百姓みたいなものであるから、さもありなんと、私はこの話を心に留めていた。
それから瀬戸の赤津へ行った時、この話を持ち出して、「この辺ではみなよく蝦蟇を食うと聞いたが、ほんとうか」と、たずねてみた。すると、職人たちは、「そんな話は聞いたことがない」という答えで、どうも符節が合わない。
狐につままれたような具合であった。しかし、案外、蝦蟇を食うなどと言うことを恥ずかしがってでもいるのではないかと思われたので、あの辺では相当の物持であり、且つまた陶工の親分でもある加藤作助君に会って質《ただ》してみた。だが、この加藤君も、「そんな話もないことはないが、ほんとうに食いはしない」と言う。結局、真偽のほどが分らないので、蝦蟇を食う機会を得なかった。
一度こうと思ったものをウヤムヤにするということは、なんとなく気にかかってならぬものである。そこで京都伏見のある陶器工場へ行った時、ちょうどこの話の御本尊が来ていたので、また、その話を蒸し返してみた。
「君はみな食っていると言うが、聞いてみたら、誰も知らないと言ってたぜ」と言うと、「いや、そんなことはない。蝦蟇は美味いし、第一ただだし、みな捕って食っている」と、相変らず蝦蟇常食論を主張して止まない。どうも要領を得ないことおびただしい。
すると、その話を聞いていた宮永という陶器職人が、「なんのかのと言うが、蝦蟇は京都にだっている。伏見稲荷の池に行けば、確かにいるに決っている。どこの蝦蟇だって食えるんだから、それを捕って来たらどうです」と、動議を出した。なるほど、そう言われれば、そうに違いない。
そこで、「捕って来た者には、一匹一円で五匹まで買おう。どうだ、誰か捕ってくるものはないか」ということになった。この一円は、今の百円ぐらいの価値のある時代である。
「一匹一円なら、昼の休みに捕ろうじゃないか」と衆議一決して、みなでわあわあ言いながら、伏見稲荷の池へ出かけて行った。寒い日だった。私もついて行ってみたが、冬のことで、池の水がぐんと減っている。蝦蟇はこの池のふちの斜面に横穴を掘って、その奥に冬眠しているということであったが、みると、なるほど、減水した水面と池の縁とのちょうど中間のところに点々と穴がある。
確か中国の『随園食単』かなにかに、洞窟の蟾《ひきがえる》は美味であるとあったと思うが、私はこの穴を見て、「ハハア、これだな」と、思った。これまで洞窟という文字から、何か大きな岩穴のようなところにでもいる蝦蟇のことかと考えていたが、そうではなくて、やはり、冬眠中の穴にいる蝦蟇を指したものに違いない。
それはさておき、この穴がなかなか深く、蝦蟇はちょうど肩の辺まで腕を入れねば届かないような奥に眠っている。だから、池の縁の方からかがんで手を入れても、蝦蟇のところまでは届かない。どうしても、池の中に入ってやるほかはない。
そうなると、初めは元気なことを言って出掛けて来た職人たちも、「一円か二円か知らんが、いややなあ」などと弱音を吐く者が出て来た。
中には手を入れて、ぐにゃっとしたものに触れると、「ワッ」と声を挙げて、手を引っ込めてしまう者などもあって、大騒ぎだ。蝦蟇は眠っているとは言え、死んでいるわけではないから、ぐにゃぐにゃしているに違いない。
蝦蟇に違いないと誰もが信じているのだが、しかし、いよいよ引き出してみるまでは、果して蝦蟇なのやら、あるいは蛇なのやら分らない。それだけに気味が悪いとみえて、みななんとか言いながら、ウジウジしている。
そのうち、遂に誰か勇を鼓して、そのぐにゃりとしたものを引き出した。見ると、果して蝦蟇であった。それに勢いを得て、次々と引き出し、結局、予定通り五匹の蝦蟇を捕えることができた。
それから蝦蟇の常食論者に皮を剥いでもらい、身だけになったものを、ふつうのさかなのすき焼きでもやるように刻んで、ねぎといっしょに煮て、薄葛をかけた。これは、上海式をそのままやってみただけのことである。こうして晩餐に食ってみると、やはり美味い。肉はキメが細かく、シャキシャキしていて、かしわの抱き身などより美味い。ただし、どういうものか、少し苦味がある。
「この苦いのはどうも少しおかしいが……」と言って、例の常食論者に聞いてみたが、「知らない」と言う。
ともかく、苦いものに毒はないから、そのまま食ってしまった。その翌日も食って、二日ばかりで五匹食ってしまった。
その後も幾度か食ったが、やはり苦味があった。人の話では(うそかほんとかわからないが)、「調理する時、皮を剥いだ手で肉をいじると苦くなる。苦味は皮にあるので、皮から出る汁を肉に移さなければよいので、水の中で剥《は》いだらいいでしょう」ということであった。
苦いというのは一種のアク(灰汁)であろうと思うが、しかし、今度やるときには、それを注意して試みてみよう。
京橋の日本橋寄りのところに、震災後、蛇や蛙を専門に食わせる店ができたことがある。ずいぶんと妙なものばかり食わしたものだが、私もほかでは食えないから、ここで蛇やなにか変ったものをいろいろ食ってみた。大体調子は同じだが、中国の大田鶏に較べて、日本の蝦蟇のほうが美味い。食用蛙はやわらかいが、なにか繊維のないような感じで、味に含みがない。もちろん、味の軽いもので、鳥なら抱き身、さかななら肉のやわらかいものに較べられる。
中国で見たのは、アカヒキと言うのであろうが、日本では見たことがない。日本にもアカヒキと称するものは、いるそうである。自分は見たことはないが、手に入れば試食してみたいと思っている。さしずめ赤色田鶏とでも名付けたらよかろう。
北大路 魯山人『蝦蟇を食べた話』1935(昭和10)年
北大路 魯山人
1883(明治16)年3月23日~ 1959(昭和34)年12月21日、
日本の芸術家。本名は北大路 房次郎。晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
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