ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

つくばの人形の細工師、「からくり伊賀」の飯塚伊賀七

2014-05-28 | 茨城県南 歴史と風俗

       「ロボットの街つくば」エキスポセンター

「ロボットの街つくば」の原点
  「からくり伊賀」飯塚伊賀七
 がまの油売り口上に「さあさあ お立ちあい、ご用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。」で始まるガマの油売り口上。「手前ここに取り出したる これなるこの棗(なつめ)、この中には一寸八分唐子ゼンマイの人形が仕掛けてある。我が国に、人形の細工師 数多有りと雖も京都にては守随、大阪表にては竹田縫之助、近江の大じょう藤原の朝臣、この人たちを入れて上手名人はござりませぬけれども、手前のは、これ近江の津守細工じゃ。・・・・・・」と、京都の守随、大阪表の竹田縫之助、近江の大掾 藤原の朝臣の名がある。


 つくば市は「ロボットの街つくば」としてロボット技術の開発に取り組んでいるが、その原点は、守随や竹田縫之助らと並ぶ細工師であった「からくり伊賀」とよばれた飯塚伊賀七である。


飯塚伊賀七(いいづか いがしち)の生涯
 1762(宝暦12)年3月29日、常陸国筑波郡谷田部新町(現つくば市谷田部)の旧家に生まれた。

 谷田部は中世には小田氏の支配下にあり、谷田部城があった。近世になって熊本54万石の大名細川忠興の実弟、下野国茂木領主細川興元が大坂夏の陣の功により谷田部6,000石が加増され1万600石となり、1618(元和4)年 嫡子興昌は茂木から谷田部に移り、谷田部陣屋を設立した。

 飯塚家は城の大手門の傍にあり、代々名主を勤めていた。先祖は京都の儒学者山田衡算(1444年没)で、飯塚と改姓、明治初年まで寺子屋を経営、そろばんを教授していた。 

 伊賀七は飯塚家16代として出生、経済的には恵まれて育った。飯塚家は広い山林や田畑を有し、使用人もいたと考えられ、毎年小作米が蔵に収まりきらないほど納入されたというほどの裕福な家庭であった。幼少より工夫や発明に興味を示し、数理に明るかった。
 家産にゆとりがあり、科学への関心が高かったことが、後にたくさんの発明を生む素地となった。

 伊賀七は、関流の数学者が江戸から出張講義に訪れていたことや、谷田部藩医で蘭学を谷田部に導入した広瀬周伯・周度父子と親交があったことが、数学や蘭学の素養を得るきっかけとなったと推測される。

 青年時代は明和、安永、天明と、天災の続いた時期で、伊賀七も1784(天明4)年「飢饉」、1786(天明6)年「七月洪水」、1787(天明7)年「飢饉」と記している、いわゆる」「天明の大飢饉」の時代であった。

 1789(寛政元)年4月には谷田部で熱病が流行し、27歳の伊賀七と名主3名は八坂神社(牛頭天王宮)に7日7晩こもり、悪疫退散を祈願したところ、病は平癒していった。

 28才で名主(庄屋)に就いた伊賀七は優れた科学者、技術者であった。建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作したほか、飛行実験、地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせた。 

 一面先祖を崇拝し神仏に対しては深く信心していた。
のち「からくり伊賀」と云われるようになり、「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれた。そのため、からくり伊賀またはからくり伊賀七の異名を持つ。
 平成時代には「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び名も登場している。


 晩年は天保期にあって谷田部藩の財政は厳しいものであった。1833(天保4)年は冷夏であり、9月14日には強烈な暴風雨が関東地方を襲い、農作物は全滅し、家屋の多くが全半壊の被害を受けた。凶作を見越した伊賀七は打穀機を作り、五角堂(飯塚伊賀七の生家跡にある)内に設置した。


 そして1834年1月、現在のつくば市茎崎地域にあたる3村の百姓が年貢の引き下げを要求し逮捕されると、農民と藩の仲立ちを行なった。
 具体的には農民に対して強訴を思いとどまるように説得し、藩に対しては逮捕した農民の釈放を周辺村の代表として藩庁へ申し出た。

 1836(天保7)年も天保の大飢饉は続き、同年12月24日、満74歳で伊賀七は生涯を終えた。


伊賀七の発明品
 伊賀七が発明家としての才能が開花したのは40歳代後半である。
 彼は機械・建築・和算・地理学・暦学を修得し、奇抜な発明で人々を驚かせた。大型のそろばん、酒買い人形、茶くみ女、人力飛行機、農業機械、和時計などの発明品があり、エレキテルを作ったという言い伝えもある。

大型のそろばん
 縦34cm×横37cm、寛永通宝を珠にしたそろばん。1列に6個(上段1個、下段5個)珠があり、12列並んだものが9組でそろばん1面を成すので、寛永通宝の珠は合計648個ある。珠に寛永通宝を使用したのは、面積をとらないようにするためである。

 伊賀七は発明や設計に必要な計算をこのそろばんを使って行なったと考えられる。ある日、川に打ち込まれた杭(くい)が抜けなくて人々が困っていると伊賀七が通りかかり、そろばんを取り出して計算を始め、抜き方を指示したところ、たちまち杭が抜けた、という話もある。

酒買い人形〕
 伊賀七宅の斜め向かいにある酒屋へ酒を買いに行くからくりを伊賀七は発明したと言われ、現在でも谷田部の人に語り継がれている。この人形は伊賀七宅を出発するとガッタンガッタンと音を立てながら街道を渡り、酒屋前で停止、酒屋の主人が人形の持つ酒瓶に酒を入れ人形の向きを変え、酒瓶を持たせると、再び人形はガッタンガッタンと音を立てて帰って行ったという。


 酒瓶に酒を一定量以上入れないと動き出さないような仕掛けもあったとされ、酒屋は量をごまかすことはできなかった。なお、伊賀七宅から酒屋までの距離はおよそ2.8mである。 人形本体は残っていないが、酒買いに使われたとされる備前焼の酒瓶が残っている。

 酒瓶は人形本体にはめ込んで使用した。ほかにも「トウフ買い人形」もあり、右折を含む豆腐屋までの約100mの距離を豆腐を買いに行ったと言われている。伊賀七宅を訪問したら、からくり人形が出迎えたという逸話もある。 

〔茶くみ女(茶くみ人形)
 茶くみ女は、上述の酒買い人形やトウフ買い人形と同じ原理のからくり人形である。あらかじめ距離を計算して右左折も自在で、茶碗を乗せると自動で進み、茶碗をとると自動で止まるようになっていたようである。茶くみ女は客人に茶を出すのに使われたとのであろう。

 伊賀七が34歳の1796(寛政8)年、土佐国の細川頼直が『機訓蒙図彙』(からくりきんもうずい)という書物を著してそこで「茶運人形」というほぼ同じようなからくり人形を紹介しているなど、この時代は、からくり人形の登場する祭りが盛んになった時代であったから、実在したものと思われる。

人力飛行機〕
 伊賀七は人力で動く飛行機をも開発したと伝えられる。伝説によると、伊賀七は大きな鳥のような翼を作り、それを身に付けて屋根から飛び降りて試行錯誤を重ね、更には筑波山から谷田部までの約20kmを飛ぼうとして「飛行願」なるものを藩主に提出したという。
 しかし「人心を惑わす」、「殿様の頭上を飛ぶなどもってのほか」という理由で許可は下りず、実現することはなかった。

 筑波山が江戸の鬼門鎮護の地として神聖視されていたことや、筑波山から谷田部までの間には天領や旗本領、大名領が複雑に入り組んでおり、外様大名の谷田部藩主が許可を出すことは実質不可能だった。
 伊賀七の飛行機は羽を数枚重ねたもので、ペダルを足で踏むと羽ばたいて飛ぶことができたようである。この構造を活かして木製の自転車を作り、乗り回したという。

農業機械〕
 伊賀七は多数の農業機械を製作している。五角堂内には、1833(天保4)年作の打穀機が設置され、同時期の作と考えられる自動製粉・精米機の模型がある。自動製粉・精米機は、綱に吊るした重錘(じゅうすい)を歯車に巻き付け、その落下する力を歯車の回転に利用し、同時に製粉と精米を行なった。
 回転速度を規制する機構は時計と同じである。これにより、風車や水車の動力がなくても製粉・精米ができるようになった。

和時計〕
 朝夕に太鼓や鐘を自動で打って町の人に時を知らせ、飯塚家の門扉を自動で開閉させたと言われる大型の和時計。現在は谷田部郷土資料館と水戸市にある茨城県立歴史館に復元模型が展示されている。

地図〕 
 伊賀七は地理学にも通じ、「分間谷田部絵図」を残している。この絵図は伊賀七の遺品の中で最古の品であり、畳2畳分の大きさがあり、現代の地図にも劣らないほどの高精度を持っている。縮尺は1:6000。

 図中には、谷田部陣屋口南方右側に鉄砲場が描かれ、谷田部城下には内町、新町、ふどう町(不動町)、西町などの地名が記されている。作図は1788(天明8)2月で、天明の大飢饉後に谷田部藩からの依頼によって作図した。 

「ロボットの街つくば」の伊賀七 

 つくばの地に筑波研究学園都市が建設され、2009(平成21)年には「ロボットの街つくば」が提唱された。「ロボットの街つくば」の提言の中で伊賀七は、からくり=ロボットの開発者として、「ロボットの街つくば」の原点として紹介された。

 この取り組みは、少子高齢化社会、労働力不足や 介護福祉、環境問題、安全安心の生活分野へのロボット技術の適用が期待されることから、「生活支援ロボットの産業化」と「ロボットを活用した新しいまちづくりモデル」を目指して、「ロボットの街つくばプロジェクト」を開始、現在、第1ステージから第2ステージへ移行している。

〔第1ステージ: 2007年から2012年〕       

 実環境において決められたコースを自立走行することが課題
 ・移動ロボットの大規模公道実験つくばチャレンジ    2007年~  
 ・生活支援ロボット安全検証センターの誘致        2010年~
 ・つくばモビリティロボット実験特区            2011年~    
 ・つくば国際戦略総合特区 「生活支援ロボット実用化」  2011年~

〔第2ステージ: 2013年~〕  

 実環境において、人やものを見つける、または階段等のより複雑な環境を走行するなど、これまでより複雑な課題に取り組んでいる。

 そして2012(平成24)年には生誕250周年を迎え、つくばサイエンス・インフォメーションセンターにて「飯塚伊賀七生誕250周年記念展」が 開催された。

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