AKB48の旅

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「34thシングル選抜じゃんけん大会」についての思考実験

2013年09月20日 | AKB
残念ながら、すべてをリアルタイムでは見れなかったけど、それでも今年が初めてかな。じゃんけん大会を画面にかじりつくようにして見たのは。いやあ最高に面白かった。たかがじゃんけんが、こんなにワクワクハラハラドキドキになるとは。若くてかわいい女の子達が、それぞれの物語を刻んだ衣装とともに、自身の運命とガチで立ち向かう。張り詰めた緊張感が、その美しさを際立たせる。

そして、何と言っても驚きだったのが、松井Jさん。こんなことってあるんだろうか。生放送を通して伝わる、武道館を埋め尽くす濃密な空気感、メンバー達の息遣いや表情、身のこなしを見ても、あらゆる可能性を理詰めで考えてみても、これが八百長である可能性は限りなくゼロに近い。もとい、「ゼロに近い」と言っても、それは悪魔の証明を意識しての表現であり、レトリック的には、「可能性はゼロ」と言い切った方が良いんだろう。そう、これはまぎれもなくガチの結果。とすれば、この事実、松井Jさんがセンターという結果と、どう向き合えば良いのか。

今回だけならば偶然かも知れない。けれども内田眞由美、篠田麻里子、島崎遙香、松井珠理奈という結果だけを通して見れば、八百長を疑われても仕方がない。内田センターの時のミリオン割れが、これまた妙に説得的なデータになってる。けれども、こういう考え方は典型的な因果の逆転であり、方法論レベルでの誤りになってる。これが八百長でないのが明らかなのであれば、このような結果になったことには、何か気が付かれにくいメカニズムのようなものが働いた可能性はないか。

まず排除されなければならないのは、じゃんけんの出し方についての戦略とか心理学とかの視点。確かにそういうのはあるんだろうけど、AKBGの場合には、そういうのは誤差レベルのものにしかならないんじゃないか。メンバー各自が背負う物語と対戦相手との相互の関係性、そしてガチ勝負により醸成される濃密な物語空間が、桁違いのレベルで、じゃんけんの出し方に影響していた可能性はないか。

けれども、グーチョキパーそれ自体に、物理的な強制力とか勝敗を決する直接の関係性とかがあるわけではない。グーがチョキに勝ち、チョキがパーに勝ち、パーがグーに勝つというのは関係性の約束事であり、つまりは意味論の範疇にあることになる。物語もまた関係性である以上、ここに不可知のクロストークが発生していた可能性はないか。

別の視点では、AKBGという特異な組織体にあって、さらに武道館という舞台装置に垂れ込めた物語空間に押し込められるという特異の過剰ぶり。関係するファクターとしては,あり得ないほどに純化されており、そういう意味では極度に非現実的な局所世界が成立していたと見なせる。それは、ある種の実験装置のように機能した可能性はないか。

このような「実験系」が成立していたとして、それは僅かな差異、それこそ揺らぎのようなものを爆発的に増幅して実現させていたということはないか。その「揺らぎ」には、それこそ無限相互因果関係的に、この世のすべてが影響しており、そこから不連続点のように「運」が出現してくるのだとすれば、正にこの「実験装置」は、その「運」のあり得ない増幅装置として機能したんではないか。

「運」の良い悪いがあるのは事実。そして強運の人というのがいるというのも経験的事実。AKBGのメンバーは、たまたまかわいく生まれつき、10歳代にさしかかる時にたまたまAKBGが存在し、オーデイションの狭き門を突破しているわけで、それだけでも強運の持ち主と言えると思う。その中でさらに選抜に選ばれるとなると、並の強運ではないだろうことは想像に難くない。

今回のじゃんけん大会に参加した83人のうち、どうだろう、誤差レベルとは言え強運側にいたメンバーは、20人以上はいたんじゃないか。その中から、たまたま松井Jさんが引っかかった。とりわけ予備抽選の1番が効いたのかも知れない。そこで「増幅装置」に乗っかる形で、こういう結果に至った、そういう考え方はどうだろうか。