01)天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を「陵」。
02)その他の皇族である皇子や皇女を葬る所を「墓」。
03:皇族の墓である可能性があり、被葬者を特定せず宮内庁管理の墓所は「陵墓参考地」。
さらに分骨所、火葬塚、灰塚、髪歯爪を納めた塔や塚、本葬前に仮葬をした殯斂地も含めて陵墓と総称。
05)宮内庁が管理する陵墓総数は陵墓参考地を含め897。
06)陵は188、うち歴代天皇陵は112箇所。
07)陵墓の所在地は兆域の重複を差し引いても459箇所。北は山形、南は鹿児島まで1都2府30県に分布。
08)陵墓の60%以上が京都に所在。
09)全国の陵墓の総面積は約652万4000平方m。皇居の約6倍の広さに相当。
10)「陵」は「りょう」「みささぎ」(古くはみさざき)と読む。
歴代天皇陵の場所が特定された時期は?
11)歴代の天皇陵の場所が特定されたのは江戸時代。最初に治定と整備に取りかかったのは五代将軍徳川綱吉。
12)尊王攘夷思想が高まった幕末に大半の天皇陵が確定とされ、明治以降に宮内省、宮内庁に引き継がれた。
13)陵墓の位置や被葬者は『古事記』『日本書紀』『延喜式』などの文献や伝承を手掛かりに指定された。
14)新資料の発見などにより位置や被葬者を修正した例もあるが、天皇陵は1889年以降見直しはされていない。
15)陵墓は皇室用財産に指定される。文化財保護法の適用外とされ、公開や調査が厳しく制限されている。
16)陵墓を一括して管理しているのは宮内庁書陵部。
17:全国の陵墓は、多摩、桃山、月輪、畝傍、古市の5カ所の陵墓監区事務所が分割管理
18)陵墓は皇室の祖先のお墓として今も祭祀がとり行なわれている。
19)昔は陵墓に立ち入る際、背中に羽をつけ烏の恰好をするなど事前に儀式を行なう習わしがあったという。
20)日本には、大小合わせ15万〜20万の古墳が存在するといわれる。
21)そのうち前方後円墳は4700~5200基ともいわれる。
22)円墳と方墳を連結させた、上から見ると鍵穴のような形の前方後円墳は日本独特の墳形で、なぜこの形になったのかはいまだ謎。
23)その他に古墳の形の種類として、前方部を短くした帆立貝型墳、円形の円墳、四角形の方墳がある。
24)前方部と後円部の境目にある飛び出た部分は「造り出し」と呼び、祀りをした場所と考えられている。
25)大型の古墳にはその周囲に付随するように小型の古墳「陪塚(ばいちょう)」が築造されていることが多い。
26)初期の埴輪は円筒形や壺形が主流で、古墳の土壇を囲むように並べられ、墳丘装飾のほかに被葬者を外部から遮断する意味合いも持っていた。
27)棺が納められる石室は、古墳時代の中頃までは竪穴式、それ以降は横穴式が主流。
28)3世紀半から7世紀にかけ、古墳の築造が盛行した時代を古墳時代と呼ぶ。
29)「古墳」とは古墳時代の墓を指すもので、それ以前の弥生時代の墓は「墳丘墓」、それ以後の奈良時代の墓は「墳墓」など区別して呼ばれる。
30)奈良の纏向古墳群は前方後円墳発祥の地とみられる。
前方後円墳がつくられたのは600年ごろまで
31)纏向古墳群のある桜井市巻向地区は最古の神社といわれる大神神社の西に位置し、ヤマト王権が誕生した地ともいわれる。
32)纏向石塚古墳は3世紀初頭築造と推定され、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。被葬者は不明。
33)定型化した最初の前方後円墳とされる箸墓古墳も纏向古墳群に所在する。
34:箸墓古墳について宮内庁は孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲媛命墓「大市墓」に治定している。又は邪馬台国女王卑弥呼の墓説がある。
36:第1代神武天皇陵として治定される畝傍山東北陵は、橿原宮の跡とされる橿原神宮の北側に位置する円丘墳。明治天皇が最終決定。
37)以降初期4代の天皇の陵墓が畝傍山近辺に治定されている。
38)第9代開化天皇陵(春日率川坂上陵)は天皇陵として最初の前方後円墳となる。奈良市の繁華街にあり、ホテルの横が参道となっている。
39)全国的に広く分布していた前方後円墳は、600年頃には各地域で築造されなくなった。
40)第30代敏達天皇陵が最後の前方後円墳。
41)大化の改新後は「薄葬」という簡素な葬儀、御陵が基本となった。
42)平安遷都以後は天皇陵の築造の地も主に京洛に移った。平安~鎌倉時代は洛西に多く造られ、龍安寺には5人の天皇が葬られている。
43洛南の深草北稜は第89代後深草天皇に始まり北朝天皇2代を含めて107代後陽成天皇まで12人の陵からなり十二帝両とも呼ばれる。
44)江戸時代の天皇陵はほとんどが東山区泉涌寺の月輪陵などにまとめられている。
45:明治天皇陵は洛南の伏見桃山御陵。豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸跡でもある。陵は天智天皇陵を範とした上円下方墳を採用。
昭憲皇太后陵が隣接。
47)昭和天皇の陵は東京都八王子市にある武蔵野陵。一辺が27mの上円下方墳。
48:天武天皇・持統天皇は奈良県明日香村の野口王墓古墳(檜隈大内陵)に合葬されている。古墳は鎌倉時代に盗掘された記録があり、その内容が『日本書紀』に記された天武・持統両天皇の合葬陵とほぼ一致していたことから被葬者が確定された。
50)継体天皇陵として宮内庁が認定しているのは大田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)だが、学界では今城塚古墳が継体天皇陵というのが定説。
今城塚古墳は自由に立ち入れる唯一の天皇陵
51:今城塚古墳は宮内庁指定の陵墓及び参考地ではないため自由に立ち入ることができる唯一の天皇陵といえる。
2011年に歴史公園「いましろ大王の杜」として整備され、高さ11mの後円部に登ることもできる。隣接の資料館充実内容
53:第29代欽明天皇陵として飛鳥西部の梅山古墳が治定されるが、近くの五条野丸山古墳を真陵とする説も有力。五条野丸山古墳は全長318m、奈良県最大の前方後円墳。
55)第37代斉明天皇陵は越智崗上陵とされてきたが、近年明日香村の牽牛子塚古墳が八角墳と分かり、こちらが真の斉明天皇陵との見方が強まっている。
56)八角墳は天智陵、舒明陵、天武・持統陵など飛鳥時代の王墓にだけ認められたとされる特殊な墳型。
57:日本武尊の陵「白鳥陵」は、古市古墳群の軽里大塚古墳と、奈良県御所市の2カ所に治定されているが、終焉の地とされる伊勢国能褒野に葬られたともいわれ、ここには「墓」がある。
59)大阪府南河内郡太子町の磯長谷は敏達、用明、推古、孝徳の4陵の天皇陵があり「王家の谷」と呼ばれる。
60)聖徳太子の墓、叡福寺北古墳も王家の谷にある。直径55mの円墳で、鎌倉時代の記録によれば横穴式石室には三つの棺が納められ、太子と母、妻のものとされている。
61)最も小さい陵墓は1平方mにも満たない。
62)堺市は百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目指している。実現すれば大阪初の世界遺産。
63:百舌鳥・古市古墳群は、大阪の南部、堺市、羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがる巨大古墳群。
この2古墳群は4世紀後半~6世紀前半に200基超の古墳が築造され、現在でも89基の古墳が残っている。
65:墳丘長が200mを超える古墳は全国に37基あり、そのうち11基は百舌鳥・古市古墳群に存在。その他大阪+1,奈良20基、岡山2京都1、群馬1、宮崎1。
66:百舌鳥古墳群を代表する古墳にして日本最大の古墳が墳丘の長さ486mを誇る仁徳天皇陵。陵は5世紀前半から半ばにかけて築造されたと考えられている。
68:仁徳天皇陵はエジプトのクフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵と並ぶ「世界三大墳墓」のひとつとも称される。陵の平面積は47万8600平方mで甲子園球場が12個入る広さ。クフ王のピラミッドを上回る。
仁徳天皇陵はとにかく巨大
70:仁徳天皇陵の墳丘総土量は140万平方m。10tダンプカーで27万台分に相当。陵には2万個以上の埴輪、約537万個の葺石が置かれていたとされる。この古墳を造るには1日最大2000人が働いても15年8ヵ月の工期を要する。延べ作業員数は約680万人、総工事費は約800億円と試算される。
この天皇陵は第二次大戦後、米軍が米国人考古学者とともに発掘し、出土品が米国に送られたという巷説がある。
75:応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は古市古墳群の代表格。墳丘長は国内2番目の大きさで容積は1位。
76)履中天皇陵に治定される上石津ミサンザイ古墳は百舌鳥古墳群のひとつ。墳丘長は365mで国内3番目の規模。
77)安閑天皇陵古墳からは6世紀ごろのササン朝ペルシアで作られたとみられるガラスの器が出土。
78:大阪府近つ飛鳥博物館には仁徳天皇陵のジオラマ(1/150)がある。他にも古墳資料多数展示。
79)大仙公園では体験型イベント「百舌鳥古墳群歴史リアル謎解きゲーム」も開催。
80:堺市市役所21階展望室は百舌鳥古墳群を一望出来る、巨大な古墳の形や配置が分かる貴重な展望室、価値あり。まずここから古墳群巡りを。
(三国ヶ丘駅の「みくにん広場」百舌鳥駅前歩道橋などは仁徳天皇陵を一部見渡すスポットであるがイマイチ)
古市古墳群は見渡す所がないのが残念。
81)堺市博物館ではVR技術を用いて上空300mからの仁徳天皇陵古墳の雄大な眺めと、古墳内部の石室をCGで再現した映像を体験できる。必見。
82)仁徳天皇陵近くの手作りパン工場「ロアール」には古墳をイメージした「御陵パン」コーナーがあり、前方後円墳の形に焼き上げられた「御陵あんぱん」が人気。
83:2019年に審査を迎える百舌鳥・古市古墳群。世界遺産登録が決まれば経済効果は1000億円に達するとの試算も。
84)天皇陵の名称は、天皇の名前を冠したもののほかに、『延喜式』の記載に則った陵名がある。さらに遺跡の所在地名をあてる考古学会の遺跡命名法に基づく表記法も併用されている。
86:たとえば仁徳天皇陵は陵名「百舌鳥耳原中陵」。遺跡名で「大仙古墳」「大仙陵」「大山古墳」などと呼ばれる。また、被葬者が仁徳天皇である確証はないことから「伝仁徳天皇陵」と呼ばれる場合もある。
江戸時代は仁徳天皇陵(大仙古墳)にも自由に出入りでき、役人がここで酒宴を催したという記録も残っている。
89)江戸時代には巨大な古墳は「みささぎ登り」という行楽地になっていた。
90江戸時代には天皇陵探索の気運が高まり、本居宣長が大和盆地の古墳の観察記録『菅笠日記』、蒲生君平が近畿の天皇陵・旧跡の考察『山稜志』を著した。
独自の参拝記念印「御陵印」は全部で93印
91:大阪府高槻市には、かつて大王の墓の周りに置かれていた埴輪を作っていた工場跡の史跡が残る。この史跡は現在「ハニワ工場公園」「ハニワ工場館」として公開。
93)天皇陵は一般に中に入れないが、白砂が敷き詰められた先に鳥居を望む拝所が設けられている。
94前方後円墳の場合は前の方形部の正面に拝所が設けられている。
95)歴代の天皇陵にはそれぞれ独自の参拝記念印「御陵印」が用意されている。
96)御陵印はかつて各陵墓に用意されていたが、現在は5カ所の陵墓管区事務所にエリアごとに分かれてまとめて置かれている。
97)歴代天皇は124代122人だが合葬などのケースがあるため御陵印の数は全部で93印。
98)宮内庁は2018年10月、仁徳天皇陵の一部を発掘調査。従来より大きい事が分かる
99)神武天皇陵は皇族が成年を迎えると参拝する習わしがある。
100)2019年3月には退位直前の平成天皇が神武天皇陵を訪れ「親謁の儀」で退位を報告。
(文:森谷 美香/モノ・マガジン2019年5月16日号より転載)より一部加筆修正。
日本の古墳は大きく分けて前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つに分類。
なかでも高いランクに位置付けられていたのが前方後円墳。各地の同古墳には、王やその一族、大和政権と密接な関係をもった地方の首長が埋葬されているといわれている。
前方後方墳=前も後ろも方形の古墳。仁徳陵と同じように前方が末広がりで、古墳前期(3~4世紀)に広く造られた。代表は徳川光圀に保全された栃木県の下侍村古墳
帆立貝型古墳=そのまま、ホタテの形。一説には前方後円墳を作る許可を政権からもらえなかった首長の墓ともいわれる。
双円墳=大きい円と小さい円のつながった古墳。大阪の金山古墳のみ。
双方墳=四角が二つ並ぶ。なぜ長方墳と呼ばないかは不明。二つの意図が違った?代表は大阪の二子塚古墳
双方中円墳=古墳時代前期に多く作られる。上から見ると中央が円で上下が方形。櫛山古墳(奈良県天理市)など。
双方中方墳=上から見ると中央が円で上下が方形。非常に珍しい墳形で、代表は三重の明合古墳群。
上円下方墳=下が四角で上が円という立体構造。近代以降の皇室陵墓に採用。全国で6基。東京の武蔵府中熊野神社古墳など。
六角墳=その名の通り六角形。全国に2基。代表は奈良県のマルコ山古墳。
上八角下方墳=上八角下方墳は上に八角形、下に四角の2段構成。代表的なのは奈良県の舒明天皇古墳
横穴墳・地下式横穴墳=古墳時代末期。代表的なのは熊本県の鍋田横穴群。