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聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

チャチャチャワールドいしこし

2019年05月03日 | 日記

リニューアルしましたチャチャチャワールドいしこし

 


1995年、旧石越町が町おこしのために整備した施設


もともとチャチャワールドいしこしの場所は里山だった。
隣接する地域に高森公園と呼ばれる「町民の森」があったが、特段の整備もされず営業車の休憩場所程度の公園であった。
この殺風景な高森公園に近隣の住民が数十本のあじさいを植えたところ、土地に適応してよく育った。
これに眼をつけた石越町は、高森公園をあじさいの名所にしようと順次整備を行い、野外活動施設(キャンプ場等)も併設して公園の基礎を作った。

竹下内閣の際、「ふるさと創生事業」が提唱され、石越町でも1億円を手にしたが、石越町では1億円の使い道を町民アンケートで調査した。
その際、「高森公園整備」という意見が多く出され、これをきっかけに後のチャチャワールド構想が始まった。
もちろんこの時に「高森公園整備」を期待した多くの町民は、現在のチャチャワールドのような「遊園地」
を夢見たわけではなく、あくまでも「町民が憩える」森としての整備を期待したものであろうが、
折しもバブル景気の時期とも重なり、町ではふるさと創生事業とは切り離し「一大観光スポット」として整備計画を立てることとなる。

石越町は第一次産業主体の町で、特に観光名所も無く同じ登米郡内の人々からも「石越は何郡?」と揶揄されるほど存在感が無かった。
そんな中リゾートブームに乗り観光地を作り上げることは、観光収入や地域売名の意味では大きな意味を持っていた。
チャチャワールドの整備計画では事業費約20億円を投じているが、この額は町の年度予算に近い額であることからも、旧石越町がチャチャワールドいしこしに期待したものは大きかった。

1991年(平成3年)、基本計画作成によりチャチャワールド建設は本格的に動き出す。
高森公園の隣接地に約20ヘクタールの土地を新たに確保して開発が始まり、足掛け4年を費やし、
1995年(平成7年)4月29日のオープンにこぎつけた。
この間に実際の運営主体になる「株式会社いしこし」を創設させ管理業務の一切を受託させて営業を開始した。

 


名前の由来
チャチャの響きを聞いて多くの人が「おもちゃのチャチャチャ」を連想するが、童謡をもじって命名したわけではない。
「チャ」はチャイルドに由来し、「子ども」を示すチャイルドと大人も童心に帰る「童心」を示すチャイルドを掛け合わせ、
「子どもとともに大人も童心に帰る世界」という意味から命名された。
この名称は公募によって選ばれた名前である。なお入園口には英字でChaChaWORLDと表記されているが、
これは「チャチャ」の部分をあえてローマ字表記したものである。英語表記にすると「ChiChiWORLD(ちちわーるど)」になってしまうからである。
また北海道生田原にも「ちゃちゃわーるど」という施設が後年出来たが施設名称公表の後、
メディア等の指摘により既に「チャチャワールドいしこし」が存在していることが明らかになる。
建設に当たった生田原町から石越町に問い合わせがあったが、石越町では地理的に離れていることや「ちゃちゃワールド」
が博物館的要素が強いと思われる施設であったことから、そのまま使用することを承諾した(混同を避けるためひらがな表記にするようにだけお願いしたらしい)。

また一般にはチャチャワールドいしこしという名称が知られているが、正式名称はあくまでも「高森公園」である。
これは前述したようにもともとあった高森公園を拡大改修したことに由来しており、行政の持つ条例などでは高森公園として扱われている。
~Wikipedia~

 


《福島の現実ー福岡百子の声》 2019年5月3日 福岡百子

2019年05月03日 | 日記

下記、記事はブログ管理者の愛和さんの許可をいただき転載しています。
福島の現実を知ってほしいです
「福岡百子の声福島の現実」

 

 《福島の現実ー福岡百子の声》 2019年5月3日  福岡百子

「令和」の時代が始まりました。
即位の儀式で新天皇様は「 憲法に則り責務を果たす」と誓われ「国民の幸せと国の 一層の発展、
そして世界の平和を切に希望いたします」 と即位後初めてのお言葉を 述べられました。
上皇様は 退位礼儀のお言葉で「 私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」
と述べ、令和の 時代が「 平和で実り多くあることを、 皇后と共に心から願い、 ここに我が国と世界の人々の 安寧と 幸せを祈ります」と 結ばれました。
上皇様、上皇后様が、 全国民のために毎日祈り、痛みを背負ったあらゆる方々に胸を痛め、災害被害者の前では身を屈め、
頭を垂れて1人1人の手を握りお言葉をかけておられるお姿を、私達国民は決して忘れてはならないと思います。

令和になり、新しい年を希望に満ち、幸せを願って再出発し始めた私達です。
しかし、今もなお泣き苦しんでおられる福島原発被災者方の事を忘れず、助けていただきたく思います。
宜しくお願い申し上げます。
未解決のままで、放置されることがありませんように。

 

どうぞ皆様が弱き方々の声になっていただけますように。

福島被災者の「今」をお話しさせていただきます。

*放射能で汚染された土を入れた黒い袋を皆様ご存知ですね。
あの土をどのように処理したかをお知らせ致します。
国も東電も責任を持ちません。
各市町村に丸投げしました。
市町村では直轄の土地があるわけがありません。町民村民の誰かに引き受けて貰わなければなりません。しかし誰もが汚染した土が入った黒い袋など、自分の田畑に引き受けたくはありません。
そこで市町村によって解決の仕方はまちまちです。ある町は国道自動車道の中に穴を掘って埋めてセメントを流して封じ込むというやり方で解決。
ある町は話し合いで帰還困難地区(立入り禁止地区)の人の田畑に置き、上から土を20cm盛って高台にしておくやり方。
ある村は「誰も引き受けないから」と申し出た自治会長の田畑に置く。
国道6号線沿いの町は、6号線を挟んで海側に中間貯蔵庫や汚染土置き場が多く、山側は無いとのこと。しかし山側は山林の除染をしていないので線量が高い。
汚染土の置き場をめぐって、悲しい話を被災者から沢山聞きます。
双葉町のある方は「環境省から草原にするので土地を提供して欲しいと言われ、町を綺麗にするならと、自分の土地を提供した。
そしたら中間貯蔵庫を建ててしまった。だまされた。悔しい」とガックリ力を落として心は悲しみで張り裂けそうでした。
ある村人は「誰も引き受ける人がいなかったので、4人の仲間が自分の田畑を提供したら借り賃としてお金が入りました。そしたら村人から妬まれ、白い目で視られ、村八分になり、外に出れなくなりました」
(村起こしに頑張る、と張り切っておられた人が20歳も30歳も老け込みびっくりしました。大丈夫か?と気になります)

*双葉町は常磐線双葉町駅前を除染してミニ双葉町を作る計画です。住宅、店等を建てて双葉町の町民を呼び込む計画です。   
(果して何人戻るか?と心配の声も聞きます)

*大熊町近辺の常磐線は津波の時のままです。除染して来年の2月には大熊町駅と双葉町駅は開通し、駅周辺を解除するとの事です。
オリンピックを目指して、宮城まで常磐線全線を開通する予定とのことです。

*被災地の若い人達は8年も過ぎた今、住い、仕事、学校等も避難先に住み慣れて、故郷に帰る人はあまり居ません。
故郷は仕事、学校も無いし、放射能が怖いので帰れません。

*帰還宣言で被災者は帰るように促され、仮設は壊されました。自宅に帰った被災者は高齢者ばかりです。
70代~90代の1人暮らしです。仮設の仲間もバラバラで離れてしまい交流も無くなりました。被災者の多くが農業でしたが8年も狭い仮設で動かなかった為に、
足腰が悪くなり、体力も無くなり、自宅に帰ったけれど、農業が出来なくなった人が多く、自分の食べる物さえ作れなくなり、死ぬ人が多く、毎日誰かが死んでいると言います。
店も病院も遠く、近くには何もありません。自宅に帰った被災者は1日中誰とも話す事もなく、山村では寒さに震え、食料も僅かの人が多いです。5万円以下の年金で生活している人が多いです。

*被災者の中には、今でも津波で流されて行く人の夢を見る。眠れない。という人も居られます。

*原発被害者は言います。「災害が原発ではなく、普通の自然災害だったら、私達も宮城、岩手の方々と同じ様に、町起こしをし、自分達の手で復興していた。
故郷を自分達の手で復興していた。しかし原発は福島県民に生きる術を失わせてしまった。町や村を荒野と化し、放射能汚染で山、川、田畑、家、
福島県全土を放射能で汚染し、人が住めない場所にし、家族も仲間もバラバラにし、お金で人間関係を駄目にし、国と東電に振り回されて、神経をすり減らし、福島県民を不幸のどん底に落としてしまった。
壊れた家を修理するお金も無く、孤独で死んで逝く高齢者も多い。苦悩続きで病に伏した人も多い。しかしこの状況に対し、国は責任を取らず、福島の人達の犠牲、
苦悩を意にもかけなくなった。むしろ放射能線量で満ちた所に我々を返し、20Msvに下げたから安全だ帰還宣言したと。そして復興したと。
国は国民に福島の事を忘れさせようとしている。オリンピックの聖火ランナーは福島から出発すると言う。」


*被災者の言葉です「放射線量が高いのは福島県だけではありません。日本のいたる所で高いです。放射線量測定器を全国に置いて欲しいです。
ご自分の町も高いのでは?放射能は眼に見えないから、臭いもしないだけに人体に害を与えています」

皆様。国民の幸せと平和を願う「令和」のこの年に、国民の命を脅かす原発と放射能汚染について、本気になって見つめ直しては如何でしょうか?
国民の力で、あなたと仲間の力で、人の命の尊さを、日本の平和を、幸せを取り戻しませんか?

 

 

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映画『あん』

2019年05月03日 | 日記

 

『あん』
2013年2月にドリアン助川が出版した小説。第25回読書感想画中央コンクールで指定図書(中学校・高等学校の部)に選定される。

あらすじ
季節は春。桜の咲き乱れる公園に面したどら焼き屋、
『どら春』で、辛い過去を背負う千太郎は雇われ店長を続け、日々どら焼きを焼いていた。
ある日この店を徳江という手の不自由な老婆が訪れ、バイトに雇ってくれと千太郎に懇願する。
彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めた彼はその味の佳さに驚く。
徳江は50年あんを愛情をこめて煮込み続けた女だったのだ。店の常連である中学生ワカナの薦めもあり、千太郎は徳江を雇うことにした。
徳江のあんを使ったどら焼きのうまさは評判になり、やがて大勢の客が店に詰めかけるようになる。
だが、店のオーナーは徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。
そしてその噂が広まったためか客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は店を辞めた。素材を愛した尊敬すべき料理人である徳江を追い込んだ自分に憤り、酒に溺れる千太郎。
ワカナは彼を誘い、ハンセン病感染者を隔離する施設に向かう。そこにいた徳江は、淡々と自分も自由に生きたかった、との思いを語るのだった。
~Wikipedia~

*実家の近くにハンセン病の国立療養所療養所

「東北新生園」

があり小学生の頃、よく出入りしてました。
この中の映画館で映画(無料)みてました。

重度の人から軽度の人まで、東北各地出身のハンセン病の方々が住んでいます。
軽度の人たちは、近隣の家庭の増改築等のボランティアを(実家にも手伝いに来ていただきました)

 

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