私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
*私が用いる聖句は,新世界訳,新共同訳,新改訳,口語訳,回復訳(新約聖書のみ)
「ものみの塔」誌 2004-09-01~
幸せになるのに本当に必要なもの パートⅠ
「幸福な神」(エホバ,ヤハウェ)と「幸福な唯一の大能者」イエス・キリストは,幸せになるのに何が必要かを一番よくご存じです。
「その教えは幸福な神の素晴らしい良い知らせと一致しており,私はその良い知らせを託されました」。
「幸福な唯一の統治者は,定められた時に現れます。その方は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主である」。
(テモテ第一 1:11; 6:15)
ですから,幸福へのかぎが神の言葉 聖書に収められているのももっともなことです。
「この預言の言葉を朗読する人と,それを聞き,書かれている事柄を守る人たちは,幸福である。定められた時が近いからである」。
「私は速やかに来ます。この巻物の預言の言葉を守る人たちは幸福です」。
(黙示録・啓示 1:3; 22:7)
有名な山上の垂訓の中でイエスは,何が幸せをもたらすかを述べておられます。
イエスによれば,『幸いな人』とは,
(1)自分の霊的な必要を自覚している人,
(2)嘆き悲しむ人,
(3)温和な気質の人,
(4)義に飢え渇いている人,
(5)憐れみ深い人,
(6)心の純粋な人,
(7)平和を求める人,
(8)義のために迫害される人,
(9)イエスのために非難され,迫害される人です。
(マタイ 5:3~11)
イエスの述べたことは正しいか
イエスが述べた点の幾つかは,説明なしでも納得できます。
気質が温和で,憐れみ深く,平和を求め,純粋な心で物事を行なう人が,怒りっぽくてけんか腰の無慈悲な人よりも幸せであることは,だれも否定しないでしょう。
しかし,義に飢え渇いている人や嘆き悲しむ人が幸せだと,どうして言えるのでしょうか。
この二つのタイプの人たちは,世の中の状況について現実的な見方をしています。今の時代に「行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいている」のです。
『神はその者に言った。「この都市,エルサレムの中を巡りなさい。そして,この都市の中で行われているあらゆる忌まわしい事柄のために嘆き悲しんでいる人たちの額に,印を付けなさい」』。
(エゼキエル 9:4)
そのこと自体に幸せを感じるわけではありません。
しかし,世界を義にかなった状態にする,また虐げられた人々が公正に扱われるようにするという神の目的を知ると,あふれるほどの喜びを感じます。
「立場が低い人たちを公平に裁き,地上の温厚な人たちのために公正に戒めを与える。口から出る棒で地上を打ち,唇から出る息で邪悪な人々を死に至らせる」。
(イザヤ 11:4)
義を愛する人は,自分がしばしば正しい事をし損なっていることを嘆き悲しみます。それゆえに自分の霊的な必要を自覚します。
神の助けなしには弱さを克服できないことを実感しているので,進んで神に頼り,導きを求めます。
「あなたの業を主(神)にゆだねれば,計らうことは固く立つ」。
「地の人の心が自分の道を考え出すことがあっても,神(エホバ,ヤハウェ)がその歩みを導かれるのである」。
(箴言・格言 16:3,9)
「人の歩みは主(神)によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」。
(箴言・格言 20:24)
嘆き悲しみ,義に飢え渇き,自分の霊的な必要を自覚している人は,創造者との良い関係を持つことの大切さを意識しています。
良い人間関係は人を幸せにしますが,神との良い関係はなおのことそうです。ですから,正しいことを愛するまじめな人,神の導きを進んで受け入れる人は幸いである,と確かに言えるのです。
しかし,迫害されて非難される人が幸せだとはとても思えないかもしれません。
それでも,イエスが述べているのですから,本当にそうであるに違いありません。では,どのように理解すればよいのでしょうか。
迫害されても幸い ― なぜ?
イエスは非難や迫害そのものが幸福につながるとは述べていない,という点に注目してください。
イエスはこう明言しています。
『義のために迫害されてきた人たちは幸いです。人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害するとき,あなた方は幸いです』。
(マタイ 5:10,11)
ですから,キリストの追随者であるという理由で,またイエスが教えた義の原則に沿って生活しているという理由で非難される場合にのみ,幸いなのです。
その点は,初期クリスチャンに生じた事柄からよく分かります。
ユダヤ人の高等法廷サンヘドリンの成員たちは「使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから,彼らを去らせました」。
使徒たちはどう反応しましたか。
「そのため,これらの者は,彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った。
そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続けた」と記されています。
(使徒 5:40~42)
「しかしユダヤ人たちは,神を畏れる著名な女性たちや町の主立った人たちをあおり,パウロとバルナバに対して迫害を起こし,境界の外に追い出した。
2人は,その人たちに対して足の土を振り払い,イコニオムに行った。弟子たちはその後も喜びにあふれ,聖なる力に満たされていた」。
(使徒13:50~52)
使徒ペテロは非難と幸福の関係の別の面を明らかにし,こう書いています。
「キリストの名のために非難されるなら,あなた方は幸いです。栄光の霊,すなわち神の霊があなた方の上にとどまっているからです」。
(ペテロ第一 4:14)
正しいことを行なうゆえにクリスチャンとして苦しむのであれば,そのこと自体は不快であっても,自分が神の聖霊を受けていることを知っているので幸福になるのです。
では,神の霊は幸福とどのような関係があるのでしょうか。
トイレットペーパー業界「在庫十分、落ち着いて」(20/03/02)
トイレットペーパーの在庫は約23日分あるとしています。
トイレットペーパーの生産者団体「日本家庭紙工業会」によりますと、在庫は約1カ月前から変わらず、全国で約23日分あるということです。
在庫も十分にあることから、消費者が買いだめしないようにすれば品不足はすぐに解消するとしています。
日本家庭紙工業会は「落ち着いた行動を心掛けてほしい」と呼び掛けています。
終わりの日の人々
聖書は,世界の幾つかの出来事の意味を明らかにするだけでなく,終わりの日の特色として,人間の社会が変化することも予告していました。
使徒パウロは,一般に人々がどのようになるかを説明しました。テモテ第二 3章1~5節は,「終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます」と述べています。
パウロは人々が,例えばこのようになると語りました。
● 自分を愛する者
● 金を愛する者
● 親に不従順な者
● 忠節でない者(感謝することを知らない者,恩を知らず)
● 自然の情愛を持たない者
● 自制心のない者
● 粗暴な者
● 神を愛するより快楽を愛する者
● 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者(信心を装いながら,その実,信心の力を否定する)
あなたの住む地域でもそのような傾向が見られるでしょうか。きっと見られるでしょう。悪い特質を持った人は至るところにいます。
このことは,神が間もなく行動を起こされるということを示しています。