痛みや苦しみとは、深い意味では大切なのです。例えば足が折れていても、もし痛みを感じなければどうなるでしょうか?
通常の様に足を使用し続け、最悪の場合は骨が皮膚から飛び出てしまい、足を切断しなければいけないほど悪化させてしまうかも知れません。痛みは、大切なサインであり警報なのです。つまり、肉体を最善の状態に絶えず維持し、少しでも長生きをさせる為の有り難い仕組みなのです。
肉体のサインは痛み。心のサインは苦しい思いだと言えます。
心が苦しければ、自分が成長する為のサインだと思う事です。
現代の薬の悪い使用法に、酒で胃を悪くした人が酒を止めないで胃薬を飲む人がいます。胃薬で痛みを抑えながら酒を止めないのです。薬を飲む前に、正すべきことは実行しなければ生けないのです。後になって胃がより悪化すれば、「あの薬は効かなかった。ダメな薬だ。」と言う人が居ます。薬の責任にする前に、自分の生活を正す事が欠落しているのです。
これと似た事を信仰に対しても思う人が居ます。
「この信仰をしても良くなかった」「あれは良かった」などと言う人が多いのです。そんな信仰は、正しい信仰ではありません。これこそ外在への依存教であり自分勝手教でもあり、正しい信仰をしていたとは言えません。
信仰以前に、自分の生活や行為を絶えず反省して「観察する視点」が人間には重要なのです。
私は長年に渡り、感謝の気持ちだけの神祭りと先祖供養を実践していますが、車の運転は人一倍に慎重であり、自分の健康管理にも気を付けています。
「正しい信仰をしていれば自分は幸運な筈だ」と言う発想はした事が無いし、まったく関係の無い事だと思っています。
正しい信仰には自分の欲や自我は関係なく、他者や大いなる存在への感謝をする気持ちしか無いのです。
ただ、このような心境の信仰をしていますと、結果としては幸運に恵まれていたり、問題が起こってもより良い結果に成るのです。 この様な美味しい事を私が言いますと、せっかく正しい信仰を始めようとされていても、勘違いをされて幸運の為の信仰にすり替わる人が多いのです。
「自分が無い信仰」を正しくしますと、宇宙法則として勝手に与えられるのです。
欲しい願望信仰が先に立ちますと、魔境に迷うだけで結果も悪いものです。
この辺りの上記の事は分かってはいるけれども、「今の自分の信仰はどうなのか?」と思う人が居ます。
この様に思える人は正しい信仰であり、上記の「観察する視点」を持ち実行している事に成ります。
動物形象に憑依された信仰は、この視点が消えます。「自分は正しい」だけに成ってしまいます。
これらの事は、古神道で言うところの自分自身で行うサニワ(正邪の判断)の一種と言えます。
絶えず自分で自分自身を観察して「サニワして行く」のが人間の人生だと言えます。
通常の様に足を使用し続け、最悪の場合は骨が皮膚から飛び出てしまい、足を切断しなければいけないほど悪化させてしまうかも知れません。痛みは、大切なサインであり警報なのです。つまり、肉体を最善の状態に絶えず維持し、少しでも長生きをさせる為の有り難い仕組みなのです。
肉体のサインは痛み。心のサインは苦しい思いだと言えます。
心が苦しければ、自分が成長する為のサインだと思う事です。
現代の薬の悪い使用法に、酒で胃を悪くした人が酒を止めないで胃薬を飲む人がいます。胃薬で痛みを抑えながら酒を止めないのです。薬を飲む前に、正すべきことは実行しなければ生けないのです。後になって胃がより悪化すれば、「あの薬は効かなかった。ダメな薬だ。」と言う人が居ます。薬の責任にする前に、自分の生活を正す事が欠落しているのです。
これと似た事を信仰に対しても思う人が居ます。
「この信仰をしても良くなかった」「あれは良かった」などと言う人が多いのです。そんな信仰は、正しい信仰ではありません。これこそ外在への依存教であり自分勝手教でもあり、正しい信仰をしていたとは言えません。
信仰以前に、自分の生活や行為を絶えず反省して「観察する視点」が人間には重要なのです。
私は長年に渡り、感謝の気持ちだけの神祭りと先祖供養を実践していますが、車の運転は人一倍に慎重であり、自分の健康管理にも気を付けています。
「正しい信仰をしていれば自分は幸運な筈だ」と言う発想はした事が無いし、まったく関係の無い事だと思っています。
正しい信仰には自分の欲や自我は関係なく、他者や大いなる存在への感謝をする気持ちしか無いのです。
ただ、このような心境の信仰をしていますと、結果としては幸運に恵まれていたり、問題が起こってもより良い結果に成るのです。 この様な美味しい事を私が言いますと、せっかく正しい信仰を始めようとされていても、勘違いをされて幸運の為の信仰にすり替わる人が多いのです。
「自分が無い信仰」を正しくしますと、宇宙法則として勝手に与えられるのです。
欲しい願望信仰が先に立ちますと、魔境に迷うだけで結果も悪いものです。
この辺りの上記の事は分かってはいるけれども、「今の自分の信仰はどうなのか?」と思う人が居ます。
この様に思える人は正しい信仰であり、上記の「観察する視点」を持ち実行している事に成ります。
動物形象に憑依された信仰は、この視点が消えます。「自分は正しい」だけに成ってしまいます。
これらの事は、古神道で言うところの自分自身で行うサニワ(正邪の判断)の一種と言えます。
絶えず自分で自分自身を観察して「サニワして行く」のが人間の人生だと言えます。
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