泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代の防衛最前線 「水城と大野城」

2015年04月04日 19時59分43秒 | 歴史

663年、白村江の海戦で倭国は惨敗を喫しました。これにより唐・新羅の倭(日本)国への本土侵攻が予想されたため、「大宰府」周辺は国防の最前線に位置づけられることとなりました。

「日本書紀」によると、664年には「水城」を、665年には「大野城・きい城」の築造記事があります。

古代の中国・朝鮮半島では都市の防御を固めるために周囲に城壁を巡らせています。これを「羅城(らじょう)」と呼んでいます。

「大宰府」の場合、北側は「大野城」と「水城」が強固な防衛拠点を形成しています。一方、南側にも「きい城」と「関屋・とうれぎ土塁」等の防衛施設が判明しています。これらは、独立したものではなく山稜線と結びながら、計画的に配置された可能性が考えられています。

今回は前回に引き続き、古代の防衛最前線である「水城」と「大野城」について紹介したいと思います。

「水城」には、「水城大堤」と「小水城」と呼ばれる物があります。「水城大堤」には、東西2箇所に門があったようです。現在、東門には門の礎石を見ることができます。また、門の近くには、木製導水管である「木樋(もくひ)」が再現されています。実物は、九州国立博物館や地元の学校・寺院(額)・観世音寺(茶室)で見ることができます。

「小水城」は、上大利土塁(大野城市)・天神山土塁(春日市)・大土居土塁(春日市)が残っており、見ることができます。

残念ながら「関屋・とうれぎ土塁」(佐賀県鳥栖市)は消滅しており、場所を示す説明板だけ見ることができます。

「大野城」は、「大宰府政庁」の背面に位置し、標高410mの大野山(地元では、四王寺山と呼んでいます)に、百済の亡命高官により築造された日本最初の朝鮮式山城です。この山城は、山中を流れる谷川を取り囲んで版築で築かれた土塁や石塁の城壁を巡らせ、内部には70余りの高床倉庫がありました。

「大宰府」は、学問の神様である菅原道真公が祀られている「太宰府天満宮」が有名ですが、古代に思いをはせながら1400年前の防衛最前線である、「水城と大野城」を是非散策してみてください!

         

                            

 

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