
望んで不幸を選ぶ人はなく、誰もが幸せになりたいと願っている。しかし現実では、幸せではなく不幸を感じている人が多い。なぜそうなってしまうのか。人は年を取れば取るほど、また成長すればするほど、「霊」の働きを弱らせている。知恵を得た分、頭で理解して事を進めようとし、それが幸せを遠ざける。この言葉は、頭でっかちの私にはよくわかった。でも、今や大切なのは「霊」だと知っている。美しい花を見て心を奮わせるのは、学術知識ではなく、花そのものの姿。美しいから愛するのではなく、愛されているから美しい。頭の知識は、この真理を逆さまにして道を誤らせる。そして決して失ってはならない3つのもの、人生の目的、愛、そして命を失った挙句、人生の最終点である死を死として迎えてしまう。
世で偉大な成功を修めた人、巨万の富を得た人、容姿才能に恵まれた人、そんな人たちでも、一般に考えられる幸せの必須要素を余り得て尚、「空しい」「生きる意味がわからない」と言う。何を得ても、死からの解放感、生きている実感がないからだ。自分自身が何のためにここにいるか、誰がそれを望んでいてくれるか、そしてそれはこれから先、遥か永遠にまで至る人生にどれほど必要なことなのか。創造主の存在、父なる神様の愛、そして人生の意味を知らないままで人が満たされることはない。
過ぎたことをなかったことにはできない。自己中心性は一度ならず失敗を引き起こす。しかし、してしまったこと、壊してしまった愛の回復を心から求める時、人は変えられる。自分の力だけでは到底できなかったことでも、可能になる。それがイエス・キリストの前に願い出た者すべてに神様が与えてくださった回復の約束。世の中の書物は、「悲しむこと」「信じないこと」「逃げること」で幸せを説く。でも私は、聖霊様によって「喜ぶこと」「信じること」「立ち向かうこと」で幸せを回復した。そして「私は生きている」と言える。すべて、創造主神様のもとに戻ることによって成ったこと。その導きにあらためて感謝した今週の礼拝メッセージでした。

http://goodnewsstation.com/celebration.html

☆Good News Stationのメインページはこちら!