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心が凍るような相模原の事件。個人個人で思うところは様々あるだろうが、クリスチャンとして知るべきことがある。「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」について。一クリスチャンとして、「障害のある方は天国に行けるのか?」という質問に、私自身がわかりやすく、そして福音につなげて答えることができるだろうか?そのために確認することを教えられた。
まず、「死」について。なぜ人は死ぬことになっているのか。人間が創造された時には、死ぬようには創られていなかった。罪を持った故に人は死ぬことになったのだ。罪を持つ者はすべて死ぬ。
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では、障碍者や子供には、罪がないのか?否、ある。人間は誰でも生まれもっている原罪がある。そして罪を持ったがために死ぬこととなった。罪を持った人も、死ぬ人も天国にはいない。憎しみ、悲しみ、苦しさ、嫌悪、盗み、殺し、これらも天国にはない。それが天の国なのだ。こういった人間の持つ罪の要素が聖化され、変えられなければ、天国に入ることはない。聖化する唯一の方法が、イエス様の十字架だ。イエス様を信じること、これは決して難しいことではない。信じるだけ、受け取るだけだ。
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罪を失くそうと別の方法で頑張っているのが仏教などの修行だ。しかし残念ながら、罪は簡単には無くならない。仏教僧もそれは知っている。経典には、輪廻転生を繰り返して、何億年と修行して、それで罪と共に己もなくなる、無になるしか方法がないとある。彼らの目的地は、天国ではなく、涅槃=まったくの無の世界だ。そういった人間の一生懸命な、しかし無意味な努力を聖書も記している。何千年にも亘る旧約聖書の記述には、人間の努力では罪の清算ができなかったことが証明されている。人間には到底無理。だからこそ、人間ではなく神様ご自身が「罪」を肩代わりしてくださるために、イエス様がこの地上に来てくださった。そして十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去った。このことを信じ、「イエス様、ありがとう」と受け取った人は誰でも天国へ行くことができるのだ。
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救いは恵みだ。罪と死との法則から解放されるのは、恵みを受け取るか受け取らないか、ただそれのみだ。もらえない人は、もらいに行けばよい。もらった人は、「○○さんの分もください」ではなく、○○さんがもらいに来なければならないのだ。その人の人生のために。
クリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思うことが多い。が、「こうあってほしい」とは「私の」主観、思いであって、神様の思いではない。私の思いで、神様の思いを変えることはできない。神様の思いの方が大きく、高く、深く、絶対だから。私の視点など高が知れている。聖書解釈に個人的価値観、感情を入れてはならない。
福音にすら、「私の」主観が微妙に入ることがある。だから「信じるだけ」に納得できないことがあるのだ。「あの人は礼拝を休んだのに、あの人は私に嫌なことを言ったのに。あの人は聖書を読んでいないのに。」そんな主観を福音より優先しようとしていないだろうか。天国に行ける基準は唯一、「十字架を信じているか」だけだ。これは、一人でも多くの人を救いため、救いの窓口を広くするための神様の真理。私の主観、価値観より神様を優先させられるか。それが如何に神様を信じているかどうかにつながる。
聖書にはあらゆる問題解決の糸口が記されている。が、「キリストの福音を知る機会と能力のなかった人の救い」については明らかな記述はなく、聖書は沈黙している。その理由は、私たちが知る必要のないことだからだ。知るべきことは、人間は、創造主である神様との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、神様との関係なしには、誰もが生まれながらの障碍者なのだ。不条理の原因を解明したところで、解決には至らない。が、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。それがイエス様だ。イエス様は、誰のところにも来てくださる。「
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