えんぢぇる田中の「復活!」シリーズ・ニューバージョン、「エマオの旅人」続編。ヤバいことはご免、とスタコラサッサとエルサレムから逃げ出した暗い顔の二人の弟子、クレオパと“私”。前回引用した芥川龍之介の絶筆「續西方の人」に倣って、「續エマオの旅人」とタイトルしたメッセージ後半。
「復活!」シリーズは当然、且つ毎回のように確認されることだが、十字架と復活はコインの表と裏のようなもので、二つで一つである。イエス様は十字架に架かられた、だけではなく、そして復活された、を語ってこそ福音になる。カトリックのクロスには、しばしば十字架に架かられたままのイエス様を見るが、それでは半分なのだ。半分クリスチャンや半分信仰はあり得ない。聖書も、ほとんど信じているけど、「奇跡」とか「復活」はダメ、ではクリスチャンではない。聖霊の力はそこにない。66巻すべての内容が神様の言葉だ。中庸を重んじる日本人はどうしても曖昧を好み、グレーゾーンに留まりやすい。しかしそれは、光の内にいることではない。聖書の価値観では、光か闇であり、光の内にいなければ、闇の中、つまりサタン側にいるということだ。この大切なポイントに、勝手な自己解釈をしてはならない。
世の中に数多ある宗教は、すべて「教え」を信じている。仏陀の教え、アラーの教え、某教祖の教え。しかし、クリスチャンはイエスの教えを信じているのではない。復活のイエス様を知っているか否か、だ。復活は教えられてわかることではない。教理でもない。これは事実だ。そして復活なしには福音、完全な救いと永遠の命にはなり得ない。他宗教と同じことになる。「十字架と復活」こそが、クリスチャンが伝えるべき、福音の核なのだ。
「我々の大将、イエス様は十字架に架けられ、殺されてしまった。これですべて終わりだ。我々も殺されるだろう。」イエス様は、公生涯中に幾度も約束について仰っていた。しかし誰も真剣に受け止めておらず、理解していなかった。復活を信じられない弟子たちは皆、恐れおののき、逃げ出したかった。実際暗い顔のまま逃げ出した“私”もいた。しかし、十字架は終わりではなかった。イエス様はこれが「始まり」だと御存知だった。だからこそ、逃げ出した“私”を追いかけて復活の事実を示し、引き戻して留まらせ、聖霊を授けて弟子にまでしてくださった。教会時代の幕開け、全人類救済計画の始まりのために。
復活がわかって初めて十字架がわかる。そして復活のイエス様に会える。「續エマオの旅人」では、復活がわかるためのキーワードは、「一緒に」だ。最初はイエス様の方から近づいて来てくださった。そして「一緒に」歩きだし、「一緒に」泊り、「一緒に」食事の席に着いた。いつでもイエス様と「一緒に」いること。さて、“私”はそれをほんとうにわかっているだろうか。このエマオの話の中心聖句は、「イエスは生きておられる」(23節)だ。これがあって、「一緒に」歩けるもので、クリスチャンの信仰の原点だ。しかし、当たり前過ぎて、「一緒に」いられる感動がなくなってはいないか。単に聖書を勉強する、単に暗唱聖句を増やす、単に知識を増やす、それだけでは信仰は形にしか過ぎなくなる。信仰の形骸化は、神様が最も嫌われることだ。神様は心をご覧になるのだから。今、ここでイエス様と「一緒に」いるとしたら、“私”はどうするのか。それが御言葉のアプリケーションになる。
そしてもう一つ、更に具体的に実践するためのキーワードは、「聖書全体に亘り」。聖書は総合的解釈が必要だ。そのための牧師のメッセージであり、教会の聖書クラスがある。聖書が全体的に解釈できたら、イエス様が何者かであるかが少しずつわかってくる。一人で、自分の経験や価値観や道徳観で読んでいては、自分勝手な理解、独り善がりの解釈、自分だけのイエス像を作ってしまうからだ。“私”だけの勝手なイエス像を作ってしまうなら、それは自分の言うことを聞き、願いを叶えるような魔法使い的神を求める世の人と同じだ。神様像を勝手に作ってはならない。天地創造の神様は、“私”の神様であっても、“私”だけに幸せをくれる神様ではない。最終的に、すべての被造物が幸せになることを願っていらっしゃる。
聖書を全体的に理解するための5ポイント。
学ぶこと
求めること
委ねること
神様を愛すること
隣人を愛すること
そしてこの5ポイントを行っているのが教会だ。教会にはイエス様がいらっしゃる。イエス様が愛した教会には、たとえイエス様が目に見えなくても「愛し愛されている」関係がそのままあり、そこにイエス様が生きておられる。家族と一緒で、物理的な距離が離れていても愛の関係は変わらない。メッセージも聖書の学びも人生を変える命の時間だ。そんな教会で、イエス様と「一緒に」いて、話を聞き、聖書を学び、感動して留まり、お食事を分け合う。教会に必要なのは正確なプログラムではない。ただ、このポイントだけだ。
「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」
前回も引用した芥川の文章のように、今まで意気消沈して暗い二人の弟子が、生き生きと燃える人に変えられたその感動に触れた時、私たちの心も燃える。「感動」は人を変える。そしてクリスチャンの感動は一時的なものではない。それは、真の感動とは、環境や状況で生じる一時的なものではなく、イエス様に愛されることで生まれるものだからだ。感動のない人生なんてつまらない。感動したことがないなら、ぜひ教会へ!教会の使命は、あなたと「一緒に」感動ある人生を送ること。そのための家の教会です。
ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 命の時間を持ちましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI
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「復活!」シリーズは当然、且つ毎回のように確認されることだが、十字架と復活はコインの表と裏のようなもので、二つで一つである。イエス様は十字架に架かられた、だけではなく、そして復活された、を語ってこそ福音になる。カトリックのクロスには、しばしば十字架に架かられたままのイエス様を見るが、それでは半分なのだ。半分クリスチャンや半分信仰はあり得ない。聖書も、ほとんど信じているけど、「奇跡」とか「復活」はダメ、ではクリスチャンではない。聖霊の力はそこにない。66巻すべての内容が神様の言葉だ。中庸を重んじる日本人はどうしても曖昧を好み、グレーゾーンに留まりやすい。しかしそれは、光の内にいることではない。聖書の価値観では、光か闇であり、光の内にいなければ、闇の中、つまりサタン側にいるということだ。この大切なポイントに、勝手な自己解釈をしてはならない。
世の中に数多ある宗教は、すべて「教え」を信じている。仏陀の教え、アラーの教え、某教祖の教え。しかし、クリスチャンはイエスの教えを信じているのではない。復活のイエス様を知っているか否か、だ。復活は教えられてわかることではない。教理でもない。これは事実だ。そして復活なしには福音、完全な救いと永遠の命にはなり得ない。他宗教と同じことになる。「十字架と復活」こそが、クリスチャンが伝えるべき、福音の核なのだ。
「我々の大将、イエス様は十字架に架けられ、殺されてしまった。これですべて終わりだ。我々も殺されるだろう。」イエス様は、公生涯中に幾度も約束について仰っていた。しかし誰も真剣に受け止めておらず、理解していなかった。復活を信じられない弟子たちは皆、恐れおののき、逃げ出したかった。実際暗い顔のまま逃げ出した“私”もいた。しかし、十字架は終わりではなかった。イエス様はこれが「始まり」だと御存知だった。だからこそ、逃げ出した“私”を追いかけて復活の事実を示し、引き戻して留まらせ、聖霊を授けて弟子にまでしてくださった。教会時代の幕開け、全人類救済計画の始まりのために。
復活がわかって初めて十字架がわかる。そして復活のイエス様に会える。「續エマオの旅人」では、復活がわかるためのキーワードは、「一緒に」だ。最初はイエス様の方から近づいて来てくださった。そして「一緒に」歩きだし、「一緒に」泊り、「一緒に」食事の席に着いた。いつでもイエス様と「一緒に」いること。さて、“私”はそれをほんとうにわかっているだろうか。このエマオの話の中心聖句は、「イエスは生きておられる」(23節)だ。これがあって、「一緒に」歩けるもので、クリスチャンの信仰の原点だ。しかし、当たり前過ぎて、「一緒に」いられる感動がなくなってはいないか。単に聖書を勉強する、単に暗唱聖句を増やす、単に知識を増やす、それだけでは信仰は形にしか過ぎなくなる。信仰の形骸化は、神様が最も嫌われることだ。神様は心をご覧になるのだから。今、ここでイエス様と「一緒に」いるとしたら、“私”はどうするのか。それが御言葉のアプリケーションになる。
そしてもう一つ、更に具体的に実践するためのキーワードは、「聖書全体に亘り」。聖書は総合的解釈が必要だ。そのための牧師のメッセージであり、教会の聖書クラスがある。聖書が全体的に解釈できたら、イエス様が何者かであるかが少しずつわかってくる。一人で、自分の経験や価値観や道徳観で読んでいては、自分勝手な理解、独り善がりの解釈、自分だけのイエス像を作ってしまうからだ。“私”だけの勝手なイエス像を作ってしまうなら、それは自分の言うことを聞き、願いを叶えるような魔法使い的神を求める世の人と同じだ。神様像を勝手に作ってはならない。天地創造の神様は、“私”の神様であっても、“私”だけに幸せをくれる神様ではない。最終的に、すべての被造物が幸せになることを願っていらっしゃる。
聖書を全体的に理解するための5ポイント。
学ぶこと
求めること
委ねること
神様を愛すること
隣人を愛すること
そしてこの5ポイントを行っているのが教会だ。教会にはイエス様がいらっしゃる。イエス様が愛した教会には、たとえイエス様が目に見えなくても「愛し愛されている」関係がそのままあり、そこにイエス様が生きておられる。家族と一緒で、物理的な距離が離れていても愛の関係は変わらない。メッセージも聖書の学びも人生を変える命の時間だ。そんな教会で、イエス様と「一緒に」いて、話を聞き、聖書を学び、感動して留まり、お食事を分け合う。教会に必要なのは正確なプログラムではない。ただ、このポイントだけだ。
「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」
前回も引用した芥川の文章のように、今まで意気消沈して暗い二人の弟子が、生き生きと燃える人に変えられたその感動に触れた時、私たちの心も燃える。「感動」は人を変える。そしてクリスチャンの感動は一時的なものではない。それは、真の感動とは、環境や状況で生じる一時的なものではなく、イエス様に愛されることで生まれるものだからだ。感動のない人生なんてつまらない。感動したことがないなら、ぜひ教会へ!教会の使命は、あなたと「一緒に」感動ある人生を送ること。そのための家の教会です。
ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 命の時間を持ちましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI
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