聖書は「光」で始まり、「光」で終わる。しかし最初の書、創世記は「光」で始まったものの、その終わりはヨセフの死であり、闇で第一幕を閉じるのだ。そして続くのは、一般には「出エジプト=エクソダス=脱出」で知られている第二巻。エジプト脱出や葦の海の奇跡、シナイ山の十戒授与など大スペクタクルなシーンを思い浮かべるものの、実は「最も中途半端にしか読めていない!」とえんぢぇる節がビシリ。
この書は、ヘブル語で「ヴァエレー・シェモット(שְׁמוֹת)」、その意味は「さて、それらが名前である」で始まり、イスラエルの子らの名前が記されている。創世記の「はじめに」から「名前」に続くのだ。全体で聖書を読むこと、それが今回の30分de一巻の目的だ。奇跡も十戒ももちろん重要だが、それがどのように聖書全体のテーマに繋がっていくのか、それを掴むのが大切。
ヨセフがエジプト第二位の地位で治めていた頃から400年後、イスラエルの民は神を礼拝することを忘れ、それ故、エジプトの奴隷と化していた。神様はかつてアブラハムとした約束を忘れることなく、その民を憐れみ、奴隷の地から海を渡って神の約束の地へと導き出す。これは、罪の奴隷だった人間が、洗礼を経て、約束された神の御国へと旅する神の民の歩みのことだ。つまり第二巻のテーマは、「神から導き出された民」。
その内容は、“1〜18章:エジプト脱出”、“19〜24章:神との契約”、“24-40章:幕屋建設”の3つの部分に分けられる。エジプト脱出は"救いの始まり”、神との契約は“救いの内容”、幕屋建設は“救いの目的”であり、私たちクリスチャンの“新生”、“聖化”、“栄化”を表すこの全体枠を見逃して、「洗礼」「癒し」「奇跡」のポイントだけで留まっていたら、信仰の歩みはない。現代社会という荒野の中にあっても主なる神様を礼拝する生活を送り続ける。それは、この旅路の果てに約束された神の御国に入るため。その「名前」がこの書に、そして救いの瞬間に記される天の「いのちの書」にあり、神様が覚えていてくださる「名前」だ。
今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。(19:5-6)
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)
ここからは個人的な感想と覚えておきたいメモ。「神様の性質を知ること」が大事、とメッセージに語られた。性質を表すとも言える主の聖なる御名もこの書で語られている。「名前」については創世記の箇所でも考えることが多いが、主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。(箴言18:10)、御名には大いなる力があります。(エレミヤ)、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。(ヨエル)数多く聖書にある「力ある主の御名」、それは主と出会い、主から名前を呼ばれ、使命を与えられたクリスチャンが聴く(知る)、神様とのファーストコンタクトであり、神様の自己紹介(畏れ多い言い方ですが。)かな。神様は私の「名前」をご存知だ。(イエス様も弟子に名前を付けられ、ここぞと言う時にはちゃんと名前を呼んでくださる。)そして、私にご自身をも明らかにしてくださる。今、神様が私を呼ばれる御声に従い、その御名を求めて礼拝しよう。
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