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今週はいつものカフェに集い、それぞれの礼拝メッセージを分かち合い、気になった点、わからないところを取り上げました。GNS礼拝の「ヤロブアムの道」では、救いを妨げるものとして5つの点を語られました。「世界観」、「生活習慣」、「罪」、そして「傷」。これらが私たちの内にある限り、そこに居座り続け、そこから私たちを唆し、それらを増長させようとする悪魔のRight to Stay(居住権)
になってしまうということ。
更に、霊の世界には中道(グレイゾーン)はなく、「祝福」か「災い」か、そのどちらかの選択しかないということを採り上げました。分かち合いの内に課題がありました。例えば、遅刻を繰り返してしまうのは、「怠惰」な罪ゆえの災いなのか? それとも「自力」から解放されるための「御声」なのか? という質問。いくつかの証しがされましたが、残念ながらはっきりした答えは得られなかったと思います。一方、もう一つの礼拝メッセージ中には、「反応ではなく対応を」 と語られました。これもまだ魂で消化中のため、今の段階では、明確な違いを文字にし難いのですが、一つの喩え話を聞きました。
英国のある晩餐会でのこと。食卓に置かれた見事な銀細工の胡椒入れに心奪われ、出来心でポケットに入れてしまったチャーチル首相の側近がいました。セキュリティが近づき、事態を悟ったチャーチルは、ポケットを見せるように迫られる側近の前に出て、「どうやら私たちは見つかったらしいよ。」と言いながら、自分のポケットから銀の塩入れを取り出した、というお話。
不名誉に対して叱責や切捨てなどの「反応」ではなく、悔いる心へ進ませるよう「対応」した、というのがその違いだそうです。その時、課題について思うことは、遅刻が災いか御声かを考えるよりも、すべきことを改めていく時、その答えを得られるのではないか、それが「対応」ではないか、ということです。救いを妨げるものの内、世界観はBeingの部分で、生活習慣はDoingです、と伺いました。BeingなしにDoingはなく、逆もまた然りです。「愛」は行動なしにはあり得ません。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)
キリスト者であっても、完全ではありません。救われた後でも罪を犯し、悪習に引きずられてしまうことがあります。しかし、その罪や悪習に気付き、確かに悔い改めることができれば、それは祝福の道へと変えられるのです。神様は身を持ち崩した放蕩息子(娘)であっても、決死の思いで戻ってきて赦しを乞う時、走りよって来て抱き寄せて下さる方なのですから。
御声部屋で、そんな神様の愛の大きさ、深さ、広さ、長さ、偉大さに触れてもらえれば、と思います。来週の火曜日はサウスベイへお越しください!
〔写真は銀細工のカエル。(胡椒入れじゃありません)〕
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更に、霊の世界には中道(グレイゾーン)はなく、「祝福」か「災い」か、そのどちらかの選択しかないということを採り上げました。分かち合いの内に課題がありました。例えば、遅刻を繰り返してしまうのは、「怠惰」な罪ゆえの災いなのか? それとも「自力」から解放されるための「御声」なのか? という質問。いくつかの証しがされましたが、残念ながらはっきりした答えは得られなかったと思います。一方、もう一つの礼拝メッセージ中には、「反応ではなく対応を」 と語られました。これもまだ魂で消化中のため、今の段階では、明確な違いを文字にし難いのですが、一つの喩え話を聞きました。
英国のある晩餐会でのこと。食卓に置かれた見事な銀細工の胡椒入れに心奪われ、出来心でポケットに入れてしまったチャーチル首相の側近がいました。セキュリティが近づき、事態を悟ったチャーチルは、ポケットを見せるように迫られる側近の前に出て、「どうやら私たちは見つかったらしいよ。」と言いながら、自分のポケットから銀の塩入れを取り出した、というお話。
不名誉に対して叱責や切捨てなどの「反応」ではなく、悔いる心へ進ませるよう「対応」した、というのがその違いだそうです。その時、課題について思うことは、遅刻が災いか御声かを考えるよりも、すべきことを改めていく時、その答えを得られるのではないか、それが「対応」ではないか、ということです。救いを妨げるものの内、世界観はBeingの部分で、生活習慣はDoingです、と伺いました。BeingなしにDoingはなく、逆もまた然りです。「愛」は行動なしにはあり得ません。
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キリスト者であっても、完全ではありません。救われた後でも罪を犯し、悪習に引きずられてしまうことがあります。しかし、その罪や悪習に気付き、確かに悔い改めることができれば、それは祝福の道へと変えられるのです。神様は身を持ち崩した放蕩息子(娘)であっても、決死の思いで戻ってきて赦しを乞う時、走りよって来て抱き寄せて下さる方なのですから。
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〔写真は銀細工のカエル。(胡椒入れじゃありません)〕
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私たちは、どうしても相手の間違いを追及してしまいがちですが、本当の愛は、相手の弱さを補って余りあるものへと変えることができるのですね。