今日のメッセージは、ルカ16章のラザロと金持ちの話から、死後の世界のこと、そして救いについて確かめました。死後の世界をはっきりと語っているのは、聖書しかなく、これは私たちの信仰の基本です。同じ信仰を持つとは言え、色々な人の色々な意見を聞きます。それらを聞き、受け入れる前に大切なことは、「聖書はどう言っているか」、BACK TO THE BIBLEの姿勢。聖書が語っていること基本として再確認しました。
ルカ伝ラザロと金持ちの話は、聖書の中でも死後の世界について記されている独特な記事で、他の福音書には記載がありません。ここから、聖書の語る死後の世界について読み取れることをまとめました。
これは実際にあった話であること。
イエス様の譬え話は「ある人」と名前なしで語られますが、これは「ラザロ」という実名で記載されていますので、譬え話ではありません。
死後の世界は実在すること。
苦しい場所と、苦しくない場所の二か所があります。苦しい場所は「地獄(HELL)」ではなく、陰府(ハデス)というところです。苦しくない場所は、ユダヤ人には「アブラハムの懐」と呼ばれています。
死後、現世の記憶が残っている。
死後、生きている人と交信することはできない。
死後の二つの世界は相互に見ることができるが、移ることはできない。
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(26節)
最終的な裁きは、この後にある。
死後、人は一度黄泉へ行き、最後の審判を待つ状態に置かれます。今は終末の時で、やがてイエス様の再臨があり、悪が滅ぼされ、千年王国が始まります。最後の審判は、その千年王国の後にあり、そこですべての人が裁きを受け、天国行きか地獄行きかが決定されます。
そしてこの話の結論は、死語の世界のキーポイント、人生の答えは聖書にあるとあります。
『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)
『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)
両方にある「モーセと預言者」というのは、この時代の「聖書」を指します。聖書に耳を傾けよ、聖書に答えがある、と繰り返しアブラハムは答えているのです。
終末時代の今、映画やメディアでも多くのテーマが取り上げられていますし、教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなど、様々は教えが流布しています。中には明らかに間違っているものもあります。私たちキリスト者は、それら間違った教えに対する時、聖書に戻り、聖書で確認しなければなりません。今回、それぞれの意見を持つ前に、これだけは知っているべき大前提と、聖書が語る基本の確認を繰り返しました。
前提:
聖書、神様の言葉は、神様と「私(あなた)」のことです。他の誰か別の人のこと、人の救いについてではありません。「私(あなた)」自身で確認し、受け取ってこそ、神様の言葉なのです。
その聖書には、子供や福音を聞いたことがなくて死んだ人がどうなるかについて、直接的な記述はありません。だから、これ、という断定はできないのです。
基礎事項:
前述通り、イエス・キリストが再臨され、裁きがあり、人間の行き場所が二つに分かれる、という流れがあります。この順序は変わりません。そして、裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を受け入れているか、そうでないか」の一点のみです。
人間には「私の知っている神様ならこうあってほしい」、「愛の神様ならきっとこうされるはず」、という思いがあります。夢や幻、また超自然的現象で天国体験する人もいます。しかし、それらが自分の思いか、神様の啓示か、悪魔の誘いか、立証することはできません。「私の神様」が過ぎると、偶像になってしまうのです。極端な例はカトリックのマリア信仰です。だからこそ、聖書に戻って検証するのです。
最後に、天国には、どんな状況であっても罪を持った人はいません。いたら、そこは天国ではないのです。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ロマ5:12)
悲しい哉、人間は罪を持った存在として生まれます。胎児も子供も例外ではありません。そして死に支配されているのです。そこから解放のために為し遂げられたのが、イエス様の十字架であり、これが神様の恵みです。恵みとは、価値も資格もないのにいただけるもの、神様からの一方的な愛です。恵みは、受ける側が与えられなかったからと不満を述べる権利はありません。だから恵みなのです。そして悔い改めて求めるなら、誰にでも与えられるものなのです。
ルカ伝の金持ちは、死んで苦しいところに落とされました。酷い目に遭ったなら、誰でも「私がまちがっていた!」と悔い改めるかと思えば、彼は悔い改めていません。相変わらず、ラザロを使い走りと考え、自分の立場を変えることをしていません。人間は死んだらその時点でその意識や価値観は固定されてしまって、悔い改めができなくなるのです。だからこそ、今、生きている間に福音を伝えること、聞くこと、イエス・キリストに出会うセッティングをすることが大切なのです。今しかできないことが、確かにあるのです。「なぜ、私が地獄へ行くの?」、この不満をぶつけるのは今です。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにあります。今日、あなたの人生を天国行き人生に変換させましょう。恵みは求めるなら、誰にでも与えられるのですから。
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ルカ伝ラザロと金持ちの話は、聖書の中でも死後の世界について記されている独特な記事で、他の福音書には記載がありません。ここから、聖書の語る死後の世界について読み取れることをまとめました。
これは実際にあった話であること。
イエス様の譬え話は「ある人」と名前なしで語られますが、これは「ラザロ」という実名で記載されていますので、譬え話ではありません。
死後の世界は実在すること。
苦しい場所と、苦しくない場所の二か所があります。苦しい場所は「地獄(HELL)」ではなく、陰府(ハデス)というところです。苦しくない場所は、ユダヤ人には「アブラハムの懐」と呼ばれています。
死後、現世の記憶が残っている。
死後、生きている人と交信することはできない。
死後の二つの世界は相互に見ることができるが、移ることはできない。
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。(26節)
最終的な裁きは、この後にある。
死後、人は一度黄泉へ行き、最後の審判を待つ状態に置かれます。今は終末の時で、やがてイエス様の再臨があり、悪が滅ぼされ、千年王国が始まります。最後の審判は、その千年王国の後にあり、そこですべての人が裁きを受け、天国行きか地獄行きかが決定されます。
そしてこの話の結論は、死語の世界のキーポイント、人生の答えは聖書にあるとあります。
『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』(29節)
『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(31節)
両方にある「モーセと預言者」というのは、この時代の「聖書」を指します。聖書に耳を傾けよ、聖書に答えがある、と繰り返しアブラハムは答えているのです。
終末時代の今、映画やメディアでも多くのテーマが取り上げられていますし、教会内でも携挙の時期やセカンドチャンスなど、様々は教えが流布しています。中には明らかに間違っているものもあります。私たちキリスト者は、それら間違った教えに対する時、聖書に戻り、聖書で確認しなければなりません。今回、それぞれの意見を持つ前に、これだけは知っているべき大前提と、聖書が語る基本の確認を繰り返しました。
前提:
聖書、神様の言葉は、神様と「私(あなた)」のことです。他の誰か別の人のこと、人の救いについてではありません。「私(あなた)」自身で確認し、受け取ってこそ、神様の言葉なのです。
その聖書には、子供や福音を聞いたことがなくて死んだ人がどうなるかについて、直接的な記述はありません。だから、これ、という断定はできないのです。
基礎事項:
前述通り、イエス・キリストが再臨され、裁きがあり、人間の行き場所が二つに分かれる、という流れがあります。この順序は変わりません。そして、裁きの基準は「イエス・キリストの十字架を受け入れているか、そうでないか」の一点のみです。
人間には「私の知っている神様ならこうあってほしい」、「愛の神様ならきっとこうされるはず」、という思いがあります。夢や幻、また超自然的現象で天国体験する人もいます。しかし、それらが自分の思いか、神様の啓示か、悪魔の誘いか、立証することはできません。「私の神様」が過ぎると、偶像になってしまうのです。極端な例はカトリックのマリア信仰です。だからこそ、聖書に戻って検証するのです。
最後に、天国には、どんな状況であっても罪を持った人はいません。いたら、そこは天国ではないのです。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 (ロマ5:12)
悲しい哉、人間は罪を持った存在として生まれます。胎児も子供も例外ではありません。そして死に支配されているのです。そこから解放のために為し遂げられたのが、イエス様の十字架であり、これが神様の恵みです。恵みとは、価値も資格もないのにいただけるもの、神様からの一方的な愛です。恵みは、受ける側が与えられなかったからと不満を述べる権利はありません。だから恵みなのです。そして悔い改めて求めるなら、誰にでも与えられるものなのです。
ルカ伝の金持ちは、死んで苦しいところに落とされました。酷い目に遭ったなら、誰でも「私がまちがっていた!」と悔い改めるかと思えば、彼は悔い改めていません。相変わらず、ラザロを使い走りと考え、自分の立場を変えることをしていません。人間は死んだらその時点でその意識や価値観は固定されてしまって、悔い改めができなくなるのです。だからこそ、今、生きている間に福音を伝えること、聞くこと、イエス・キリストに出会うセッティングをすることが大切なのです。今しかできないことが、確かにあるのです。「なぜ、私が地獄へ行くの?」、この不満をぶつけるのは今です。家の教会はそのために、いつでもどこでも福音を伝える場としてここにあります。今日、あなたの人生を天国行き人生に変換させましょう。恵みは求めるなら、誰にでも与えられるのですから。
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