9月22日夕方から23日の夕暮れまで、イスラエルはヨム・キプール(大贖罪日)でした。悔い改めの日。その日、フェイスブックで以下の投稿を見て、私自身も悔い改めを導かれました。『またか?』と思われるでしょうが、ブログも悔い改め。きっかけとなった投稿を記録します。
「ヨム・キプールについて ピーター・ツカヒラ師」
今、終わりの時に私たちは立たされている。大贖罪日が近付いている。自らを吟味し、神様に立ち返る日。神様との関係が本来あるべき姿かどうか確かめる日。
義の門よ。 私のために開け。 私はそこから入り、主に感謝しよう。<詩篇118:19>
ヨム・キプールに主のきよめの臨在が来るよう祈ります。喜びを持って悔い改めることが出来ますように。ヨム・キプールの日は自らの魂を引き裂く時。私たちの肉に対して普段の快楽を拒む時。そうして、神様の御顔を求める時。普段の仕事の忙しさから離れる時。そして永遠の価値を思う日。
聖書のヨム・キプールは一年に一度の贖いの日として設けられている。 祭司の家族、大祭司が至聖所に入ってささげものをする。キリストの血を象徴する血を携え至聖所に入る。わたしたちの心を整えるのがこの日。自分の人生を思い返す日。最後の審判に私を裁かれる方の前に立ちおおせるか。
わたしはあなたがたに、 こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、 さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、 あなたのことばによるのであり、 罪に定められるのも、 あなたのことばによるのです。 」<マタイ12:36-37>
ここでイエス様は愛を持って弟子たちを教えられていた。神のことばの前ではすべての人は哀れみが必要。私のこころと思いにきよめと哀れみが必要。舌を制御することは難しい。誰もが口の言葉で失敗をする。
ヨム・キプールはこれを覚え、悔い改める日。このようなことを主の前に持って行く日。すべての間違ったことをイエス様の血で洗い流してくださいという日。そして、信仰に堅く立つ時。
主は全てのことをきよめて下さるという信仰を持つ時。神様だけこれをなして下さる。神は全ての罪から赦して下さる。傷つけた人がいるなら、その人のところに行って謝る。その傷を癒やされるのは主のみ。
ヨム・キプールはこれらのことを覚える時。新しい日のように、新品にして下さる日。
また私は、 死んだ人々が、 大きい者も、 小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、 数々の書物が開かれた。 また、 別の一つの書物も開かれたが、 それは、 いのちの書であった。 死んだ人々は、 これらの書物に書きしるされているところに従って、 自分の行いに応じてさばかれた。<黙示録20:12>
ヨハネは終わりの日を示された。自分を吟味する日がヨム・キプール。自分がやった全ての純粋でない、悪いことを悔い改める日。信仰の確信により、神のみこころでない行った全てのことを主に哀れみをこう日。神様は契約を持って私たちに約束をしてくださっている。大きな罪も小さな過ちも全て神が拭い去って下さると確信する。
さばきの日は必ずやってくる。まるで聖霊様の学校にいるよう。神様は私を愛しており、教師であり導き手である御方。このお方に頼り、最終試験、裁きをパスすることを御言葉から学ぶ。
私が学生の時最悪のクラスになった。教師がひどい教師だった。それは数学の授業。その授業は嫌だったが、最終試験が待ち受けていた。心はどんなに頑張っても無理なことを知っていた。この日が近づくにつれて、罪に定められる思いが来た。まるで滅びに向かっていくように感じる試験を目前にして、先輩が来た。「君たちが心配しているのは数学の試験だろ」と言った。なぜ知っているのかというと、自分たちもそこを通ったからといった。その教授は毎年同じ試験問題を出すので、過去問を教えてくれた。これは恵みだった。だから、最後の試験にパスされ、今、こうして皆さんの前で話せている。
最終試験があるが、助けがある時その試験に合格する事が出来る。最終試験の時、二つの部分がある。大切な事は、その時にまでどのように生活するかという事。
もう一つは先程読んだみことばがはっきり語っていることは、行いは大切ということ。イエス様はあなたの言葉によって義とされると言っている。あなたが何を口から語るかは大切な事。ヨハネが黙示録の中で彼らは行いに応じて裁かれたと言っている。すごく重要なポイント。神について正しいことを知っていることは大切。自分の言ったこと、行ったことが裁かれる。
試験には一部と二部がある。あなたの語ること、行なうことが大切。言ったこと、やったこと。どのように生きたかが大切。だから、慈愛のもとに生活すること、正直のもとに生きること、イエス様の純粋さを追い求めるきよさ、イエス様の信仰、希望がほしい。もっと重要な事は神様の愛がほしい。どのように生きているか。神の愛の中に生きているか。まわりの一人ひとりに愛を示すという努力をしているか。自分の家族から始まり、周りの人、そして敵に至るまで。
こころを主に向けて集中する生き方。神様を愛している人に対しては素晴らしい約束がある。すべてのことを働かせて益として下さる。まちがいも失敗もひっくり返して益としてくださる。神の目的に召されている人々はそうなる。神様には義の基準があり、目的もある。地上で達成したいこともある。それは私を通して行いたい。
神様の素晴らしい恵みを与えらるのを見たことがある。人生で大きな欠点を持った人に対して。神様がやってほしいことを行っていたゆえに絶大な恵みを受けた人を知っている。逆に、神様がして欲しいことをしてないことで裁かれた人も知っている。
それはあなたが私の内臓を造り、 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。詩篇139:13
あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、 書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、 その一日もないうちに。詩篇13916
神様が私を造られ、デザインして下さった。毎日緻密に計画を私のために計画を立てておられる。それは生まれる前から。神様の目的を知りたかったらダビデが言っているように、偶然は一日もないということを知る必要がある。エレミヤも同じ結論に達した。
「わたしは、 あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、 あなたを国々への預言者と定めていた。」<エレミヤ1:5>
神はエレミヤの人生を造り召しに呼ばれた。聖書の中には私個人のために模範がある。私たちは神の御手によって計画を持って大切に造られた存在。髪の毛の数も知っているお方。あなたを備えた、計画に応じて造られた。そして、その目的、計画に沿って生きていて、実を結んだかと主は問われる。
試験で問題に何が出るかを知っていることは大切。他の人と比べる必要はない。他の人の夢、ビジョンに対して主はあなたに申し開きを求めない。あなたに関して主は問われる。エレミヤも、ダビデもあなたを神の中で組み立てたと言っている。あなたが生きる前からそれらは全て計画されていた。あなたには大きな計画、デザインがある。
今、悔い改めの話をしている。悔い改めが必要ない分野もある。英語では神は悔い改め、思い直しをしないと書かれている。あなたの召命に対して思い直しをしない。今、あなたはどのように生きているか。どのように神に対しての純粋さを保っているか。
もう一つ大切なのは、主が私達を神の子として造った。その道にしっかり歩めているか。他の人の願いなどに歩んでいないか。ヨム・キプールにその事を悔い改めるべき。自分の死んだ行いから立ち返るべき。命をもたらさないことから主に戻るべき。それは主にある完全な人生。命を与える方に立ち返る時。毎年この年を主が備えてくださっていることに感謝する。まことの大祭司が私たちのために贖罪をして下さる日。リセットボタンが押される日。
裁きの日は神の顔に笑顔があると信じている。裁きの日に弟子たちが語った。タラントの話がそれ。主人が長旅に出て、その人が3人のしもべにお金を預け、10タラント、5タラント、1タラント与えた。主人が戻ってきた時、タラントを増やした人と増やさなかった人に違うことを言われた。増やした人には「よくやった、よく忠実なしもべだ。小さなものに忠実だったので、大きなことをまかせよう」と言われた。このような人になりたい。主が与えて下さった人生の全てを用いたい。3人目のしもべは神様が与えてくださったものを隠した。盗んでなく、無くしたものでもなく、与えられたものを返した。彼は行いが違っていた。何を信じ何をするかが大切。
ヨム・キプールの日は機会を与える日。王のもとに出て行って、今、主の笑顔を見出す時。最後の日までそれを待ってはいけない。信仰の先輩の話を聞こう。試験に何が出るのかわかったらそれに集中して勉強する。ほしいのは主の笑顔。ヨム・キプールは集中する日。聞く耳がある人、御霊が民に言っているのがきこえるでしょう。今日、この日を離れて、主の笑顔を知るでしょう。主を喜ぶことは私たちの力です。
ヘブル書の記者が贖い、血の生け贄について書いている。動物のいけにえは私たちを完全にできない。今、イスラエルで起きていることを文脈で説明したい。神殿の丘で最近衝突が起きている。イスラエル人が神殿を建てなおそうととても熱心。彼らは動物のいけにえを戻そうとしている。そのために熱心になっている。再び祭壇に動物の血が捧げられるために一生懸命になっている。ところがヘブル書の著者は、動物のいけにえは完全にされないと言っているlだから毎年捧げなければならない。しかし、ただ一度ささげられたいけにえがある。十字架において流され天の至聖所に捧げられた神の小羊の血。それによって義の門が開かれる。ヨム・キプールは主の前に来て主イエスの血潮を覚える日。
しかしキリストは、 すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、 手で造った物でない、 言い替えれば、 この造られた物とは違った、 さらに偉大な、 さらに完全な幕屋を通り、また、 やぎと子牛との血によってではなく、 ご自分の血によって、 ただ一度、 まことの聖所に入り、 永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、 やぎと雄牛の血、 また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、 それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。<ヘブル9:11>
これは効力がある。私たちが言ったこと、やったこと全て永遠に至らないすべてのこと。これを主の前に持っていくのがこの日。完全にされた心を持って新しくされるのがヨム・キプール。次の年の準備の勝利の時。神の御国の基準を持つ日。今年、ひとりひとりにおいて、きよめられた良心を持って歩める一年となる。高いレベルのきよさを与えられる。もっと隣人を愛するようになれる。今まで以上に神の愛の中に歩める。そのような一年になります。
もっと信仰の目が開かれ、目的をはっきり見ることができるように。今年、主のことばを聞きます。これが主の顔に笑顔を作ること。これはひとりひとりが個別に聞く必要がある事。あなたがこの事を行なうなら、主が笑顔になられる。主の前に立つ時「よくやった」と言われる。あなたは正しく、うまくおこなった。それを私は全て見ていたぞ。と。 主人の喜びの中に入ってください。そのために歩んでください。なんという素晴らしき歩みだろう。
そのような神との正しい関係に歩める日を一年に一度設けてくださったことに感謝したい。しかし、賢い人はこれを毎日行う。その事を忘れていた人もヨム・キプールでその事を思い出せる。誰でも今日、この日、神の前で心を完全にして欲しいなら、今、神の御前に進み出る機会が与えられている。創り主と真剣な関係を築きたいと思っている人。これから私のすべてを捧げますと。新しい始まりがある。
今日がその日であって欲しいと思う人はいるか。今日、主の血潮によってきよめてほしい。主の明確な指示を得たいと思う人はいるか。主と真剣な関係になりたい人のために祈ります。
「ヨム・キプールについて ピーター・ツカヒラ師」
今、終わりの時に私たちは立たされている。大贖罪日が近付いている。自らを吟味し、神様に立ち返る日。神様との関係が本来あるべき姿かどうか確かめる日。
義の門よ。 私のために開け。 私はそこから入り、主に感謝しよう。<詩篇118:19>
ヨム・キプールに主のきよめの臨在が来るよう祈ります。喜びを持って悔い改めることが出来ますように。ヨム・キプールの日は自らの魂を引き裂く時。私たちの肉に対して普段の快楽を拒む時。そうして、神様の御顔を求める時。普段の仕事の忙しさから離れる時。そして永遠の価値を思う日。
聖書のヨム・キプールは一年に一度の贖いの日として設けられている。 祭司の家族、大祭司が至聖所に入ってささげものをする。キリストの血を象徴する血を携え至聖所に入る。わたしたちの心を整えるのがこの日。自分の人生を思い返す日。最後の審判に私を裁かれる方の前に立ちおおせるか。
わたしはあなたがたに、 こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、 さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、 あなたのことばによるのであり、 罪に定められるのも、 あなたのことばによるのです。 」<マタイ12:36-37>
ここでイエス様は愛を持って弟子たちを教えられていた。神のことばの前ではすべての人は哀れみが必要。私のこころと思いにきよめと哀れみが必要。舌を制御することは難しい。誰もが口の言葉で失敗をする。
ヨム・キプールはこれを覚え、悔い改める日。このようなことを主の前に持って行く日。すべての間違ったことをイエス様の血で洗い流してくださいという日。そして、信仰に堅く立つ時。
主は全てのことをきよめて下さるという信仰を持つ時。神様だけこれをなして下さる。神は全ての罪から赦して下さる。傷つけた人がいるなら、その人のところに行って謝る。その傷を癒やされるのは主のみ。
ヨム・キプールはこれらのことを覚える時。新しい日のように、新品にして下さる日。
また私は、 死んだ人々が、 大きい者も、 小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、 数々の書物が開かれた。 また、 別の一つの書物も開かれたが、 それは、 いのちの書であった。 死んだ人々は、 これらの書物に書きしるされているところに従って、 自分の行いに応じてさばかれた。<黙示録20:12>
ヨハネは終わりの日を示された。自分を吟味する日がヨム・キプール。自分がやった全ての純粋でない、悪いことを悔い改める日。信仰の確信により、神のみこころでない行った全てのことを主に哀れみをこう日。神様は契約を持って私たちに約束をしてくださっている。大きな罪も小さな過ちも全て神が拭い去って下さると確信する。
さばきの日は必ずやってくる。まるで聖霊様の学校にいるよう。神様は私を愛しており、教師であり導き手である御方。このお方に頼り、最終試験、裁きをパスすることを御言葉から学ぶ。
私が学生の時最悪のクラスになった。教師がひどい教師だった。それは数学の授業。その授業は嫌だったが、最終試験が待ち受けていた。心はどんなに頑張っても無理なことを知っていた。この日が近づくにつれて、罪に定められる思いが来た。まるで滅びに向かっていくように感じる試験を目前にして、先輩が来た。「君たちが心配しているのは数学の試験だろ」と言った。なぜ知っているのかというと、自分たちもそこを通ったからといった。その教授は毎年同じ試験問題を出すので、過去問を教えてくれた。これは恵みだった。だから、最後の試験にパスされ、今、こうして皆さんの前で話せている。
最終試験があるが、助けがある時その試験に合格する事が出来る。最終試験の時、二つの部分がある。大切な事は、その時にまでどのように生活するかという事。
もう一つは先程読んだみことばがはっきり語っていることは、行いは大切ということ。イエス様はあなたの言葉によって義とされると言っている。あなたが何を口から語るかは大切な事。ヨハネが黙示録の中で彼らは行いに応じて裁かれたと言っている。すごく重要なポイント。神について正しいことを知っていることは大切。自分の言ったこと、行ったことが裁かれる。
試験には一部と二部がある。あなたの語ること、行なうことが大切。言ったこと、やったこと。どのように生きたかが大切。だから、慈愛のもとに生活すること、正直のもとに生きること、イエス様の純粋さを追い求めるきよさ、イエス様の信仰、希望がほしい。もっと重要な事は神様の愛がほしい。どのように生きているか。神の愛の中に生きているか。まわりの一人ひとりに愛を示すという努力をしているか。自分の家族から始まり、周りの人、そして敵に至るまで。
こころを主に向けて集中する生き方。神様を愛している人に対しては素晴らしい約束がある。すべてのことを働かせて益として下さる。まちがいも失敗もひっくり返して益としてくださる。神の目的に召されている人々はそうなる。神様には義の基準があり、目的もある。地上で達成したいこともある。それは私を通して行いたい。
神様の素晴らしい恵みを与えらるのを見たことがある。人生で大きな欠点を持った人に対して。神様がやってほしいことを行っていたゆえに絶大な恵みを受けた人を知っている。逆に、神様がして欲しいことをしてないことで裁かれた人も知っている。
それはあなたが私の内臓を造り、 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。詩篇139:13
あなたの目は胎児の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、 書きしるされました。 私のために作られた日々が、 しかも、 その一日もないうちに。詩篇13916
神様が私を造られ、デザインして下さった。毎日緻密に計画を私のために計画を立てておられる。それは生まれる前から。神様の目的を知りたかったらダビデが言っているように、偶然は一日もないということを知る必要がある。エレミヤも同じ結論に達した。
「わたしは、 あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、 あなたを国々への預言者と定めていた。」<エレミヤ1:5>
神はエレミヤの人生を造り召しに呼ばれた。聖書の中には私個人のために模範がある。私たちは神の御手によって計画を持って大切に造られた存在。髪の毛の数も知っているお方。あなたを備えた、計画に応じて造られた。そして、その目的、計画に沿って生きていて、実を結んだかと主は問われる。
試験で問題に何が出るかを知っていることは大切。他の人と比べる必要はない。他の人の夢、ビジョンに対して主はあなたに申し開きを求めない。あなたに関して主は問われる。エレミヤも、ダビデもあなたを神の中で組み立てたと言っている。あなたが生きる前からそれらは全て計画されていた。あなたには大きな計画、デザインがある。
今、悔い改めの話をしている。悔い改めが必要ない分野もある。英語では神は悔い改め、思い直しをしないと書かれている。あなたの召命に対して思い直しをしない。今、あなたはどのように生きているか。どのように神に対しての純粋さを保っているか。
もう一つ大切なのは、主が私達を神の子として造った。その道にしっかり歩めているか。他の人の願いなどに歩んでいないか。ヨム・キプールにその事を悔い改めるべき。自分の死んだ行いから立ち返るべき。命をもたらさないことから主に戻るべき。それは主にある完全な人生。命を与える方に立ち返る時。毎年この年を主が備えてくださっていることに感謝する。まことの大祭司が私たちのために贖罪をして下さる日。リセットボタンが押される日。
裁きの日は神の顔に笑顔があると信じている。裁きの日に弟子たちが語った。タラントの話がそれ。主人が長旅に出て、その人が3人のしもべにお金を預け、10タラント、5タラント、1タラント与えた。主人が戻ってきた時、タラントを増やした人と増やさなかった人に違うことを言われた。増やした人には「よくやった、よく忠実なしもべだ。小さなものに忠実だったので、大きなことをまかせよう」と言われた。このような人になりたい。主が与えて下さった人生の全てを用いたい。3人目のしもべは神様が与えてくださったものを隠した。盗んでなく、無くしたものでもなく、与えられたものを返した。彼は行いが違っていた。何を信じ何をするかが大切。
ヨム・キプールの日は機会を与える日。王のもとに出て行って、今、主の笑顔を見出す時。最後の日までそれを待ってはいけない。信仰の先輩の話を聞こう。試験に何が出るのかわかったらそれに集中して勉強する。ほしいのは主の笑顔。ヨム・キプールは集中する日。聞く耳がある人、御霊が民に言っているのがきこえるでしょう。今日、この日を離れて、主の笑顔を知るでしょう。主を喜ぶことは私たちの力です。
ヘブル書の記者が贖い、血の生け贄について書いている。動物のいけにえは私たちを完全にできない。今、イスラエルで起きていることを文脈で説明したい。神殿の丘で最近衝突が起きている。イスラエル人が神殿を建てなおそうととても熱心。彼らは動物のいけにえを戻そうとしている。そのために熱心になっている。再び祭壇に動物の血が捧げられるために一生懸命になっている。ところがヘブル書の著者は、動物のいけにえは完全にされないと言っているlだから毎年捧げなければならない。しかし、ただ一度ささげられたいけにえがある。十字架において流され天の至聖所に捧げられた神の小羊の血。それによって義の門が開かれる。ヨム・キプールは主の前に来て主イエスの血潮を覚える日。
しかしキリストは、 すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、 手で造った物でない、 言い替えれば、 この造られた物とは違った、 さらに偉大な、 さらに完全な幕屋を通り、また、 やぎと子牛との血によってではなく、 ご自分の血によって、 ただ一度、 まことの聖所に入り、 永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、 やぎと雄牛の血、 また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、 それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、 キリストが傷のないご自身を、 とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、 どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者とすることでしょう。<ヘブル9:11>
これは効力がある。私たちが言ったこと、やったこと全て永遠に至らないすべてのこと。これを主の前に持っていくのがこの日。完全にされた心を持って新しくされるのがヨム・キプール。次の年の準備の勝利の時。神の御国の基準を持つ日。今年、ひとりひとりにおいて、きよめられた良心を持って歩める一年となる。高いレベルのきよさを与えられる。もっと隣人を愛するようになれる。今まで以上に神の愛の中に歩める。そのような一年になります。
もっと信仰の目が開かれ、目的をはっきり見ることができるように。今年、主のことばを聞きます。これが主の顔に笑顔を作ること。これはひとりひとりが個別に聞く必要がある事。あなたがこの事を行なうなら、主が笑顔になられる。主の前に立つ時「よくやった」と言われる。あなたは正しく、うまくおこなった。それを私は全て見ていたぞ。と。 主人の喜びの中に入ってください。そのために歩んでください。なんという素晴らしき歩みだろう。
そのような神との正しい関係に歩める日を一年に一度設けてくださったことに感謝したい。しかし、賢い人はこれを毎日行う。その事を忘れていた人もヨム・キプールでその事を思い出せる。誰でも今日、この日、神の前で心を完全にして欲しいなら、今、神の御前に進み出る機会が与えられている。創り主と真剣な関係を築きたいと思っている人。これから私のすべてを捧げますと。新しい始まりがある。
今日がその日であって欲しいと思う人はいるか。今日、主の血潮によってきよめてほしい。主の明確な指示を得たいと思う人はいるか。主と真剣な関係になりたい人のために祈ります。
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